第10話 光と影
「お前はまさか……ベアトリス号にいたなんてことは……」
忘れられないあの船の名前。
あり得ないと思いながらも私はそう聞いてしまった。翡翠色の目を持つ男の子はもっと幼かったはず。そして、自分よりも小さい子供の死は当時十四歳だった私にとってかなりの衝撃だった。
ジスランは悲し気に笑って、何かを耐えるように目を瞑った。翡翠のイヤリングが揺れる。
「あなたに思い出してほしくないと思っていたはずなのに。あんなみっともない自分を……それなのに浅ましいですね。あなたが取るに足らないガリガリの私を覚えていてくださったことが、こんなにも嬉しい」
「……やはり、お前はあの船にいた、あの時の……」
私は思わず手を伸ばす。ジスランは避けることなく、私が伸ばした手に犬のように頬を擦り寄せてきた。
頬を撫で、彼の目元に手を伸ばす。そう、この目、この色だった。暗い船室で遺体を抱いて私を見ていたのは。
「お前の弟があの船で死んだ」
「私は孤児ですから、弟分です。体の弱い子でした。ぎゅうぎゅう詰めで暗い、酸素の薄い船室であの子はあっけなく死んでしまった」
謝ろうと口を開いた。
私がもっと早く踏み込んでいればあの子は死ななかったかもしれない。ベアトリス号の所有者が高位貴族だったから、私は踏み込むのに二の足を踏んだのだ。今と比べて圧倒的に経験も勇気も足りなかった。
ジスランの指が一本すっと伸びて、私の唇の前に差し出される。
「謝ってはいけません。殿下が謝れば私はその百倍、謝らなければいけなくなります」
「それでも……私は」
私だけは彼らを忘れてはいけない。彼らの死にざまを私は見てしまったから。普通の王女であれば、私は見なくて済んだだろう。
「私はあの時、殿下に助けられました。一緒に売られかけた子は元々弱っていたので死にましたが。だから、殿下を否定することは私を否定することなのです」
「生き延びたならお前はなぜ武器商人に……普通に生活していけば良かっただろう。武器ではなく他の商品を扱う商人にでもなって、普通に結婚して……。あの日以降私は人身売買を許したことはない。人を売る奴らを、そして魔物を、隣国を、私は決してお前に近づけなかったのに」
「きっと私はあの日まで死んだように生きていたのでしょう。あなたが私に息を吹き込んだ。私はあの日に誓ったのです。あなたのような存在がいるのなら、私は傍観者にはならない、私はあなたの影になりたい、と」
ジスランは歌うように告げると、ぐっと私に顔を近付けて来た。彼が手をついたベッドがギシリと軋む。でも、私は彼の目から目を逸らせなかった。
「ひっそり隠れるようにあなたと一緒に存在して、生きて、見えないようで必ずあなたの側にいる。私は貴族ではなく栄養状態の悪い孤児でしたから騎士の道は厳しかったのですよ。それでも光とともにいたいと思ってしまった。だから、武器商人になりました」
翡翠色の目を前にして私は言葉に詰まった。ジスランにどう告げていいか分からなかったのだ。私が彼の人生を捻じ曲げたのかもしれない。人身売買からは救ったけれど、その後どうなったかなんて気にも留めていなかった。
「殿下が逃げたかったら、私は手を貸します。ご家族に復讐したかったら兵力と武器を用意しましょう。私はあなたの影なのですから」
「私に……家族を殺せと言うのか」
「そのご家族に殺されかけたのに、殿下はお優しい」
証拠なんてない。いや、目の前の男なら証拠くらい掴んでいるかもしれない。
「もう少し休んで考えますか? 私はどんな選択でも、殿下をお助けします」
「……水を」
ジスランはすぐに水の入ったグラスを寄越した。
「怪我の処置はしましたが、まだ休息が必要でしょう」
「眠りたくない。目を閉じたら、死んだ部下たちが見えるから」
水を一気に飲み干すと、ジスランにグラスを押し付けた。
「彼らは何と言っていますか?」
「死者の気持ちを推し量るのは傲慢なのだろう?」
「えぇ、ですから彼らは王女殿下の声の代弁者なのです。あなたが心の奥底で思っていることを彼らは口にしているはず」
「分からない。部下たちは私を見ている。ずっと見ている」
ジスランの体の向こうに、死んでいった部下たちが今にも見えそうだった。いつも場を和ませるノアに、時間に厳しいロイス、護衛騎士だったのに私の部隊に入ってくれたジョシュア……。
こみ上げる心の痛みが涙で出そうになる。ここで死なせるつもりなんて、なかったのに。
「生き残った私に彼らが死ぬだけの価値があったか、知りたいんだ」
「人間なんて誰でもいずれ死にます。殿下は彼らから何を託されたのですか? 彼らは殿下が逃げることを望みましたか? 平穏な世界で王女様として何不自由なく生きて欲しいと言っていましたか?」
「そんなことは知らない。ただ、私は、国を守るために戦っていただけだ」
「今回、殿下と殿下の部隊は死んだと発表されるでしょう。遺体は私がすべて回収しましたけれども。そうすると、どうなると思いますか?」
「どう……まさかホロックスに攻め込むのか? 私を口実にして」
「大いにあり得ます。殿下の弔い合戦と称して、徴兵をして士気を高めて武器を大量に買い込んで攻め込めるまたとない機会です」
「それだけはやってはいけない。そんな戦争は」
ホロックスは好戦的な国だ。辺境の小競り合いなら何度もあったが、本格的に宣戦布告まですればどのくらい戦争が長引くか分からない。
「国王陛下は領土拡大をこの機会に狙っているでしょう。戦争が起きると儲かる層も噛んでいますね。そうでなければ、王女殿下を殺そうとしないでしょう」
父はそんなことを望む人だっただろうか。私が知らないだけなのか。
魔物の討伐なら、私が出て行かなくてもいい。私が行くと早く収束するからよく向かっていただけ。それに、遠征が多くて父とも兄とも大して会話をしていない。
「……ジスランは私の味方なのか」
「えぇ。九年前からずっと、あなたは私の光でした」
血を分けたはずの家族がひどく遠い。決して助けてくれない傍観者のような存在になってしまった。私は父と兄の治世のためにも戦っていたのに。
それなのに思いもよらない他人は私を積極的に助け、寄り添ってくれる。家族がよもや他人より劣る存在になるとは。
「父と兄が私を裏切ったのか、確かめなければいけない」
武器商人は愛想のいい笑みを変わらずに浮かべ、頷いた。
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