第42話 文化祭初日⑨
*
「……そっか」
俺の長い説明を聞き終えた杠葉はポツリと呟いた。
俺たちはいま、校舎の壁面に並んで背を預けていた。この場所はちょうど敷地の北側に位置していて、背の高い校舎が天高く昇る太陽から俺たちを守ってくれている。おかげで何者に邪魔されることなく、ゆっくりと話すことができた。
基本的には神楽坂に対して行った説明をなぞったような形にはなったが、それでもきちんと俺の考えを、俺の口から説明できたように思う。
杠葉は俺の目を見て柔らかく笑う。
「ありがとうね、天ヶ瀬くん」
「……怒らないのか、杠葉」
そう言って、罪悪感を軽くするために杠葉に怒られたいと思ってしまった自分に気づき、俺はすぐさま後悔した。
何様のつもりだ。
図々しいにも程があるだろう。
自分で自分をポカリと殴りたくなる。
自己嫌悪に陥る俺の様子に気づくこともなく、杠葉はキョトンとした表情を浮かべた。
「ん、怒るって何を?」
「何をって、それは――例えば俺が杠葉に黙って裏で色々動いていたこととか」
「え、どうしてそれで怒らなきゃいけないの?」
杠葉は気を遣っている風でもなく、本当に理由がわからないといった様子で首を傾げた。
「そりゃ、事情を知った時はショックだったけれどね。親友と彼氏が裏でくっついてたってのはもちろん、神楽坂さんが一条の誘いに乗ったフリをしたのが
ぎゅっと眉を顰め、わかりやすく怒り始める杠葉。神楽坂の説明を思い出すごとに彼女の怒りの切れ味は鋭く尖っていく。
「結果的には傷が浅いうちにクズ男と別れるきっかけにはなったけれど、でもそれは本当に結果論だしね。ここ一ヶ月のわたしの感情はなかったことにはならないから。ま、さっき会った時に神楽坂さんには謝ってもらったし、もうあんまり気にしていないけれどね」
そう言いつつも杠葉の表情は険しい。
気にしていないというのは建前なのだろう。
それくらいは俺にもわかる。
「とにかく、そこらへんの事情は別に天ヶ瀬くんが原因というわけでもないでしょ? だからキミに対しては怒ったりはしないよ。それは本当。わたしを助けてくれたのに、どうして怒ることがあるのよ」
「……でも、神楽坂に復讐するって方の望みは俺が勝手に潰してしまったようなものだし」
俺の言葉に、杠葉は「あー」と間延びした声を漏らし、小さく笑った。
「いいんだ、それは。ぶっちゃけさ、そっちの方は途中からそこまで拘ってなかったんだよねぇ。というか、天ヶ瀬くんのことだからどうせ神楽坂さんに冷たくなんて出来っこないって思ってたし。それに随分と仲良くなっちゃったみたいだしねぇ?」
杠葉は笑顔を貼り付けたまま続ける。
あまりにもぴったり貼り付いていて静止画と見紛うほどである。
それがどんな感情の発露であるかは言うまでもない。
「……言いたいことがあるなら遠慮せず言ってくれよ」
「うん? 別に言うことはないよ? 裏側で天ヶ瀬くんと神楽坂さんが仲良く放課後デートしてたこととか、休日に二人きりで散歩したこととか聞かされても何とも思わないし。よ、色男憎いねー!」
へいへーい! と言いながら杠葉が肩を揺らし、俺の肘あたりにぶつけてくる。それは一見すると仲の良い友人同士の戯れにも映るのだけれど、彼女にぶつかられた後の俺が倒れそうになったことを踏まえれば、それはもはや突進にも等しかった。
どうやら神楽坂が説明にかこつけて全部話したらしい。
……あいつ、絶対わざとだよなぁ。だって言う必要ねぇもの。
「杠葉、ごめん。別にお前を裏切るつもりでそういうことをしたわけじゃなくて、成り行きというか、偶然というか」
「んん? どうして言い訳みたいなこと言ってるの? 謝る必要なんてどこにもないよ? 復讐対象の神楽坂さんと
「その疑問形連打で怒ってないは無理があるよぉ」
「だから怒ってないってば。神楽坂さんと随分仲が良くなったみたいでわたしも自分のことのように嬉しいんだから」
何を言ってもけんもほろろといった具合で、すぐ隣から向けられる突き刺すような彼女のジト目に耐えられず俺は思わず顔を背ける。
杠葉は狼狽する俺の様子をひとしきり楽しんだ後にようやく破顔し、「冗談だよっ。天ヶ瀬くんは本当に嘘や言い訳が苦手なんだねぇ」と茶目っ気たっぷりに笑う。
嘘つけ、絶対冗談じゃなかったぞ。
そんな反論が喉元まで出かかるが、それよりも早く杠葉が口を開く。
「正直に言うとね」
それまでも打って変わって、妙に清々しい表情で切り出す。その言葉と相まって、どこか懺悔を受ける神父のような気分になりながら、彼女の二の句を待つ。
しかしそれとは裏腹に杠葉の言葉は続かない。切り出してしまったことを後悔するように『しまった』という表情を浮かべたかと思えば、解決の糸口を探すように視線を虚空へと彷徨わせた後、言い淀みに言い淀みを重ねる。
「……えぇと、うぅん……あー、やっぱなし。今のなし! 気にしないでちょーだい!」
「なんだそのめちゃくちゃ気になる感じ。そんなお預けの仕方があるかよ」
「ノーカンだよノーカン! 記憶にございません!」
「そんな誤魔化し方もねぇだろ」
「細かいなぁ! 何でもないったら何でもないの!」
どうも杠葉的にはかなりの失言をしかけたらしかった。こうも捲し立てるように言われてしまっては、こちらとしてもそれ以上詮索することは憚られる。杠葉のことはなるべく怒らせたくないものである。
仕切り直しとばかりに小さく咳払いをした杠葉は、再び真っ直ぐに俺の目を見つめる。
「とにかく! 神楽坂さんはともかくとして、一条にやり返すのは、わたし自身のケジメのためにも重要なことだったから、綺麗に着地させてくれたことに感謝こそすれ、天ヶ瀬くんに対して怒る理由なんてないんだよ」
「――そっか」
彼女の言葉を咀嚼して、俺は頷いた。
杠葉がそう言ってくれるのであれば、これ以上俺が自罰的になるのも違う気がした。自責も行きすぎてしまうと人を不快にさせてしまいかねない。これ以上の懊悩は文字通り自分の心の深くにしまい込んで、俺だけのものにしておこう。
「しかし、まさか聖奈とやらかしてくれてるとはねぇ。流石に予想外だったよ」
杠葉は思いの外さっぱりした口調でそんなことを言った。何の気なしに揺らした杠葉の肩が、再び俺の肘にぶつかる。先ほどとは違う優しく柔らかな感触にドギマギさせられる。
「わたしも出来る限り一条の行動には気をかけてたつもりだったのだけれど、全然そんな様子なかったからさ」
彼女が気づかなかったのも無理はない。
一条はどうやら杠葉に委員の仕事が入っている時を見計らって事に及んでいたフシがある。思えば、ラーメン屋の帰りに見かけたあの日も杠葉は委員の仕事で不在だった。一条がこちらの思惑に気がついていたとまでは思わないが、ヤツもヤツなりに慎重を期していたということだろう
「はぁ……なんだか、色々と気を遣わせちゃってごめんね」
杠葉は深いため息を漏らした。
「……別に、謝られるほどの気を遣った覚えもないけど」
「そんなことないよ。気を遣ったからこそ、わたしに何も言わなかったんでしょ?」
杠葉の曇りない眼が、じっと俺の心の内側を見つめてきているような気がして、思わずどきりとさせられる。
「わたしだってバカじゃないもの。わたしのことを考えてくれていたからこそ天ヶ瀬くんが何も言わなかったんだって、それくらいはわかるよ」
そう言って、杠葉はどこか自嘲気味に笑った。
「もし万が一、わたしの無謀な作戦――いやこの場合作戦とすら呼ばないかもね。言うなれば挑戦かな? それが成功するなら――もしも一条がすんなり非を認めて折れてくれるのならば、わたしが一条と聖奈の関係を
杠葉は俺の反応を確かめるように目を細め、俺の顔を覗き込んでくる。
俺は肯定も否定もしない。
……いやまぁ確かに、考えていたこと自体は杠葉の言う通りではある。もちろん、一条と藤澤の関係はどこかで知ることになっただろう。けれど、今この瞬間でさえなければそれでよかった。正式に別れた後ならば、二人が付き合い始めたことを知った瞬間には多少傷つくかもしれないが、きっとその傷はすぐに癒えるだろう。少なくとも、自分と付き合っている裏で藤澤と浮気していたことを知るよりもずっと傷は浅いはずだ。
真意を見抜かれるのが妙に気恥ずかしくて、
「さぁ……どうだろ」
そんなありきたりな言葉で誤魔化してみると杠葉は、
「素直じゃないなぁ」
と笑った。
屈託なく、明るい、杠葉らしい笑顔だとそう思った。
彼女が今こうして笑えているならば、俺のやったことも決して無駄ではなく、無粋でもなかったのだろう。
そう思えるような気がして、ほんの少し救われた気分になる。
「それじゃ、そろそろ行こっか。ねぇ、どうせなら二人でちょっと回っていこうよ! わたし、お腹空いちゃった」
杠葉は外壁から背中を浮かし、お腹をさすりながら照れくさそうに言った。
「――あの、さ」
そんな彼女を留めるように、俺は小さく切り出した。杠葉は不思議そうな表情でこちらを覗き込んでいる。
俺がこれから彼女にかける言葉は――言うべきセリフはずっと前から決まっていたものだ。
必要なのは、ほんの少しの勇気。
「杠葉に一つだけ言いたいことが、あるんだけど」
「……聞くよ」
躊躇いがちに切り出した俺に対し、どこか緊張した面持ちで答える杠葉。もしかしたら俺が何を言おうとしているのか勘付いたのかもしれない。まるで初対面どうしのお見合いのように、互いが互いの緊張を感じとる。いや、お見合いなんてしたことないけれど。
あぁ、まずい。
マジで緊張してきた。
手のひらにじんわりと汗が滲み、ヌルヌルとして気持ちが悪い。きっとこれは暑さのせいだけではないのだろう。そのまま手を開いていると、胸の奥で固めた決意が滑って逃げてしまいそうで、俺は堅く拳を握った。
「その、もし、杠葉がよければなんだけれど、俺と、その」
「……」
言うべきことはハッキリしているのに、緊張と羞恥で上手く言葉が繋がらないもどかしさは、話している俺だけでなく聞き手である杠葉にも伝わっていることだろう。
それでも、杠葉の瞳はまるで子どもの発表会を見守るように静謐で、それでいて決して冷たいものではなく、そんな彼女の表情に背中を押される気持ちも覚えながら、俺は必死に言葉を紡いでいく。
「俺と――友だちになってほしい」
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