第41話 文化祭初日⑧


 神楽坂への釈明が終わった後も俺は校内にとどまることにした。杠葉に対する諸々の説明が済んでいない状態で帰宅することは流石の俺にも憚られたという次第だ。

 クラスの方にも顔を出してみたが杠葉の姿はなかった。幸いシフト自体は杠葉なしで組んでいたようで、特に支障なく回っているらしい。まぁ、杠葉のことだからそこまで頭に入れた上での行動なのだろうけれど。


 立ち聞きした限りにおいては、未だ一条に関する噂は広まっていないようだった。杠葉と別れたこと、藤澤と浮気していたこと、どちらであっても誰かの耳に入れば、その時点でクラス中に知れ渡るような内容だろうが、教室にはそうした雰囲気はない。

 まぁそれも当たり前か、と自己解決。一条が自分から言い出すワケもなく、また杠葉についても一条と別れたことを友だちに打ち明けるのもきっと文化祭が明けてからになるのだろう。お祭りに水を差すようなことは彼女も望まないはずだ。当然ながら、俺や神楽坂の口から誰かに漏れ伝わることもないため、文化祭期間中に噂が広まることはおそらくないだろうと予想する。


 ちなみに教室にいたクラスメートたちは、全員がクラスTシャツを着用していた。HRの時にはまだ皆いつもの夏服姿だったから、きっとほとんどの生徒がワイシャツの下に着て登校してきていたのだろう。一応、俺にも支給されていて持参もしているのだけれど、すぐに帰る気満々だったこともありさすがに家から着てくることまではしていなかった。こういうところで自分の協調性の無さが見え透いて、自分で自分が嫌になる。


 とはいえ今さら着替える気にもなれなかった俺は、制服姿のまま校内をぷらぷらと彷徨い歩いていた。特に行くアテもなく教室から教室へとそぞろ歩きながら、時折休憩所の椅子に腰を下ろして時間を潰していく。会長のエンジェル喫茶に顔を出すこともチラリと脳裏をよぎったが、一人で入店する勇気が持てず断念。一人で行動することに抵抗があるわけではないのだが、そうは言っても恥ずかしいものは恥ずかしいのである。


 朝一の灰色模様と打って変わって正午を過ぎた頃には晴れ間も覗いていた。おかげで外気温は三十度に達しており、多くの人が暑さと直射日光から逃げるようにして校舎内を巡っていた。おかげで、冷房が完備された教室内はともかく、ゆっくりとした歩行を強いられるほどに人で溢れかえった廊下は、不快指数で言えば外とほとんど変わらないのではとすら思うほど、人口密度に起因する熱気に満ち満ちていた。


 いい加減校内を彷徨くのにも限界を感じてきたし、そろそろ杠葉を探すか。

 思い立ったが吉日、杠葉にチャットを送ると、一分もしないうちに返事が返ってくる。


『ちょっと外で話そっか。文化祭デートしようよ


 そんなメッセージとともに集合場所が送られてきた。

 人混みをかき分けて廊下を進み、ようやく昇降口に辿り着いたところで、クラスTシャツ姿の杠葉が下駄箱にもたれかかるようにして待っているのが見えた。考え込むように俯き加減で俺の姿を見つけると、杠葉はぱっと表情を明るくさせ、ひらひらとこちらに手を振る。


「やっほ、さっきぶりだねっ。お祭り楽しんでる?」

「ま、ぼちぼちってとこ」


 どこかの店に入ったわけでもなく、またクラスの出し物を手伝っているわけでもないため、文化祭を楽しめていると言いきってしまうのはだいぶ恐れ多い感じで、俺は中途半端に濁して答える。


 杠葉の表情は妙に明るい。まるで今朝の出来事がなかったかのように、ある意味でいつも以上に溌剌とした表情を浮かべている。

 何も知らない人間からしてみれば、それは文化祭でテンションが上がっているようにも映るのだろうけれど、当然ながらそんなわけもないことを俺は知っている。彼女の笑顔が吹っ切れたものなのか、はたまた内に秘めた哀しみを抑えるための強がりなのか、俺には判断がつかなかった。

 けれどまぁ、目に見えて落ち込んでいるよりはいいのかもしれない。


「いやー、晴れましたねぇ」

「晴れたなぁ」

「どこもかしこも人ばっかりだねぇ。うちの文化祭は毎度雨に降られてたみたいだし、晴れて開催されたのはすごい久しぶりみたいだからその影響もあるのかな」

「かもな。人でごった返してる校舎の中を歩くよりも、風がある分まだ外の方が涼しく感じるよ」

「そいじゃ、ちょっと散歩といきますかー」


 そうして俺と杠葉は、特に行くアテもなく足を踏み出した。

 しかし数歩も歩かないうちにじんわりと汗が滲みでてきて、俺はほんの少し選択を後悔する。陽射しこそ未だそこまで強くはないものの、昨日までに降っていた雨の影響もあり蒸し暑さは相当なものだった。


 隣を歩く杠葉は陽の光を鬱陶し気に手のひらを額に翳しながら、内にこもった熱気を逃がそうとTシャツの襟を引っ張りパタパタと扇ぐ。その行為自体はよくある仕草なのだが、ややダボッとした大きめのサイズのTシャツを着用した杠葉がそれをやるとまた意味合いが変わってくる。並び歩く俺の視点からは、ともすれば見てはいけない場所まで見えてしまいそうになって、俺は咄嗟に顔を背ける。


「……クラT、下に着てきたのか?」

「え? あ、うん。そうだよ。クラス喫茶の制服代わりだからね。今日はガッツリ手伝おうと思ってたからさー。まさか朝っぱらからあんなことになるとは思ってなかったけど」


 杠葉は俺の視線に気づくこともなく、事も無げにそう言った。今日の一連の流れは彼女からしたら想定外の連続だったことだろう。やむを得なかったとはいえ、仕組んだこちらとしては申し訳ない限りである。

 かと思うと、今度は悪戯っぽく口角を上げ、なにかを企むような意味ありげな視線をこちらに向ける。


「……ね、どうかな?」

「どうって?」

「シャツ、似合ってる?」


 杠葉は俺の方を向きながらTシャツの裾を拡げ、可愛らしく小首を傾げてみせる。

 シャツのデザインは、クラスの美術部員が担当したらしい。薄い黄色地にデフォルメされた鳥のような生物が描かれており、背中にはクラス全員のニックネームが刻まれている。このデザインのコンセプトはよく知らないが、文化祭っぽくて悪くないんじゃないかと思う。

 ちなみに記載するあだ名は本人や友だち同士で決めたのだが、そうなると当然困るのは俺と神楽坂のニックネームである。神楽坂は神楽坂さんとしか呼ばれていないし、俺に至っては名前を呼ばれてすらいない。結果、神楽坂は『うたちゃん』、俺は『てんさん』という、それぞれ名前と苗字をそのまま引用した形になったわけだが、神楽坂の方はまだいいとしても『天さん』というのはどうだろう。文字ならまだしも、口に出してしまうと誰のことを指してるのか、誰にも通じないんじゃないか?

 誰が決めたのか知らんが、そいつは間違いなくドラゴンボール好きなのだろう。地球人にしては最後の方までインフレについていった貴重なキャラだから個人的には割と応援したいタイプではある。


「わたし的には結構可愛いデザインだと思うんだけれど、その、ちょっとサイズちっちゃかったかもって」

「あー」


 困ったように胸元のあたりをひっぱる杠葉を見て、俺は得心した。

 先ほども言った通りシャツのサイズは決して小さいものではない。「大きめのサイズの方が可愛くない?」とワンサイズ大きめのサイズをオーダーするのが女子の中でひそかにブームであったことに加えて、通常の衣服と比べて多少ダボッとしたサイズ感に仕上がってくる仕様であったため、今の教室は彼氏宅へのお泊りでシャツを借りた女子が大量発生したような状況になっていた。杠葉も例に漏れずやや大きめのサイズを注文したらしいのだが、彼女の場合はその胸部にXLサイズのを抱え込んでいるがために、その部分だけはやや息苦しそうに見えてしまう。胸に描かれた鳥も可哀想なくらいに引き伸ばされ、のっぺりとしたビジュアルと化していた。

 しかしこれ以上大きいサイズとなるとさすがにオーバーサイズ過ぎるだろうし、彼女の胸囲を収め得る適切なサイズというのは存在しないのではないかとすら思う。Tシャツのように腰のあたりを引き絞らない格好は胸から下にストレートに裾が垂れ下がってしまうため、どうしても寸胴体型のような印象を相手に植え付けてしまうらしい。彼女からすると着こなすのは難しいタイプなのかもしれない。

 ……個人的に、あくまで個人的には、これはこれで扇情的というか、割合似合っているようにも思うのだけれど、あまり素直に伝えづらい感想でもある。


 俺が微妙に言い淀んでいると、杠葉は俺の目元を見つめるようにしてにやにやと口元を歪める。


「あ、今わたしのおっぱい見たでしょ。えっちー」

「……そりゃ見るだろ。どう考えても、そっちだってそのニュアンスで言ってただろうが。今回ばかりは俺は悪くねぇ」


 俺が憮然として言い返すと、杠葉は楽しそうに笑う。


「あははー、まぁ見たければ好きに見てくれていいんだけれどね。別に減るものでもないし」

「……そういうの、女子は普通嫌がるものなんじゃないのか?」

「まぁ、わたしの場合は見られることに慣れてるっていうのは大きいかも。そりゃ、知らないおじさんだとか仲良くもない男子にジロジロ見られるのはあまりいい気はしないけれど、でも天ヶ瀬くんはそのどちらでもないでしょう?」


 結局のところ信頼関係の問題ということなのだろう。杠葉から少なからずそう思ってもらえているということは嬉しくもあり、少しばかりくすぐったくもある。俺にとってはかなり久しぶりの感覚で、あまり慣れない感情だった。


「……ま、少なくとも知らないおじさんではないわな」

「あはは、またそんなことを言うんだから」


 杠葉はそう言って、呆れたように笑った。


 校舎の裏手、ひっそりとした人通りの少ないエリアに差し掛かったところで、どちらからともなく俺たちは足を止めた。動線の都合か、あるいはスペースの制約か、この場所には出店はなく、文化祭の喧騒からぽっかり切り離された静寂が漂っている。

 時折、向こうからこちらに出店があると勘違いした客が覗き込むものの、すぐに引き返していく。静かなこの空間に一瞬だけざわつきが入り、またすぐに静寂が戻る。そんなささやかなやりとりが、妙に心を落ち着かせる場所だった。


 杠葉は立ち止まって暫くの間、遥か彼方に思いを馳せるかのように、ぼうっと空に浮かぶ白雲を眺める。


「――じゃあ、わたしと天ヶ瀬くんの関係性ってなんだろうね?」


 ふと杠葉が問いかけてきた静かな言葉が、穏やかに胸に響く。責めるでもなく、ただ確かめるように、柔らかな声音で。

 彼女の問いには不安や迷いは微塵もなく、むしろ心の奥でずっと温めてきた何かを確かめるような、そんな雰囲気が漂っていた。


「……それは」

「実はね、さっきまで神楽坂さんと話をしていたんだ。神楽坂さんが何を考えていたのか、天ヶ瀬くんが何をしたのか、彼女がだいたい全部話してくれたよ」


 俺の答えを待たず、杠葉は滔々と語り出す。

 その言葉には不思議と柔らかな温かさが込められていた。どうやら杠葉は既に真実に触れているらしい。けれどその顔には、知ったことへの戸惑いや苛立ちなどは一切見えない。ただ、静かな眼差しで、俺を見つめている。


「でもね、そのうえでやっぱりわたしは天ヶ瀬くんの口から直接聞きたい、聞かせてほしいんだ。教えてくれる?」


 杠葉の少し茶色がかった澄んだ瞳が、どこまでも真っ直ぐにこちらを見つめてくる。その目の奥には、疑念も恐れもなく、ただただ純粋な信頼と期待が宿っていた。


 彼女の問いに対する俺の答えは、とうに決まっている。

 二週間前から。

 あるいはこの作戦がスタートした時点から。


「――もちろん、全部話すよ。そのために、俺はここに来たんだ」

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