第26話 名状しがたい感覚

 俺の問いかけに、神楽坂は一瞬不思議そうに眉をひそめたが、すぐに納得したように「あぁ」と短く漏らした。


「言っておくけれど、一条くんに対しては私から手を出したわけじゃないわ」

「えっ、そうなのか?」

「四月頃、私のSNSに彼からメッセージが届いたの。どこで私のIDを手に入れたのかも分からないけど、鬱陶しかったし、最初は無視していたのよ。それでもしつこくメッセージが送られてきてね。ちょうどその頃にもあったから、まぁいいかと思ってそのまま利用させてもらったわけ。もちろん、私が彼に対して『Yes』とも取れる返答をしたのは事実だし、自分の行いを正当化するつもりはないのだけれど、最初にアプローチしてきたのは向こうからだったということだけはあなたに伝えておくわ」

「……そうだったのか」


 神楽坂の淡々とした口調からは感情の起伏がほとんど感じられなかったが、俺は内心驚きを隠せなかった。

 時系列を振り返ると、四月、つまり杠葉と付き合い始めた春休みが明けてすぐのことだ。神楽坂と同じクラスになったタイミングで、一条はすでに彼女に接触を試みていたということになる。どこでアプローチしていたのかずっと疑問だったがSNSオンリーだったとは。それが表沙汰になったときに大変なことになりそうなものだが、そこらへんのリスクを度外視してしまえるのはイケメンの為せる技か。要するに自分と付き合えるのだから、その代わりそれを変にバラしたりはしないだろうという謎の自信でもあるのだろう。


 ひょっとすると、杠葉と付き合う前から、すでに神楽坂に目をつけていたのかもしれない。そして折を見て杠葉と別れ、神楽坂へ本格的に乗り換えるつもりだったのかも。

 だとすると、杠葉があの尾行の日から忘れずに携え続けているあの感情は。

 彼女が語った一条への想いは。

 いったいどうなるというのだ。


 こんなのは――あんまりだろう。

 ただひたすらに、杠葉が可哀想だ。


 俺は神楽坂に気づかれぬよう、下唇を噛み締める。

 鋭い痛みとともに鉄の味を舌先に感じたが、それすらも感情の歯止めには至らない。


「言ってしまえば一条くんは真正のクズね。私の情報網によれば中学時代から似たようなことを繰り返しているそうよ。まぁ、どこに行っても顔面のおかげで女子には一定の支持を得られているようだけれど、結局のところそれしか取り柄のないクズね。浮気を唆した私が言うのもあれだけれど、結果的に杠葉さんにとってはプラスになってしまったかもしれないわね。ふん、彼を利用する形にはなっているけれど、全くと言っていいほど罪悪感はないわ。まぁ、そもそも私は誰かに対して罪悪感なんて抱いたことがないのだけれど」


 罪悪感を抱いたことがないというのは人としてどうかとも思うが、ともかく神楽坂の冷徹な物言いについても俺は一条を擁護する気には全くなれなかった。

 神楽坂の言う通り、深みにはまる前に脱出できて杠葉としては良かったのかもしれない。

 遅かれ早かれこうなっていた可能性は高いとは思うけれど。


「最近はクラス展覧会の準備を理由に会うのを断っているのだけれど……今頃彼はどうしているのかしらね」


 神楽坂は、どこか楽しそうに口元に微笑みを浮かべた。

 普通に考えれば一条も文化祭実行委員で忙しくしているはずだが、神楽坂のことだ。きっとそういうことを言いたいわけではないのだろう。


 色々と複雑な思いが心中で交差するが、ここらが頃合いだろうと判断する。


 俺は心を落ち着けるように小さくため息をつき、「そろそろ行こう」と曖昧に笑って席を立つ。

 とりあえず話は一通り聞けたし、ここにこれ以上いる理由もない。元々の目的が何だったかももう覚えていないが、ラーメンを完食した時点で今日の目標は達成されたと考えていいだろう。


 店を出ると、雨季が近いとは思えないほどの強烈な日差しが、頭上から容赦なく降り注いでいた。

 空はどこまでも青く澄み渡っているが、もうすぐ梅雨入りだ。この晴天とも暫くお別れかもしれない。文化祭を控えている中で、そんな悲観的になるのは杠葉あたりに怒られてしまいそうなものだが、統計的にその可能性が高いというのは純然たる事実だ。


「っと。んじゃ、帰るか」

「……そうね」


 太陽の眩しさに目を細めながら歩き出したその瞬間、ふと視界の端に何かが引っかかる。

 大通りを挟んだ向かい側に目をやると、そこに見慣れた顔があった。


「……一条だ」

「えっ?」

「わり、ちょっと隠れるぞ」


 俺は反射的に神楽坂の手を引き、近くの路地へと身を潜めた。

 別に疚しいことをしているわけではないが、俺たちがこんな場所で一緒にいるところを一条に見られるのは、面倒な事態を引き起こす可能性がある。以前の尾行の時のように、物陰から大通りを覗き込む。


 そこには、一条を中心にした四人組が歩いていた。

 一条の隣には、小動物系の女子――藤澤が見える。それ以外の二人もどこかで見たことがあるような気がする。制服から見て、同じ学校の生徒であることは間違いない。どうやら、いつもとは違うメンバーと遊んだ帰りらしい。


「――ふぅん、そういうことね」


 俺の肩に手を置き、身を乗り出す神楽坂が、『何か』を察したように呟く。

 ……杠葉もそうだが、こいつらのパーソナルスペースの概念はどうなっているんだ。気軽に男の肩に触れないでほしい。ときめくだろうが!


 なんて冗談を頭の中で転がしながら、彼女の言葉の真意を探ろうとしたが、結局彼女の指し示す『何か』を掴むことはできなかった。 そもそもその呟きに深い意味があったのかどうかも分からない。もしかしたら特に理由もなく、何の気もなく、思ったままにそう呟いただけのことかもしれない。

 見たところ、一条の様子に特別な違和感はない。いつものメンバーではないものの、ヤツの社交性を考えれば、別のクラスに友人がいるのも不思議ではなかった。文化祭実行委員の仕事はどうしたと思わないでもないが、偶々今日の仕事がなかっただけかもしれない。うん、憶測で責めるのは良くないだろう。


 しかし、その一方で俺は名状しがたい感覚を覚えていた。

 何だろう、この漠然とした脳裏に引っかかる感じは。

 間違いなく何かしらを知覚しているはずなのに、その存在を確信できないようなじれったい感覚。


「……どうかした?」

「……いや、なんでもない」


 神楽坂が顔を覗き込んでくるが、俺は瞳を合わせることなく、目線を地面に落としながらそう答えた。

 目の前の光景に違和感があるわけではなかった。むしろ、もっと深い場所で、何かが脳裏に引っかかり続けているような、そんな漠然とした感覚にとらわれていた。


 結局、その正体が何なのかを掴めぬまま、俺は通り過ぎていく一条の背中を見送る。

 路地裏に残される、神楽坂と俺。

 神楽坂は遠ざかる一条たちへ一瞬視線を寄越すと、すぐさまこちらに向き直り、どこかワクワクしたような表情で首を傾げた。


「……尾行する?」


 しません。

 そんなイベントを頻繁に起こしてたまるか。



 杠葉のこと、神楽坂のこと、一条のこと、柄にもなくいくつかのパズルのピースを頭の中でこねくり回し、夫々が上手くハマる場所を探していると、気づけば自宅に辿り着いていた。

 結局すべてのパズルをぴったりと当てはめることは出来ず終いだった。まぁ仕方ない、俺はこういう頭の体操的なものは得意じゃないんだ。ルービックキューブとかも面が揃った試しがないしな。


 玄関を開けると、いつも通りというべきか、予想通りというべきか、そこには愚妹がいた。

 しかも今回は仁王立ちときた。

 なにやらむくれた感じで頬を膨らませ、わざとらしいまでに眉間に皺を寄せている。


「陽ちゃん! 遅いっ! あたしは兄をこんな夜遊びする子に育てた覚えはないよ!」

「俺もお前に育てられた覚えはねぇよ」


 腕組みをして叱責を飛ばしてくる月子だが、現在19時過ぎ。この程度を夜遊びだなんて表現していたらそのうち日本語が枯渇してしまいそうだ。


 なんだかこいつと話していると脱力してくるなぁ。

 ほんの少しの疲労感を覚えながら、靴を脱いで玄関を上がり、門番のように立ち尽くす月子を押し退けて自室へ向かう。


「冗談はさておき、今日はいったいどこで誰と何を食べてきたのかな?」


 そんな俺の後ろをひょこひょこと跳ねるようにしてついてくる月子。

 むくれた感じを出していたのはただの演技だったらしく、普段通りのおちゃらけた声色に戻っている。


「あ? なんで誰かと食べたのが確定みたいになってんだ」

「えー、だって陽ちゃんは一人で外食するタイプじゃないでしょ? これまでに学校帰りに寄り道したことなんかなかったじゃない。外食は栄養の偏りがどうとか、コスパがどうとか、こまっしゃくれたこと言っちゃってさぁ」


 どうでもいいが、こいつにだけはこまっしゃくれてるとか言われたくない。


「つまりそんな陽ちゃんが外食するということは、必然的に誰かに誘われて仕方なくついていったということになるのだ! これぞ背理法ってやつよ!」

「ちっ、鬱陶しいなこいつ」

「酷いっ!」

「別にいいだろ、俺が誰と飯を食おうが」

「良くないよ! いや、良くはあるけど、ちゃんと把握しておきたいんだよ! 万年孤独症候群の兄に一緒に外食してくれるようなフレンズが出来たとあっちゃ我が家の一大事なんだから! 記念日だよ! お赤飯だよ!」


 勝手な病名をつけるな。記念日にするな。赤飯を炊くな。

 興奮した様子の月子だが、こいつはいつもその場のノリで滅茶苦茶言うタイプなのでほとほと困ったものである。


 ただ月子の表情を見ていると、どうも兄に友だちが出来た可能性を信じているわけでも、はたまた喜んでいるわけでもなさそうな感じであった。


「……本音は?」

「あたしも美味しいもの食べたいいぃぃい! あたしも連れてってよぉ!」


 そう喚いて、ガシリと俺の腰に抱きつく月子。

 出たよ、めんどくさいモードの月子。ホントうざいんだよなぁこれ。

 諦めて部屋まで引きずっていくか、と考えたところでふと思いつく。


 それは本当に思いつきで、別に明確なビジョンが思い描けているわけでもない。漠然としたインスピレーションと言ってしまえば聞こえはいいが、少なくともこの時点においては『何かに使えるかな』くらいの単なる予感でしかなかった。

 半ば勢いのまま俺は口を開く。


「……わかった。いいよ、連れてってやる」

「え、ほんとぉ!」


 俺の言葉に月子は顔を上げて眼を輝かせる。


「あの出不精で理屈っぽくて意外とケチンボな陽ちゃんがあたしを外食に連れて行ってくれるのぉ!?」


 やっぱやめようかな。


「ただし、一個だけ条件がある」


 俺は立ち止まり、腰にひっつく月子に対して人差し指を立てる。

 それを見た月子は急に俺から離れると、所在なさげにもじもじした挙句、わざとらしいまでのいじらしさを前面に押し出しながら上目遣いでこんなことを言う。


「……うん、いいよ、あたしの上でも下でも中でも外でも、好きなところ……触っていいから」

「お兄ちゃんチョップ!」


 妙にしっとりした表情でそんなことを宣うバカ妹の脳天に俺はチョップを喰らわす。

 実の妹の身体なんて好きで触るやつがいるか。

 そんなことしたらむしろ俺の精神に障るわ。


 『ぐぇっ』というカエルが潰れたような声とともに頭を押さえてうずくまる月子。


「いったぁ……陽ちゃん、最近あたしに対して容赦なくなってない……?」

「あぁ、俺はお前を妹ではなく、一人の大人として扱うことにしたんだ。これまでの妹割引は適用されなくなる」

「……それ、ちょっと嬉しいけど、なんかフクザツ……」


 頭を押さえたまま、斜め下辺りを見ながらもごもごと口ごもる月子。

 大人扱いされたいという気持ちと、妹特権を手放したくないという気持ちが混ざり合い、悲喜こもごもという感じらしい。

 第二次性徴を終え、四捨五入すれば二十歳にも数えられる月子くらいの年頃の女の子は色々と複雑な感情を内包しているのだろう。俺も達観できるほど歳を重ねているわけではないが、傍から見ている分には微笑ましくすらある。


 俺は月子の頭をグリグリと撫でる。なんとなくそうしたい気分だった。

 月子はくすぐったそうに首を竦める。


「つーか聞けって。まぁなんだ、一つ協力してほしいことがあるんだよ」

「もちろんいいよ! 何でもやるよ!」

「……威勢がいいのは結構だが、もうちょっと話を聞けよ」

「一も二もないよ。あたしが陽ちゃんの頼みごとを断るわけないじゃん! あたしは忠妹月公だよ! たとえそれが女子中の更衣室に監視カメラを仕掛けろという頼みごとだとしてもあたしは断らないねっ!」

「いや、それは断れ」


 もし万が一にでも俺の気が狂ってそんなことを言い出したなら止めろ。

 お前が愛する兄のためにも全力で止めろ。


「で、頼みごとってのはなんだいねっ!」


 月子は俺の前に回り込むと、『ふんす!』と息巻いて目を輝かせる。兄から珍しく頼みごとをされて気合が入っているらしい。こいつが本当に犬だとしたら、尻尾をブンブンと振り回していることだろう。

 大した頼みごとでもないし、気合が空回りしないといいけどな、なんてことを思いながら俺は口を開く。


「あぁ、それなんだけどな――」

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