第25話 庶民の味
学校を後にした俺たちは、神楽坂に導かれるままに道を歩いていく。
こいつと校外で話す機会はこれが五度目くらいだろうか。そのうちの一度目は、一条と神楽坂のデートを尾行したあの日のことである。まぁ、去り際にさようならと言われた程度のことを話したと呼んでよいかどうかは人によって判定がわかれそうなものではあるが。
下校時刻タイムアタックを繰り広げていた関係で、帰り道や駅のホームで彼女を見かけたことは幾度もある。その姿に勝手ながら親近感を抱いていたというのは、本当に勝手な話なので神楽坂にはナイショだ。
いずれにせよ、目的を持って連れ立ってどこかに行くのは今回が初めてである。
「で、どこに連れて行ってくれるわけ? 言っておくけれど、庶民の味とか言いながらロイヤルホストに連れて行くのは勘弁な。ファミレスはファミレスでもロイヤルのためのファミレスだぜあれは」
俺は少し前を歩く神楽坂の横顔を盗み見ながら聞いてみる。
こうして神楽坂と並び歩くのもなんだか不思議な感覚だ。
「違うわよ。というかファミレスなんてどこも同じでしょう?」
「そいつは下手すりゃ全ファミレスを敵に回す発言だな……」
神楽坂は振り返りもせず、また悪びれることもなく、ファミレスを一括りにしたうえで放り投げていく。
お前はそれぞれのファミレスが他社と差異化を図るため如何に努力をしているかを知らないからそんなことが言えるんだ、という義憤のフレーズが喉奥まででかかったが、よく考えてみれば俺も偉そうなことを言えるほど内情を知っているわけではなかった。
「ところで天ヶ瀬くんはよく庶民の味は食べるのかしら」
僅かに首を傾け、神楽坂はこちらに目線をやる。
喧嘩を売っているようにしか聞こえない訊き方だった。なんだか気軽に肯定することが躊躇われる。
「もちろん、エブリデイ庶民の味だよ。なんなら俺が食べる食事こそ庶民の味と形容されるべきじゃないかとすら思ってる」
「ふぅん、まぁそう卑下するものではないわよ、天ヶ瀬くん」
「だから卑下したつもりはねぇって。良くも悪くも、我が家はごく普通の家庭だってだけだ」
「普通の家庭というのも幸せなものだと思うけれどね」
「……はん、ブルジョワに言われても嫌味にしか聞こえないけどな」
「だからこそ言っているんじゃない」
常に真っ向から切り込む神楽坂にしては、随分と婉曲的で示唆的な表現だった。
彼女にも彼女なりの、ブルジョワにもブルジョワなりの苦労はあるのだろう。きっとそれは優劣とかの話ではなくて、単にないものねだりなのだと思う。
俺が天ヶ瀬家の人間で、神楽坂が神楽坂家の人間である限り、俺たちは同じ悩みを分かちあうことは出来ないし、平行線のまま交わることはない。
「平行線――ね」
俺の呟きを拾った神楽坂がぼそりと言葉を漏らす。
そうではないだろうとでも言いたげな口ぶりだった。
「なんだよ」
「うぅん、なんでもないわ」
そう言われてしまうと、俺には返す言葉は見当たらない。神楽坂の方もそれ以上に言いたいことはないようだった。
俺たちは結局、大した会話を交わすこともなく黙々と歩き続ける。
幸いにして、お互い沈黙は苦手ではなかった。
「ここよ」
電車を乗り継ぎ到着したのは、地元ではそこそこ有名なラーメン屋であった。いわゆる家系や二郎系などではないが、豚骨ベースの濃厚スープが一番の売りらしい。評判は聞いたことがあるが、我が家とは逆方向の駅ということもあり来るのは初めてだった。
ラーメンという点では間違いなく庶民の味ではあるが、しっかりチェーン系でないあたりが実に神楽坂らしい。
「ふふ、前に一度来たことがあるのよ。偶然の巡りあわせだったのだけれど、とても美味しくてびっくりしたわ」
そう言った神楽坂はどこか楽しそうに見えた。久しぶりに食べるラーメンにワクワクしているらしい。最早、庶民の味を教えてあげるだとかそういうことよりも自分が楽しむことしか考えていなさそうである。
時刻は午後五時。
この時間にラーメンを食べるとなると晩御飯は食べられないな、なんてことを考えながら入店する。
妹にその旨をチャットするや否や『陽ちゃんが放課後に外食!? 明日は隕石かな!?』との返信。うるせぇ、とだけ返しておく。
「私のオススメは何と言っても豚骨醤油ラーメンね。味玉というのをトッピングすると美味しいのよ」
「オススメって、お前も一回しか来たことがないんだろ?」
「一回しか食べていなくても人にオススメできる商品というのはある意味一番信用できるでしょう?」
様々な種類のラーメン、トッピングがずらりと並んだ券売機を前にして、わかるようなわからないような、そんなことを言う。豚骨醤油は好きだし、お店の看板メニューらしいので元々選ぶつもりではあったが、神楽坂のお眼鏡に適った味となればある程度信用しても良さそうだ。
結局、二人して豚骨醤油ラーメンを選択した。俺はトッピングにチャーシューと味玉を、神楽坂は味玉と海苔をチョイスし、店員に食券を受け渡しテーブル席に腰かける。
繁盛しているということもあってか、店構えや内装はそれなりに綺麗だった。店内には食欲をそそる仄かに甘い匂いが充満している。人気店によくある一見様お断りといった雰囲気は感じなかった。まぁ、そうでもない限り神楽坂がふらりと立ち寄ることはないだろうしな。場末の町中華にふらっと立ち寄る神楽坂は想像できそうにない。
暫くすると二杯のラーメンが真っ白な湯気を伴って運ばれてくる。
豚骨の旨味が凝縮された濃い琥珀色のスープには、ほんのり乳白色がかった濁りと、光を受けてちらちらと輝く脂が浮かぶ。中太のストレート麵はスープ色の仄かなツヤをまとい、その上に鎮座する肉厚なチャーシューは脂身がスープの熱で溶けかけて、しっとりとした光沢を放っている。
なるほど、見た目からしっかりと食欲をそそってくれるフォルムだ。
めっちゃ腹減ってきた。
対面を見ると神楽坂が珍しく目を輝かせ、備え付けの箱から取り出した割り箸をぱきりと割っていた。
「ふふ、天ヶ瀬くん、なんとこのお店はにんにくが入れ放題なのよ」
店員に持ってきてもらったにんにくのカケラとマッシャーを手に取り、ニコニコと柔和な笑みを浮かべる神楽坂。普段のこいつはどこへやらという感じだ。というか庶民の味大好きじゃねぇか。意外過ぎる素顔であった。
俺は何の気なしに、思ったことを素直に口にする。
「へぇ、神楽坂ってにんにく入れるタイプなんだな」
マッシャーににんにくをセットした体勢のまま時を止める神楽坂。写真と見まごうほどの美しい静止であった。
ふう、と落ち着かせるように一息つくと、そのままマッシャーを俺のラーメンの上に移動させ、
「高貴な私がにんにくなど食べるわけがないじゃない。天ヶ瀬くんが食べたいんじゃないかなって思っただけよ」
「いやいや今さら無理があるて。ていうかにんにくなしでいいよ俺は」
「遠慮してはダメよ」
「いや、マジで二個目はいらんて!」
辛うじて三個目のにんにく投入を回避(二個目は防げなかった)した俺は、まずはスープを一口。
うまい。
そして、なるほど、と俺は頷く。
豚骨の濃厚な旨味が、さながら深く響くコントラバスの低音のように、全体の味の土台をしっかりと支え、その上に重なる醤油の風味は、クラリネットやフルートが奏でる軽快で明るい旋律のように、スープ全体に明瞭さとシャープさをもたらす。スープに溶けて消えていったにんにくは、然しその風味が消えることは決してなく、ヴァイオリンが奏でる高音のメロディーのように味にパンチとアクセントを加え、味の奥行きを作り出していた。一つ一つの味わいは際立っているのに、それらは決して反発することなく互いに絡み合い、調和のとれた絶妙なハーモニーを生み出す。まさに、味のオーケストラと呼べる一杯であった。
続いて麺を啜る。こちらもうまい。中太の麺には濃厚なスープがよく絡む。食感も、もちもちしていて食べ心地が良い。コシが利いていないわけでも、利きすぎているわけでもなく、なんとも食べやすい絶妙な塩梅だ。自分が大食い選手になったかのように、つるつるとどこまでも啜っていけそうな気がした。
ふと対面の神楽坂の様子を窺うと、長い髪の毛がしな垂れてこないよう手で押さえながら、ちゅるちゅると上品に麺を啜っていた。制服に飛び跳ねないように意識しているというよりは、彼女にとってはきっとそれが当然の所作なのだろう。女子の中には麺を啜ることの出来ないタイプも多いとは聞くが、神楽坂の場合は麺を啜りつつも気品を保つという離れ業をやってのけていた。なるほど、こいつはただのお嬢さまではないらしい。
そのまま箸は止まらず、時折聞こえてくるスープが沸騰する音とリズミカルに麺が湯切りされる音を心地よいBGM代わりにしながら、俺と神楽坂は黙々とラーメンを食べ進める。
気が付けば、琥珀色の水面には小さな脂のほかには何も浮かんでいなかった。
もっと食べたい――僅かな可能性を求める箸が丼の底をカツンと掠める。
それは虚しくも、どこか満ち足りた音色に聞こえた。
「……ごちそうさま」
「お粗末様でした」
俺と同じく杯を空にした(正確にはスープは残っているけれど)神楽坂が、そんなことを言う。
それは明らかに店側のセリフだったが、それにマジレスするほど無粋ではない。
久しぶりに食事をして満足した気分だった。別に、家で作る母親や自分の手料理に不満があるわけじゃないが、こう、お店でしか得られないクオリティってあるよな。こういうラーメンなんて絶対に再現できないもの。
「ありがとう。めちゃくちゃうまかった。正直、期待のハードル二個分くらい飛び越してきた感じ」
「……そう。よかった」
コトリと丼の縁に箸を揃えて置いた神楽坂はどこか安心したように微笑む。
「私も嬉しいわ。ここに来られて、本当によかった」
神楽坂は噛み締めるようにそう言った。
「……ふぅん、そんなに来たかったのか」
「違うわ。私の好きなものを天ヶ瀬くんに共有出来て、天ヶ瀬くんが喜んでくれたことが嬉しいのよ」
神楽坂は、その真っ直ぐな瞳で俺を射抜くようにじっと見据えてくる。その瞳には、一片の揺らぎもなく、言葉は飛矢のように鋭く真っ直ぐ俺に突き刺さる。相も変わらず率直すぎるその物言いに、俺は不意に心の奥底を掻き乱されるような感覚に襲われた。
この容姿にしてこの発言は――まさしく反則級だ。
ともすれば勘違いしてしまいそうな発言ではあるが、しかしそこに深い意味はない。表層そのままの意味で受け取ればいいのだろう。要するに神楽坂は、自分の気持ちを他人と共有することに喜びを見出すことの出来る、そしてその感情を素直に口にすることが出来る人間だということ。そこに神楽坂の本性の一端を垣間見たような気分を覚える。
こいつは、俺が思っている以上にずっと
けれど、それが事実に近ければ近いほど、神楽坂がどうしてあそこまで杠葉に敵愾心を抱いているのか、俺には皆目見当がつかなかった。杠葉に対して恨みを抱いていたのだとしても、積極的にこのような手段で復讐を目論むようなやつには到底思えないし、やるにしてももっと別の方法があったのではないだろうか。
神楽坂という人間は、知れば知るほど謎は深まり、関係性を深めれば深めるほどその人物像がぼやけていくような気がした。
……ただ、きっとこれでいい。
解像度が低いくらいの関係性が、きっとちょうどいいのだ。
本来であれば勉強を教えるのも、こうして二人でラーメンを食べるのも、杠葉のことを思えば避けるべきなのだろう。これ以上、彼女のことを知ってしまえば、きっと俺は
――そう思っていたはずなのに。
思いとは裏腹に、自然と言葉が口を突いて出てしまう。
「――なぁ、神楽坂」
「なぁに?」
「どうしてお前は、」
一瞬、言葉が詰まる。
けれど、あやふやな解像度で彼女を認識したまま進んではいけないと、本能がそう告げる。
「お前は、
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