第20話 それはダメだ
「――っ!」
喉の奥から引き攣ったような音を漏らす杠葉。それを声にしなかっただけ賢明と言えるだろう。先ほどでと打って変わって表情からは焦燥が窺い知れる。それは当然かつ必定の感情だろうと思う。なぜなら俺も全く同種の心境に陥っていたからだ。
俺は無言で自分の鞄を手に取ると、物音を立てぬよう慎重に、されど素早く机と机の間を縫うように通り抜け、がらんとしたこの教室において唯一身を隠せそうな場所、教卓の下に潜り込む。
一方の杠葉はスマートフォンを取り出すと、耳元にあて、まるで長らくそうしていたかのように自然に喋り出す。
「あははー、そうなんだー。それは大変だねぇ。うん、じゃあまたねー」
それは若干芝居がかった、されどどこか棒読みなそんな話し方ではあったけれど、この状況でそれ以上を求めるのは酷というものだろう。そんな示し合わせたような俺たちのアリバイ動作が完了するのとほぼ時を同じくして教室後方のドアが開かれる。
「あ、マジでちとせじゃん。こんなとこで何やってんの?」
教卓の前面の隙間から教室の中を覗き込む。
開かれたドアから入ってきたのは、馴染みの面々であった。当然ながら、ここで言う馴染みというのは杠葉にとってのものであり、基準となる人間は俺ではない。まぁ、そんなことは補足するまでもないだろうが。
一条や川田、それに男女二人のフォーマンセル。杠葉も合わせれば、いつも連んでいる五人組である。時と場合によってプラスアルファがいたりいなかったりするが、一条一派の中心メンバーと言える五人であった。
「あれっ、みんな、どうしてこんなとこに?」
たった今、通話を終えたようなフリをしながらスマホを懐にしまい込む杠葉。尾行中に一条と遭遇したときにも思ったが、土壇場でのアドリブ力は称賛に値する。
「あー、音楽室にスマホ忘れちまってさ。しゃーねーってんで取りに来たら、この教室からちとせの声が聞こえたからさ」
音楽室はここと同じく最上階に位置する。
「健矢のために、俺たちは駅からここまで舞い戻ってきたわけなんよ。健矢のためにな!」
「だーから悪かったって。んで、ちとせはなんでこんなとこにいるんだ? つーか、担任から呼び出されたとか言ってなかったっけ?」
「あ、うん、そうなの。この空き教室を今度使うかもしれなくてさ、暇な時に掃除しておいてほしいって。ほら、わたし学級委員だからさっ、色々押し付けられちゃうんだよ。困っちゃうよねぇ。で、のんびりお掃除してたら友だちから電話がかかってきたから話してたって感じ」
「ほーん、まったく、ちとせは相変わらず真面目だな。そんなもんスルーしちまえばいいんだよ。そもそも学校側の仕事だろ?」
「えー、そうもいかないよー。先生の仕事を手伝うのも学級委員の役目だし」
「ちーちゃんはお人好しだなぁ。損な性格してるよねぇ」
「あぁ、聖奈と違ってな」
「健矢くんにだけは言われたくないよっ!」
杠葉をちーちゃんと呼び、一条を健矢くんと呼ぶ小動物系女子、
今さらながら、彼らの中でのパワーバランスはどうなっているのだろう。一条とその下に杠葉がいて、さらにその下に三人横並びという感じなのだろうか。
友人関係としてはややもすると歪にも思えたし、一方でチームとしてはあるべき姿なのかもしれないとも思った。リーダーとサブリーダーがいて、ヒラが三人。よくありそうな形だ。
チームなど久しく所属していない俺がそんなことを言うのは滑稽に映るかもしれないけれど。一番近い記憶でも小学生の頃の野球チームだった。あの頃は一応友だちと呼べる人間もいたなぁ。
俺が息を潜めて懐かしいことを思い出していると、横並び三人の中でも最もポジションの低そうな彼、川田が思いついたように口を開いた。
「お人好しと言えばよぉ、杠葉って最近はあいつ――あー、天野川? に話しかけに行ってないよな。ちょっと前までは事あるごとに絡んでいってたのに」
天野川? はて、そんなファンシーな名前のやつがいただろうか、と振り返ろうとしたところで恐らく俺のことを言っているのだと理解した。
杠葉は一瞬ぴくりと反応しかけるが、すぐさまいつも通りの笑顔を浮かべる。
「えっと、天ヶ瀬くんのことかな。んー、そうかな? まぁ、最近わたしも何かと忙しいからねぇ。別にあえて話しかけてないとか、そういうんじゃないんだけれどね」
「ふーん。あいつもよくわかんねーやつだよな。わかんねーってか謎。杠葉以外と喋ってる場面なんて見たことないぜ。こないだの展覧会委員の立候補で初めて声聞いたんじゃねーかってくらい」
「確かに僕も話をしたことはないかなー」
クラスでは一条に次ぐイケメン男子ともっぱら評判の
完全に余談だが、小動物系女子、藤澤はクラスで三番目に可愛い女の子との噂である。つまり神楽坂以外の美男美女が揃って同じグループに属しているということになる。これは決して偶然ではないのだろう。ちなみにいじられ系男子、川田の噂は特に聞いたことがない。いけてるグループに所属しているからといってランクインするものでもないらしい。しかしランキングはいったい何位まで存在しているのだろう。
「まぁ、ちょっと内向的なタイプかもしれないね。でも別に悪い人じゃないよ」
「ま、杠葉はそう言うだろうなぁー。お前が誰かの悪口言ってるとこ見たことねーし? でもよぉ、俺ぁ正直言って、あいつが薄気味悪いぜ」
川田は無邪気に、そして無慈悲にそう言った。
唾棄する感じでも、軽蔑する感じでもなく、淡々と。
「ちょっと、雄樹くん」
「いや、だってそうっしょー? ガッコ来て勉強して寝て勉強して寝て、誰とも話さずにすぐに帰ってくなんて、何考えてんのかわかんねーし、意味がわかんねーって!」
藤澤の制止も気に留めず続ける川田。
おちゃらけたような砕けた口調だったが、表情はいつになく真面目だ。
「でも」
「俺だって、別にあいつのことが嫌いなわけでも、悪口を言いたいわけでもねーけどさぁ。天野川のことなんてなんも知らねーし。俺はただ単純に杠葉のダチとして、付き合う相手は選んで欲しいって思っただけだっての。つーか、お前らだって似たようなこと言ってたろぉー?」
その場にいる全員が口をつぐんだ。必然、静寂が訪れる。
……いやはや。
どうしたもんか。
いや、どうしようもないのだけれど。
この空気も、俺自身も。
俺にはどうしようもない。
俺はどうしようもない。
個人的には川田の言うことに全面同意という感じだった。反論の隙など一ミリもなく、反撃の暇など一秒もない。客観的に見れば、誰とも話さず机に突っ伏して一日をやり過ごしている人間なんて、理解ができないだろう。理解ができないものを気味悪く感じるのは当たり前のことだ。誰だってそう思うはずだ。俺だってそう思う。神楽坂や杠葉を見て可愛いと思うのと全く同じ、ある種の生理的反応であるとすら言える。
川田の発言に我を忘れて取り乱すほど自己は肥大化していないつもりだし、心が傷ついてしまうほどナイーブでもないつもりだ。
とはいえ、彼らの身内話を聞いてしまったことについては、なんだかひたすらに申し訳ない限りであった。当の川田も、よもや俺に聞かれているなどとは夢にも思わないだろう。陰口は本人に聞かれていないからこそ陰口たり得るわけで、聞かれてしまっては単なる悪口になってしまう。悪口は、悪だ。川田に悪口を言わせてしまったことに、彼を悪者にしてしまったことに罪悪感を覚える。
――いや、悪いのは俺なのだから、そもそもとしてこれは悪口ですらないのかもしれないけれど。
というわけで、頼むぞ、杠葉。
空気の読めるお前ならどうすべきかわかっているはずだ。
俺の祈りが通じるよう、教卓の隙間から杠葉に念を送ってみる。
「まぁ、これを機にあいつに無理して話しかけるのやめとけってことじゃね? どーせ杠葉が話しかけてもまともに受け答えすらしねぇー奴だったわけだしさ。杠葉には何の得も――」
「――もうやめて。それ以上聞きたくないよ」
酷く冷たい声色で杠葉が川田の言葉を遮る。文字通り、有無を言わせぬ迫力がそこにはあった。
それは俺の願いとも――予想とも違う杠葉の姿。
その怒気を向けられているはずのない俺の背筋にも緊張が走る。
……違うよ、杠葉。そうじゃないだろう?
それは、
――けれどやっぱり、俺の願いは届かない。
「雄樹くん、言ったよね、天ヶ瀬くんのことは何も知らないって。どうして何も知らない人のことをそこまで悪く言えるのかな? わたしにはわからないよ」
「……い、いや、」
杠葉は川田に正面から向き合い、その瞳をまっすぐ見据えた。
普段の優しい杠葉からは想像できないほどの冷たい瞳であった。
そんな視線に晒された川田の心中はとても穏やかではいられないだろう。
川田はしどろもどろになりながら言葉を繋げる。
「俺はただ杠葉が――」
「わたしが何? わたしが誰と話そうが自由だよ。わたしは出来ることならクラスのみんなと仲良くなりたい。心の底からそう思ってる。それは天ヶ瀬くんだって例外じゃないんだよ。わたしが誰かと仲良くする権利はわたしにしかないし、誰にも渡さない。そして、天ヶ瀬くんのことを悪く言う権利なんてものは――そもそも誰にもないんだよ」
川田は何も言い返せない。
傍らで様子を見守っていた藤澤も坂井の二人も、その迫力に完全に圧倒されているようだった。
二人。
そう二人だ。
残る一人、肝心の一条はというと、さらに一歩離れた位置から、イマイチ感情の読めない表情を浮かべながらやり取りを見つめている。
……はぁ。
思わず頭を抱えそうになるが、狭い教卓の下ではそれも叶わない。
これからのことを考えれば、杠葉は俺を庇うべきなどではなかった。サラっと流してさっさと教室から出ていくのが唯一にして至上の正解だったのだ。彼女が誰に対しても公平で優しいということを鑑みても、この劣化のごとき怒りを発露させるのは得策ではない。
きっと、あとに残るのは『杠葉が俺のことでブチギレた』というおぼろげな記憶だけだ。
それは、俺たちの計画に一抹の不安を刻み込む。
彼女が俺のことで怒ってくれるのはとても嬉しい。むしろ、俺がいるからこそ、彼女はここまで激怒したのだろう。
けれど、出来ることならば、ここは俺のことなんか気にせずに笑顔で去っていってほしかった。
俺は、傷ついてなどいないのだから。
「雄樹くんがどんなことを考えて言ったのか、わたしにはわかるよ。でも、
「……あ、ご、ごめん。俺が悪かったよ……」
「……ん。わかればヨシ」
きっとその謝罪の言葉は、姿を隠している俺のために言わせたものなのだろうとそう思った。
言葉を聞き入れた杠葉は表情を柔らかくする。凍り付いていた空気が氷解するのがわかる。傍で見守っていた二人が弛緩したのが教卓の裏からでも見て取れた。
そのやり取りを終始見守っていた一条は、「はぁ」と嘆息すると、満を持して口を開いた。
「ったく、お前らさ、
一条の言葉に、杠葉はピクリと肩を震わせる。小さく握られた拳に力が入るが、思いとどまったように緊張は解かれ、杠葉はいつもの笑顔を浮かべる。傍から訊いている限りでは一条の言葉はなかなかに刺激的にも思えたが、しかしそれを他ならぬ一条が口にしたからこそ、彼女は冷静さを取り戻せたのだろう。
「……ん、そうだね。ごめん、雄樹くん。ちょっと怒り過ぎたかも」
「や、俺の方こそ、ごめん」
「おーし、んじゃ帰るぞ。ちとせも帰ろうぜ。掃除なんていつでもできるだろ?」
「……ん、そだね」
一条の言葉をきっかけに、彼らは次々と教室を後にしていく。
最後に教室を出た杠葉は、去り際に一瞬だけ俺の方に視線を投げかけたが、結局他の者たちと同じように立ち去っていった。
そう。
それでいいんだ。
お前はそれでいい。
たとえ、この復讐の後に何も残らなくても。
今はまだ、そこはお前の居場所なのだから。
だから。
そんな哀しそうな顔をしないでほしい。
俺は、大丈夫。
いつも通り何も言えずに黙りこむだけの俺の願いは。
やっぱり彼女には届かないのだけれど。
「……よっと」
一条たちが十分に遠ざかったのを耳で確認すると、俺は久方ぶりに教卓の下から這い出る。
窮屈な場所から解放されたはずなのに、教卓の下に潜り込む前よりもなぜだかずっと、教室が狭く感じた。
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