第19話 覚悟、決めよ?
「それよりもですね、天ヶ瀬くん。わたしは天ヶ瀬くんに聞きたいことがあるのです」
杠葉は神妙な面持ちでそう言った。
「なんだよ、改まって」
妙にかしこまった感じで切り出した杠葉に、自然と警戒が強まる。
当然ながら、俺は神楽坂とどのような会話を交わしたか事細かには伝えていない。月子のアドバイスの通り、真実の中に嘘を織り交ぜて――と思いながら話し始めたが、よく考えてみれば一昨日、神楽坂と交わした会話のほとんどが杠葉に話せる内容ではなかった。一条と付き合っているのが嘘だの、杠葉への復讐に手を貸してほしいだの、そんなこと言えるわけがなかった。結局話すことができたのは、展覧会準備を黙々と進めたという嘘と、神楽坂は運動をしないらしいという、心底どうでもいい情報二点セットであった。木を隠すなら森の中というが、そこには森どころか林すらなかった。
そういうわけで、ここまで実に平静を装ってはきたのだが、丸裸の状態で隠し事をしているという緊張感も相俟って喉はカラカラだった。俺は持っていたペットボトルの麦茶に口をつける。すっかり温くなった麦茶でも喉の渇きを癒すには十分だ。
杠葉は飲みかけの、あるいは既に飲み干しているのかもしれないいちごミルクの紙パックをトンと机の上に置くと、オホンと咳払いをしたのち口を開く。
「天ヶ瀬くんは一体いつになったらわたしの胸を揉んでくれるのかな」
「ぶはっ」
噴いた。
リアルで噴き出した。
こんな漫画みたいに綺麗に噴き出したのは産まれて初めてかもしれなかった。というか普通に恥ずかしい。
そんな俺の様子も歯牙にかけず、杠葉は至って真面目くさった表情のまま続ける。
「キミには、わたしの胸を揉む義務があります」
「な、何言ってんの、杠葉……」
俺はハンカチで噴射物を拭きながら、辛うじてそう尋ねた。
なんだこいつ。
一条への怒りでとうとう頭が狂ったか?
「ほら、協力してくれるお礼にって約束したでしょう? あれ、別に成功報酬ってわけじゃないし、既に協力し始めてくれているわけなんだからキミはその権利を行使する義務があるんだよ」
「権利なのか義務なのかややこしいな」
「権利であり義務だよ!」
なぜだかよくわからないが、彼女は自分の胸を揉まれないことに対して憤りを感じているようだった。ここまで十七年近く生きてきたがそんな女性には寡聞にして出会ったことがない。珍しい人間もいたものである。
何やら剣呑とした雰囲気の杠葉に怯みつつ、俺は訊いてみることにする。
「……揉まれたいの?」
「揉まれたいわけあるかぁ!」
杠葉は手刀を机にたたきつける。ビシッという効果音が聞こえてきそうなほど豪快なツッコミであった。
妙に演技がかっている感じすらする程だ。
「揉まれたいわけないでしょぉがっ! わたしのことどんな淫乱だと思っているのかな? 言っておくけれどねっ、ここばっかりは一条にもまだ許していないところなんだよ!」
そもそもとして、そんな
「でも、わたしなりのけじめのつもりだったからそれは良いんだよ。いや、良くはないんだけれど、良くないなりにわたしの中での折り合いは付けられていたんだよ」
なのにさ、と語気を強めて続ける。
「どうしていつまで経っても触ってくれないのかな! これでも本当に勇気を振り絞ってたんだよ? 天ヶ瀬くんと二人きりで会う度にさぁ、『あぁ……今日こそ揉まれちゃうのかな、揉みしだかれちゃうのかな』とか『きっとおっぱいだけに飽き足らずあんなところやこんなところをまさぐられちゃうんだろうな……』とか、いろいろ想像しちゃって、でも約束は約束だし、恥ずかしいけれど覚悟を決めなきゃと思って、もう、毎日が勝負下着だったんだよ」
杠葉はほんのりと頬を紅く染めながら一気にまくし立てた。
それはなんというか想像力豊か過ぎるというか、覚悟決まりすぎじゃないですかね。
よしんば揉むとしても直に揉むわけでもないだろうに、勝負下着まで着用する必要があるのか俺にはよくわからなかった。気分の問題なのかもしれない。
「つーか、なんだよ、本気で言ってたのかよあれ」
「冗談であんなこと言うわけないでしょ! 本に気分の気と書いて本気だよ!」
「本気という漢字くらいは流石にわかるが」
しかし月子の見立てでは本気でそんなことを言う奴の方が珍しいということだったが、杠葉はそちら側の人間だったらしい。あいつの言うこと、やっぱりアテになんねぇなぁ。
うーん、どう説得したものかな。
「いや、いいよそんなの。言っただろ、お礼目当てじゃないって。つーか、そっちも嫌だろ、俺なんかに触られるの」
「……ん、まぁ、そりゃ100%ウェルカムではないけれどさ」
「だろ? 無理する必要なんかないんだって。自分を大切にしろよ。気持ちだけ受け取っておくからさ」
「うぅん、そういうわけにはいかないんだよ。それじゃ、わたしの気が済まないの」
俺的にはだいぶ優しめの言葉でやんわりと促したつもりだったが、杠葉は引く様子を見せない。
「わたしはね、天ヶ瀬くんとは対等でありたいんだ。一方的に手伝ってもらうっていうのは、それはもはや協力者とは呼べないと思うの。ただでさえわたしの私情に付き合ってもらってるんだもん。お礼くらいはちゃんとさせてもらえないと割に合わないんだよ」
「そう言われてもな……」
お礼を受ける側の俺が言うならともかく、お礼をする側の人間がそんなことを言うのもおかしな話だ。
要は、俺を『使役』してしまうことに対して罪悪感を感じているということなのだろう。気にしすぎという感じもするし、それくらい甘受すべきという気もする。
けれど、彼女の覚悟は受け止めて然るべしだろう。
彼女がこうして迫ってくるのは、当たり前だが俺に触られたいと思っているわけではない。俺なんかが言い切れる事柄なんてたかが知れているけれど、それでも間違いないと断言できる。数週間前までまともに話もしてこなかったような女子にいきなり好意を抱かれるだなんてそんな都合のいいことは絶対にあり得ない。ただでさえ、つい最近に男から手酷い裏切りにあった杠葉だ。再び好きだと思える男性に巡り合える――心を許せる相手に出会えるまで、今しばらく時間はかかることだろう。そんな杠葉相手に勘違いするほど、俺は落ちぶれちゃいないつもりだ。
そんな彼女が、
一条に汚された心を奪い返すための戦い。
心を許せる相手に出会うためには――まずは許すための心を取り戻さなければならないのだから。
きっと、そのためには自分の中の筋を貫き通す必要があると、杠葉はそう思っているのだろう。
――なんて。
俺にはそんな経験もないし、これから先そこまでの覚悟を決めなければならない場面があるとも思えない。
だからこんなものはすべて俺の推測でしかないのだけれど。
もちろん、こちらとしても必ずしもお礼を無碍にしたいわけではない。対等でありたいと言ってくれたその気持ちは素直に嬉しいところだし、お礼の内容次第では受け入れることもまったく吝かではない。ただ、どう考えても
吹けば飛ぶような
それくらいは言わせてほしい。
「……お礼をしたいってのはわかったよ。それなら、何か別の形でお礼をしてくれればいい。付き合ってもない女子の胸を触るなんてのは流石の俺も抵抗感あるって」
「でも、男の人は多少の抵抗があった方が燃えるんでしょう?」
「それは触られる側の抵抗の話だろうが! つーか、そもそも俺にそんな性癖はない。最後に幸せなキスをして終わるような優しいお話が好きなんだ俺は」
「ふぅん、まぁそれは別にどうでもいいんだけれど」
余計な話をするなとばかりに俺の言葉はあっさり一蹴される。
思いのほか雑な扱いにちょっとだけ傷ついた。
「うん、やっぱりダメだよ。だって、
「釣り合わないのか……」
「天ヶ瀬くんはわたしのおっぱいを揉むしかないんだよ」
「揉むしかないのか……」
いや、さすがに揉むしかないなんてことはないだろうが。
真っ当に生きていて『揉むしかない』だなんて表現を聞くことになるとは夢にも思わなかったぜ。絶賛、貴重な体験なうという感じだった。
というか、なんでこいつ、こんな強情なんだよ。さすがにちょっと訳が分からなくなる。
こいつ、本当は胸を揉まれたいだけなんじゃないのか?
俺は呆れながらも返す言葉を考えるが、それよりも早く杠葉が口を開く。
「――そうだね」
杠葉はそんなことを言いながら、周囲――特に廊下の方へ注意深く目線をやると、何かに納得したように小さく頷く。
「……うん、誰もいないし、ちょうどいいじゃない。ね、ここで揉んじゃおうよ」
杠葉はお昼ご飯を決めるくらいの軽いノリでそんなことを言うと、おもむろに椅子から立ち上がり、座ったまま動けない俺の目の前に仁王立ちする。
薄手のシャツの生地をこれでもかというほど左右上下と立体的に引き伸ばす大きな二つの膨らみが眼前に広がる。季節は夏、じんわりと滲む汗によりぴたりと地肌に貼り付いたシャツが、女性的で丸みを帯びた杠葉のシルエットを際立たせる。しかしその豊かな胸部だけは、『丸みを帯びた』などという表現では到底折り合いがつかないほどに暴力的なまでの存在感を放っていた。
眼前に迫る光景のインパクトと、至近距離の彼女から漂う甘い香りも相俟って、俺は思わずくらりとする。脳の奥がジンと痺れ、並列的な思考が働かない。
固まる俺に対し、杠葉はほんの少し緊張した面持ちを浮かべながらもにこりと微笑む。
穏やかに。
されどいたずらっぽく。
そんな杠葉から――俺は目を離せない。
「さ――覚悟、決めよ?」
そう言って杠葉は、尚もにじり寄る。
にじり寄るスペースなど、最早そこにはないはずなのに。
「か、覚悟って言ったって、そんな急に言われても」
急じゃなかったら覚悟が間に合うのかというツッコミはごもっともであるが、追い詰められた俺が唯一絞り出せた言葉なのだから仕方がない。
窮鼠状態の俺に対し、杠葉は静かに首を横に振る。
「天ヶ瀬くん、急とかそういう話じゃないんだよ。やるかやらないか、揉むか揉まないか、それしかないんだよ」
そう言って強調するように胸部を持ち上げる杠葉。
彼女の言っている言葉の意味はよくわからなかったが、しかしその仕草が全てを雄弁に語っていた。要するに「うるせぇ、黙って揉め」ということなのだろう。
今や杠葉と俺との距離は1メートルもない。手を伸ばさずとも触れられるような位置に、それはある。
夢と希望は、そこにある。
俺は生唾を飲み込む。
「で、でも――っ」
「それにね、天ヶ瀬くん」
俺の言葉を遮り、杠葉が言葉を紡ぐ。
「あんまり――女の子に恥かかせないでほしい、かな?」
杠葉は恥ずかしそうに頰を紅潮させ、スカートをギュッと握りしめながら伏し目がちにそう言った。
それが天然か、あるいは故意の仕草かはわからないけれど。
その姿は、見る者すべての心を撃ち抜く魅力に満ち溢れていた。
今この場において、彼女はもはや――クラスで二番目に可愛い女の子などではない。
……おぉう。
これは、やばいな。
何がやばいかって言うと、マジでやばい。
頭がバカになりつつあった。
杠葉の醸し出す雰囲気が、そのまま香りのように空気に溶け込み、辺りを漂う。息を吸い込むたびに脳がギュッと収縮し、鼻の奥がツーンと痺れるような感覚を覚える。
俺の意思とは無関係に、身体の至る所が動き出しそうになり、群青色の理性でそれらを何とか押さえつけていた。
つまりどういうことかというと、だ。
この空気はやばい。
本人がここまで言うならいいんじゃないか――だなんて、心の中の悪魔が鎌首をもたげる。
俺の中で、俺すら知らない
ちっぽけなプライドが、本当に吹いて飛んでいきそうな感じだった。
「ほら、ねぇ、あま――っ」
「――あれ? ちとせの声しねぇ?」
そんな異様な空気は、不意に廊下から聞こえてきた声に貫かれ、雲散霧消する。
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