第18話 いつまで経っても
*
まるで砂時計の砂がゆっくりと落ちていくように、時は静かに、しかし確実に進んでいく。刻一刻と近づく文化祭に、教室は俄に色めき立ちつつある。
残念ながら特に文化祭に対して思い入れの無い俺にとっては、皆が盛り上がる理由はわかるものの同じ気持ちを抱くまでには至らず、なんだか竜宮城から帰り着いた浦島太郎のように自分一人が浮いているような気分を覚える。しかし、深海から浮上して来たかと思えば、まさか周囲からも浮いてしまうことになった浦島太郎のことを思えば、最初から浮かんでいる分俺の方がダメージは少ないと言えよう。何の慰めにもならないが。
ちなみに、これは完全に余談になるが(本当に余談なので読み飛ばしてもらっても問題ない)、一般に知られている浦島太郎の物語には続きがある。原作とされる御伽草子では、おじいさんとなった浦島太郎は最終的に鶴に、そして乙姫は亀となり、再び出会った二人は永遠に結ばれるのだという。救いのない現代の物語とは異なり、まさしくハッピーエンドといった感じだ。只管に浦島が可哀想な現代のお話と違って多分に救いのあるストーリーであるように思う。
しかし、これにも諸説ある。玉手箱というのは要するに化粧箱のことであり、現代ではともかく物語が書き起こされた過去の時代においては女性が利用することを想定されていたことだろう。つまり、玉手箱が開かれるということは故郷に戻った浦島太郎に化粧箱を開く仲の女性が存在するということに等しく、浮気をした浦島太郎に粛清を与えるべく玉手箱を手渡したのではと邪推されている。しかも、老人化した浦島太郎が最終的に自らを頼ってくることまで乙姫は想定していたのではとも言われており、見方によってはハッピーエンドと呼べるかも微妙な感じだ。現代に至るまで様々なアレンジが為されてきたというのは、案外そうしたドロドロとした部分が御伽噺にふさわしくないと考えた誰かがいたのかもしれない。
現在進行形で復讐を見せつけられている――というか絶賛巻き込まれている立場の俺からしてみればあまり笑えない話であった。
以上、余談終わり。
しかしまぁ、きっと神楽坂も俺と同じようなことを感じているだろうし、そういう意味では俺は独りぼっちではないのだと安心にも似た気持ちを抱く。こういうマイナス方向にプラス思考を展開させるのはよくないとわかりつつもなかなかやめられないものだ。
いつも通り机に伏した俺が腕の隙間から窺う限りでは、周囲に変化はない。杠葉も、神楽坂も、一条も普段となんら変わりない。
会長から有難いガイドをもらったはいいものの、すぐさま状況が一変させられるというものでもないのだ。
焦っても栓無き事ではあるのだが、具体的にどうしていくかは未だ思いついていなかった。当面は二人の言うことに従うフリをしながら、上手い落としどころを見つけに行く感じになるだろう。つまり、杠葉に対しては神楽坂に内通していることを隠し、神楽坂に対してはあいつの言う通りにするつもりがないことを隠すということになる。
月子にパスワードがバレバレであったように、俺はあまり隠し事が得意というタイプではない(いや、パスワードがバレるのは隠し事が下手とかそういう次元じゃないようにも思うが)のだけれど、しかしそうも言っていられない。
特に杠葉は他人の機微に目ざといタイプだ。彼女には、俺と神楽坂がどういった話をしているかは上手くぼかして伝えていく必要がある。
『嘘をつくなら真実の中に隠さないとダメだよ、陽ちゃん。オールフィクションにしちゃうとさ、映画とかと違って絶対にどこか矛盾が生まれちゃうからね。んふふ、嘘をつくコツはね、最初から別の記憶を作っておいて、その記憶から情報を引き出して話すことだよん』
いつだったか月子がそんなことを言っていた。偉そぶって、知ったかぶって、そんな高説を垂れていた。あいつはいつだって高説を垂れているし、しかもそれらは役に立たないことの方が圧倒的に多くはあるのだが、あいつがやたらと口が立つことだけは事実である。基本的に月子の言うことを真面目に取り合うことはしないし、この話を聞いてからはより一層あいつの言葉を信用できなくなってはいるのだが、これに関してはある程度信頼してもよいのだろう。まぁ、改竄された記憶まで作ってしまっては、それはそれでボロが出そうなのでやらないけれども。
*
「ふぅん、わたしが文化祭実行委員に駆り出されている隙に、天ヶ瀬くんは神楽坂さんや可憐な先輩女子をとっかえひっかえしていたというわけなんだねぇ」
さらに翌日の放課後。
俺たちは最上階の空き教室に集っていた。神楽坂にバレたにも関わらず、相も変わらずである。神楽坂のように意図的に覗きに来なければこの教室は引き続き俺たちにとってのセーフゾーンであったし、そもそも神楽坂にバレたことを隠している手前、この場所を変える理由も杠葉には説明しづらかった。結局、俺はこの教室から別の場所に集合場所を移すことはしなかったのである。
ここ数日は杠葉もそれなりに忙しそうにしていたため、こうして対面で向かい合うのは随分と久しぶりな感じがした。もちろん教室では毎日顔を合わせているが話す機会はほとんどない。それを『顔を合わせている』と表現してよいものかどうかは各々の判断に任せたいと思う。
「そうかいそうかい。いやむしろ爽快ですらあるよ。まったくいいご身分だね。心の赴くまま、足の赴くままに悠々自適なハーレム生活を送っていただなんて、あまりないものねだりするタイプではないと自負している然しものわたしも羨望の念を禁じ得ないよ。友だちがいないだなんて言っていたけれど、女性は別腹ということかな? ご同慶の至りとはまさにこのことだね」
「そこまで言われるほどのことしたか……?」
杠葉は一気に言い切ると、いつも通りいちごミルクの紙パックをちゅーっと勢いよく吸い上げながらジト目でこちらを睨む。言い返しはしたもののその圧に耐えかねて俺は目線を外す。
神楽坂とのクラス展覧会準備のあれこれ、そしてついでに料理研究会に所属している事実を説明し終えたところだった。
説明を進めるたびに険しくなっていく杠葉の表情は、なんだかアハ体験のようにも感じた。しかし、これほど気づいても何一つ嬉しくないアハ体験もないだろう。
「神楽坂のは展覧会の準備だし、同好会は――同好会なんだから仕方ないじゃん」
俺は肩をすくめる。
しかし杠葉は抜いた矛を収める様子はない。
「仕方ないという言葉は便利だよね。自分の正当性を主張するにあたってはこれ以上ないの言葉はないもの。でもその言葉を相手への抗弁で使ってしまったら、すなわち相手にも諦めを強制することになる。あくまで他者を慰めるときだけに使う言葉であるべきだと思うんだよね。そういう意味では今の天ヶ瀬くんの言葉の使い方はあまり感心できたものじゃないかな」
「……」
なんだか何を話しても、まさしく仕方ない感じだった。
ここは大人しく閉口しておこう。
黙り込むのは得意技である。
もともと、料理研究会の話をするつもりはなかったのだが、「昨日、わたしのことを邪険に扱った挙句、意気揚々とどこに行ったの。下駄箱に靴があったから、帰ったんじゃないってのはわかってるんだからね」などといろいろ先回りされてしまっており、説明せざるを得なかったのである。さすがに意気揚々とまではしていなかったと思うが、客観的な感想をはっきりと否定できるほど俺は自分自身に信頼を置いていない。もっとも、それは多分に杠葉の主観が入り混じった客観性ではあるようだが。
「わたしが学級委員と文化祭実行委員の二足の草鞋――いや、一条のことも考えたら三足の草鞋と言ってもいいのかな。うん、とにかくこっちが大変な時に天ヶ瀬くんはなんだか楽しそうだなぁって思っただけ。つい感想がポロッと出ちゃったんだよ。ごめんね、意地悪言ったつもりはないんだ」
嘘つけ。
どう見ても意地悪だったぞ。
憂さ晴らし以外の何物でもなかったぞ。
杠葉と数週間会話してきてわかったのは、こいつはただの良い子ちゃんというわけではないということだった。機嫌が悪い時には当たっても問題ないもの(たとえば自分の筆記用具や俺など)に当たるし、時には強い言葉も使う。こいつとこんな関係になる前には、常にニコニコして誰にでも優しい聖女みたいなやつだと想像していたのだが、実際はそうではなかった。当たり前のことではあるが杠葉も一人の人間なのだ。優しさのストライクゾーンが常人よりも広いというだけで、それ以外は他の人間と大きくは変わらない。
それについて俺は何らコメントを持ち合わせない。第一印象通りの人物なんてそうそういないだろうし、人類代表としてはそもそも聖女みたいな人間などいてたまるかという思いもある(もちろん俺が人類を代表するほど優れているなどとは思っていない。むしろ凡庸さこそが人類であることの証左だとすら思っている。そして凡庸さにかけて俺の右に出る人間はいないだろう)。
ただ、以前よりもずっと親近感が湧くようになったのも、また事実だった。
我ながら単純だと思うけれど。
などと、俺としては怒ったつもりも呆れたつもりもなくただ漫然と別の考え事をしていただけなのだが、その沈黙をあるいはネガティブにでも受け取ったか、杠葉は一転してしおらしい表情を浮かべる。
「……ごめん、ほんとは意地悪なこと言った。天ヶ瀬くんに八つ当たりしました。誠にごめんなさい」
「うん、知ってる」
ちゃんと謝れて偉い。
反省すべきところで反省できるのは杠葉のいいところなのだろう。
「最近ちょっとストレス溜まっててさ。手近なところに殴りやすそうなものがあったからつい」
やっぱ反省してねぇわこいつ。
「学級委員って意外と細かい仕事が多くてね。そこに加えて文化祭実行委員の仕事も入ってきて、もう大変だよ」
椅子の背もたれに寄りかかり、背中をほぐすように上体を逸らす杠葉。
杠葉ほどのスタイルでその仕草はなかなか破壊力が大きいわけだが本人は気に留めた様子はない。
一応、俺も男なんだけどな……。
「文化祭実行委員の仕事は、それは一条たちがやるべきじゃないのか。杠葉がそこまでシャカリキになってまでやる必要あるのか?」
「うーん、まぁ本来的にはそうなんだけどね。ただ、学級委員の仕事とも無関係というわけでもないから、わたしが音頭とってテキパキ進めた方が早いっちゃ早いんだよねぇ」
そう言って杠葉は薄く笑う。
その言葉は、俺にはとても建前的に聞こえた。
普通に考えれば、一人で全てをやるより、しっかり作業分担して進めた方が効率的に決まっている。しかしそれは全員にやる気と真面目さがあるという前提の話だ。
学級委員にしてもそうだが、杠葉に責任感と生真面目さがあるが故に、みな仕事を任せてしまうのだろう。誰しもが同じテンションで、同じ精度で仕事できるわけじゃない。できる人間に仕事が集まるのは無理からぬ話だろうし、任せたくなる気持ちもわかる。その点で一条たちを糾弾するつもりはない。まぁ、自分の仕事をガンガン生徒に投げまくってる担任については流石にどうかとも思うが。
しかしまぁ、責任感があるのは美徳だとは思うけれど、一方で全部抱え込んでしまうのはどうにも危ういなぁと思う。
無論、これは何のしがらみにも囚われない俺だからこそ言えるのだろう。杠葉には杠葉の立ち位置と信念がある。彼女に対してそんな言葉を投げかけてしまうのは、それこそ無責任というものだ。
ただ、ほんの少し想像する。
あの日、俺が財布をとりに戻っていなければ、杠葉は一人で復讐を成し遂げようとしたのだろうか?
今となっては、もはや起こり得ない仮定なのだけれど。
「……ま、ほどほどにな。困ったことがあったら言ってくれよ。いつでも手伝うからさ」
「……うん、ありがとね」
結局、俺はそんなことしか言えない。
これがいつまで経っても当事者にはなれない、埒外の限界だ。
杠葉からのお礼の言葉が、とても虚しく心に響いた。
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