第10話 私がやります


 神楽坂詩かぐらざかうたという人間を本当の意味で理解しているかと聞かれれば俺は答えに窮するだろう。人が人を本当に理解することはできないだろうという野暮なツッコミは一旦さておくとしても、そもそも彼女とはまともに話をしたことがないのだから、それは至極真っ当な反応なのではないかと、我ながら思う。


 彼女のことを、俺は何も知らない。彼女が好きな音楽も、料理も、小説も、言葉も、動物も、教科も、テレビ番組も、異性のタイプも、俺は何一つ知らない。それは知ろうとしてこなかった俺に原因があるとも言えるし、知らせることを放棄してきた神楽坂にも遠因はあると考えられるが、この場合は知られたくないという本人の意思が最も尊重されるべきものであるからして、やはり俺が何も知らないのは当然の帰結と言えるのだろう。

 彼女が送ってきた高校生活のことを考えれば、むしろその問いに対して淀みなく答えることのできる人間など皆無に等しいのではないかとも思う。強いて挙げれば当の彼女自身は(当然ながら)その最有力候補にはなるのだろうが、そもそも答えてくれないという可能性を考慮すれば、やはりこの難問に即答できる人間は見つからなさそうだ。


 彼女に対して抱く通り一遍の印象論でよければいくらでも語れるだろうが、そうした表層的な、もとい氷層的な部分だけを語っても仕方あるまい。氷のように冷たく気高い彼女の当たり障りない部分にだけ注目しても、その内に秘められた人間の核は見えてこない。他人に見せたがらない一面はきっとどんな人間にだって存在する。


 誰にも興味を持たない神楽坂詩が、陰で一条健矢と浮気をしているというのは、きっとその一例だろう。

 あるいは誰にでも優しい杠葉ちとせが、陰で一条健矢に復讐を目論んでいるのも同じカテゴリーに属すはずだ。


 但し、それらはあくまで本性の一端でしかないし、俺はそれをたまたま垣間見ることが出来たに過ぎない。高々そうした側面を知っているというだけで彼女たちの裏の顔までも理解したと考えるのは些か傲慢であろう。そこまで図々しく主張する気は毛頭ない。


 杠葉の復讐を果たすためには、底知れない神楽坂の心の輪郭に触れていく必要があるわけだが、生憎と俺はそれに足る都合の良い術を持ち合わせていない。そんなものを持ち合わせていようものならば友だちゼロ人だなんて事態には陥っていないはずである。

 しかしそれを持ち合わせているであろう杠葉ですらまともに相手されていない現状を鑑みると、仮に俺に何らかのコミュニケーションスキルがあったとしてもそれを以て太刀打ちできるか甚だ疑問ではあるのだが。

 そんなわけで、ここ最近の俺のもっぱらの悩みは彼女に対してどのようにアプローチしていくかというところに尽きるのだが、頭痛の種はどうやって距離を詰めるかという以前に、そもそもどのようにして接点を持つかというところにあった。


 同じぼっちと言っても、俺が孤独なのだとしたら、彼女は孤高という感じだ。そこに共通項を見出して接近するというのは難しいように思う。

 いやもう本当、ノーチャンスすぎて笑えてくるくらいだった。

 いや、本当は笑っている場合ではないのだけれど。


 しかし人生とは面白いもので、そのチャンスは思っているよりも早く、こちらの想定しない形で巡ってくるのであった。

 むしろ自然と舞い込んできたというべきか。

 案外、ビッグチャンスというのはそんなものなのかもしれない。


 ――そもそも、これをチャンスだと定義できるのであれば、の話だが。




「はーい、じゃあこれから来月の文化祭について色々決めていくよー!」


 学級委員の杠葉ゆずりはが黒板の前に立ち、元気よく呼びかける。

 クラス全体がほんの少し浮足立っているような感じで、ざわざわとした空気が教室内で乱反射していく。


 五月末のHRである。

 高校生にとっての主要イベントの一つである文化祭が六月下旬に予定されている。秋口に開催されるケースが多いイベントという印象ではあるが、うちの高校では夏に突入する頃合い、もっと言ってしまえば梅雨の時期に開催されるというのが伝統となっているのだった。その意図については、受験生を集めるために他校との差異化を図っているだとか、大学受験を控える高校三年生が参加しやすいようにしているだとか、色々な憶測が交わされているものの、せっかくのイベントが雨で台無しになってしまう可能性を懸念してか総じて在校生からの不満は大きい。


 二日間開催となってはいるものの、二日とも雨にぶち当たるケースは決して少なくないだろう。実際、去年の文化祭は両日とも雨だったしな。俺と神楽坂を除く大多数の生徒ががっかりしていたのを思い出す。

 過去には生徒会長選挙の公約で文化祭の秋口開催を目指した生徒もいたらしいが、学校としては文化祭の六月開催に相応のインセンティブを見出しているらしく、にべもなく却下されたとの噂も聞く。


「えーと、まずは文化祭実行委員を何人か選びたいんだけど、やりたい人はいるかな?」


 杠葉は体裁上尋ねる形をとっているが、その視線は一条たちの方に向けられている。

 文化祭実行委員と言えば陽キャたちの巣窟というイメージが強いが、この学校も例に漏れない。去年もクラスの陽キャ集団が委員に名を連ねていたが、彼らがその役職を担うのは半ば暗黙の了解に近いものがある。俺には縁遠い話なので、実際のところ実行委員がどのような作業を担っているのかはよく知らないが、特に高い処理能力が必要というわけでもないのだろう。所詮は高校生のイベントだしな。


「よぉし、みんなの期待に応えて頑張っちゃおうかな!」

「よし、雄樹がやる気満々みたいだからこいつ一人に任せよう」

「えぇ!? 健矢冷たくね!?」

「お前が熱すぎるんだよ」

「というか俺一人は無理っしょ!? みんな文化祭が台無しになってもいいのか!?」

「文化祭を人質にとるのはきたねぇぞ……仕方ないな」


 杠葉の視線を受けて(受けてというよりは一条の方向を見た際に偶然引っかかったというのが正しいか)、威勢よく立ち上がる一条一派の男子(といつまでも呼び続けるのも可哀想なので一応紹介しておくと、彼の名前は川田雄樹だ)、そしてそれをいじる一条という構図。

 最後にやれやれと一条が立ち上がるまでがある種の予定調和というか、半ばコントにも近いやり取りだった。しかし、わかりきった流れであっても、あははとクラスから疎らな笑い声があがる。こうしたやり取りでクラスのムードを明るくするのが彼らに求められていることであり、ある意味、彼らは自分たちの役割をそれぞれ理解しているのだと言える。


 そんなやり取りののち、最終的には一条一派のメンバーが実行委員を務めるということで落ち着き、チョークを手にした杠葉が黒板にその名前を記していく。


「はーい、じゃあ健矢たちが実行委員ねー。あ、一応学級委員も実行委員会に参加しなきゃいけないみたいだから、ここから一ヵ月よろしく!」

「よろしくっつーか、結局いつも通りのメンツだな」

「だねー」


 一条は小さく笑うのにあわせ、杠葉が相槌を打つ。そこにもはや不自然さはない。すべて受け入れ覚悟を決めた杠葉は、とてもリラックスした様子で一条と向き合うことができているらしかった。


 その後も杠葉先導の元、クラスの出し物を取りまとめる代表者や会計係、調達班など、基本的には自薦形式でテンポよく決められていく。


「えっと、次がクラス展覧会の準備担当なんだけれど」


 その配役が口にされた時、明らかにクラスの雰囲気が変わる。それまでペチャクチャと雑談をしていた生徒たちは一斉に口を噤み、自分にスポットライトが当たることを避けるようにして皆が目を伏せる。

 クラス展覧会というのは文化祭イベントの一つなのだが、クラスの出し物とは全く別で、よりアカデミックな発表という印象だ。大きめの教室に、各クラスが定めたテーマに関する研究・調査結果をまとめ、展示していくというものである。たとえば地域の歴史だったり、『食』や『宇宙』など特定の分野に関する深堀など、その題材はある程度各クラスの裁量に委ねられている。しかしそのテーマ決めから模造紙数枚に渡る研究・調査結果の記載など、手間と時間を多分に要する役職であり、敬遠されるのもよくわかる。先ほどまで大したことのない役職であっても積極的に手を挙げる生徒が多かったのは、この役回りを回避するためという意味合いも大きかったのだろう。


 実際、『祭』って感じはしないしな。

 『文化』ではあるのだろうけれど。


 無論、研究や調査自体はクラス全体の課題となるため、担当者が全てやる必要はない(むしろそれは学校の意図するところとは外れてくるため、そんな不健全な押し付けが発生しようものなら担任の介入も考えられる)が、先ほども言った通り実務についてはどうしても担当者が対応に当たらざるを得ないため、それなりの労力はかかってしまう。こればかりは文化祭の一環としてはやむを得ないところだろう。


 そんなわけで、先ほどまで盛り上がっていたクラスはしんと静まり返り、互いが互いを横目で窺う疑心暗鬼のクラスに様変わりしていた。

 誰かやってくれ、頼む、という皆の心の声が聞こえてきそうなほどだった。

 一年ぶりのこの感じ、懐かしい雰囲気である。


「クラスから二人選ばなくちゃいけなくて、うーんと……誰かやってくれる人、いるかな?」


 杠葉が控えめに問いかけるが、それに応えるものはいない。


 以前、なにかの実行委員を決めるときには上手いこと調整して俺と神楽坂をペアにするよ、だなんてことを言っていたが、しかしこの雰囲気ではそれは望めない。いくらクラス全体を杠葉が掌握しているといっても、この状況下でバイネームの名指しをしようものなら、それはもはやいじめである。空気感に人一倍敏感な杠葉がそんなことをする由もない。


 この状況を打破する選択肢は二つに一つ。

 一つ目は、残る生徒どうしでじゃんけんをする、あるいは抽選を行うなどして、運に委ねた決定をすること。完全にアトランダムで運否天賦にすべてを任せるこのやり方は一見すると民主主義っぽくて腹落ちしやすい。しかし、その仕組みを事細かに文字起こししてしまえば、詰まるところただ単に一人に不幸を押し付けるやり方でしかないため、不平はなくとも不満は出てくるだろう。


 しかし考えてみれば今の日本の社会はそうした不条理の連続でもあり、ともすれば『一見すると』どころか正しく民主主義の在り方なのかもしれなかった。話し合いで解決できない問題ならば皆が不条理を押し付けられるリスクをとるしかないのである。こんな世の中、まさしく世知辛いぜ、などと厭世家を気取ってみる。


 ではもう一つの選択肢は何かというと、それはまぁ至ってシンプルだ。むしろこちらが一つ目の選択肢であって然るべしとすら思う。

 誰かが自ら進んで人柱になればいい。


「俺がやるよ」


 そう言って俺は手を挙げた。

 次の瞬間には未だかつてないほど俺に視線が集まってくるのを感じ、予想はしていたもののほんの少し緊張する。状況が状況なだけに、それはむしろ好意的な視線が太宗を占めてはいたのだけれど、そうはいっても注目され慣れていない俺にとってはあまり得意なシチュエーションではない。


天ヶ瀬あまがせくん……?」

「うん、問題ないよ」


 心配そうな面持ちの杠葉に対し俺は答える。言外には『神楽坂さんをもう一人に指名するのはこの空気だと難しいよ』というニュアンスが込められているのを肌で感じ取り、それを理解したうえでの立候補であることを目くばせで伝える。


 立候補した理由を聞かれれば、なんてことはない。この不毛な時間をさっさと終わらせたかったというだけだ。そもそも俺にとっては仲良し集団に混ざって楽しくクラスの出し物準備を進める方がよほど酷である。それならば、不運なもう一人と力を合わせ、最少人数で黙々と作業する方が性に合っている。

 したがって、俺は別に人柱になったつもりは毛頭なかった。クラスメートの為にそんなことをする義理も理由もないしな。


 まぁ、選ばれてしまったもう一人に対しては、色々な意味で本当にご愁傷さまという感じではあるが、それもまた民主主義を生きていく上では必要な犠牲なのだろう。

 などと、そんなことを考えていたのだけれど。


「ありがとう、天ヶ瀬くん。そしたら、あと一人を――」


 そこまで口にしたところで、杠葉は息を呑む。それは絵に描いたような美しい息の呑み方であった。

 気づけば杠葉以外の生徒も皆、ある一点を見つめていた。


 一点というか一人。


 先ほどまで俺に寄せられていた視線とは比較にならないほどの注目が集められていた。無論、それは俺も例外ではない。こうして他人事のように文章を連ねているが、心中ではかなり驚いている。家にいたならば「えっ、マジで!?」と叫んでいてもおかしくない。

 簡単に状況を要約するのであれば、全くもって想定していなかったところから立候補を表す挙手が為されていたのである。


「私がやります」


 手を振り上げた状態でそう告げたのは。

 神楽坂詩、その人であった。

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