第9話 兄と妹
*
杠葉が去った後の余韻もそこそこに俺は帰宅の途につく。
時間は18時を少し回った頃。帰宅途中のサラリーマンが少しずつ車内には増えてくる時間帯のようだ。
思えば、こんな時間に家に帰ってくるのは久しぶりかもしれない。普段は学校が終わったら即帰宅だからな。たまに
「ただいま」
「おっかえりぃー!
「うるせぇよ」
「いだぁっ!」
玄関の扉を開けた瞬間、騒音とも呪詛ともとれる言葉の羅列が俺に襲い掛かる。
上がり
ちょっとイラっとしたのでちょっと強めのチョップをぶちかます。
「むー……酷いよ陽ちゃん! 可愛い妹がせっかく出迎えてあげたのにハグの一つもなしなの!?」
「なしだよ」
「キスの一つもなしなの!?」
「もっとなしだよバカ」
頭をさすりながら不平を零すこいつは
現在、中学三年生。市内の中高一貫女子校に通っているため三年生ながら受験はなく、なんとも暢気なものである。妹の顔面について語るのは気恥ずかしいこと極まりないが、なんとか頑張って兄貴フィルターを取っ払ってその容姿を評するならば、まぁそこそこ可愛い方なのではないかと思う。無論、神楽坂詩レベルとは到底言い難いものの、上手く立ち回ればクラスの人気を集めるポジションくらいには到達できるのではないだろうか。あー、やっぱり妹のこと褒めるのはキモいな。褒めてる自分がキモい。鳥肌立ってきた。
兄妹仲は特段良くも悪くもない、というのが正直なところである。月子からは上記のように「ハグしてー?」だの、「キスしてー?」だのと軽口を受けることはあるものの、普段からそのようなスキンシップを交わすような仲ではないとだけ言っておこう。というか実の妹にそんなことできねぇよ。
しかしまぁ、中学三年生という多感な時期、思春期真っただ中の割には、兄であるところの俺に対する態度は随分マイルドな方であるようには思う。マイルドというか、どちらかといえば過剰すぎるほどに愛情を注がれているようにも感じる。他家の妹がどうかはよく知らないが、これくらいの年齢になると男の家族に対して距離を取りたがるのではと勝手ながら想像している。昔からべたべたと引っ付いてくるタイプではあったが、それはこの年になっても変わらないらしい。呼び名の陽ちゃんというのも小さい頃からの名残である。
もちろん嫌われるよりは全然いいのだけれど、もう少し兄離れしてもいいのではと思う今日この頃だった。
「お前、もしかしてずっと玄関で待ってたわけ?」
「当たり前でしょ? あたしは陽ちゃんの忠犬ハチ公――いや、忠妹月公だよ!」
「微妙に語呂がハマっててちょっとイラっとするなぁ」
「そんなことより陽ちゃん、マジに遅かったじゃんか。もう少し遅けりゃ警察に相談していたところだったよ」
たかだか18時過ぎに帰宅したくらいで通報されかけていたらしい。
断っておくが門限があるわけではない。こいつが過保護すぎるだけである。
そこらへんはうちの両親は寛容で、なんなら年がら年中家にいる俺を心配してか学生らしくもっと遊んでこいとお小遣いまで渡されているくらいだ。しかし残念ながらご存じの通りの有様であり、受け取ったお金が着実に貯金箱を埋めていく。いや本当、申し訳ない限りである。代わりに、貯めたお金でいつか親に恩返しをしようと心に誓う。
「なになに、本当に補習でも喰らったの? 陽ちゃんの唯一のアイデンティティである成績にも到頭陰りが見えてきちゃった?」
「実の兄を捕まえて成績が唯一のアイデンティティとか言っちゃってんじゃねぇよ。お前に優しさはないのか。というか俺が赤点なんてとるわけねぇだろ。休み時間も復習に余念がない俺だぜ? 兄様を舐めすぎだよ」
「まぁそうだよねー。陽ちゃんから成績取り上げたら何も残らないもんね」
そりゃそっかと納得したようにふむふむ頷く月子。
兄に対する敬愛はあっても尊敬はないらしい。
こういうところはドライなのである。
「せいぜい顔の良い肉塊にしかならないもんね。でも大丈夫だよ。もしそうなってもあたしが一生陽ちゃんの面倒を見てあげるからね」
「兄のことを顔の良い肉塊とか表現するやつに見てもらう面倒なんざ存在しねぇよ。むしろお前が面倒そのものだわ」
完全に余談だが、こいつの審美眼的に俺はイケメンの部類らしい。
身内贔屓も甚だしい限りだった。
「でも補習じゃないならいったい何をしていたの? イタズラに道草を食っていたわけじゃないでしょ? また例の同好会ってやつ?」
「いや、今日は違うよ。今日のは、あー……」
今日の出来事をなんと表現すべきか思案する。
お兄ちゃんは浮気されたクラスの女の子の復讐に手を貸していて、今日は浮気相手を尾行していたんだよ! などとバカ正直に答えるわけにはいくまい。もっと面倒なことになるのは火を見るより明らかである。
かと言って友だちと出かけていたと安易に嘘をつくのも難しい。兄についぞ友だちが出来たのかと誤解させ、ぬか喜びさせてしまうのはなんだか忍びなかった。
「クラスメートとちょっとばかしウォーキングをな」
「……ちょっと待って。陽ちゃんがクラスメートとお出かけしたってこと!? そしてウォーキングってどういうこと!? 状況がよくわからないよ! お友だちと散歩したってことなの!?」
「いや友だちではないし散歩でもない」
「ますますよくわからないんだけど!! 友だちじゃないクラスメートと放課後に行う散歩じゃないウォーキングってなんなの!」
いたく混乱しているようだが俺としても嘘はついていない。ただ真実を伝えていないだけである。
しかし妹と玄関でいつまでも押し問答をするほど俺も暇ではない。ぎゃーぎゃー喚く邪魔な妹を押し退け、俺は自分の部屋へ向かうのだが、月子は俺の腰に抱きつき離れようとしない。
「待ってよ! 可愛いこのあたしを邪魔な妹って言わなかった!?」
「言ってない。心の中で思っただけだ」
「同じことでしょ! というかまだ話は終わってないんだよ! そのクラスメートって女なの? ねぇ、それだけ教えてよ! あたしにとっては兄の一大事なんだよ!」
「当の本人を差し置いて勝手に大事にするな。いいから引っ付いてくるんじゃねぇ。ほら、さっさと自分の部屋に帰れ月公、ハウスだハウス」
「やだ! 陽ちゃんが教えてくれるまであたしは絶対ハウスしないもん! チンチン以外の命令は聞かないもん」
「1番聞かなくていいわそんなもん! というかそんな命令するわけねぇだろ! いいから離れろうざってぇな!」
「むきー!」
結局。
俺は月子を腰から引き剥がすことも叶わず、仕方なしに月子を引き摺ったまま自室に辿り着き、そのまま月子ごとベッドに横たわる。強情になってしまった月子は本人の望みが叶わない限りそのスタンスを崩すことはない。やむなく、月子が眠りに落ちるまで俺は彼女を抱きかかえながら、ベッドの上で静かに瞑目するのであった。
はぁ、まったく。
妹は手間がかかって仕方ないぜ。
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