第8話 一条の光

「……ん? どうした?」


 そのまま解散するものと考えていたらしい一条は、会話を続けた俺に対し驚いたような表情を見せる。それに構わず俺は言葉を続ける。


「ちょっと悩んでることがあってさ、つーかこれは俺も相談された側ではあるんだけれど、恋愛経験豊富な一条に教えてもらいたいことがあるんだ」

「別に俺もそこまで豊富ってわけじゃねーけど……まー、俺に答えられる話なら」

「ありがとう。これはなんだけれど、そいつの彼女がで別の男子にところを偶然目撃しちまったらしくってさ、これってやっぱりだと思うか?」

「……」


 一条に思い当たる節を与えないよう、事実から細部をブラして訊ねた。

 無論、俺には男友だちどころかそもそも友だちが存在しないため、俺のことを少しでも知っている人間であればこの話は嘘であると即看破するだろう。しかし一方では友だちが存在しないがために、俺のことを少しも知っている人間がいないというカウンター理論が炸裂するため、結果として隙のない鉄壁の作り話となっていた。

 ……いや、隙がないは言い過ぎたかもしれない。

 むしろ無数の隙が集合して一つの巨大な穴となっているが故に、小さな隙が見つからない、くらいの話かもしれなかった。何がカウンター理論だよ、誇れねぇよ。


 しかし友人の多い一条からしてみれば、男友だちが存在しない人間などもはや神話の登場人物に等しいのではなかろうか。おそらく俺に友だちが存在しない可能性には露ほども思い至らないであろうと俺は読み切る。


 俺の問いかけに一条はほんの少し黙り込む。

 俺の質問への答えを考えているのか、あるいは俺の質問の真意を探ろうとしているのか。


「……まぁ、細かい状況はよくわかんねーし、あんまり無責任なことも言いたかないけど、なんじゃねーの? 


 その回答を聞いて、俺の腕を掴む手に込められた力が増す。

 顔は見えないが、杠葉ゆずりはが今どんなことを思っているか容易に想像がついて――ほんの少し胸が痛む。


 けれどきっとこれは、思い出も想い入れも、未練も後悔も、全て振り切って次のステップに進むために必要な確認であったと思う。

 この機会を逃せば、一条の本音を引き出すタイミングは失われていただろうと確信する。あいつが負い目を感じていて、それでいてガードが緩んでいる今この場でなければ引き出せなかった言葉だろう。


 杠葉は浮気を確信している風ではあったけれど、それでもきっと心のどこかに一条を信じる気持ちは残っていたはずだ。二人のデート姿をみて傷ついていたのがその証左なのだと思う。半信半疑とまでは言わずとも、一分の可能性は心に残していたはずだ。

 俺は今、この場でその可能性を奪い去った。


 きっと、このまま進んでいけば、またいずれどこかでその可能性は潰えていただろうと思う。しかし本人の言葉がなければそれは100%には成り得ない。どこまでいっても99%のままで、杠葉は心の奥底の希望を捨てきれないまま進んでいたことだろう。


 その1%は、周りが黒くなればなるほど、強く光り輝く。

 その光が失われるのは、皮肉なことに復讐が成功した時なのだろう。そして、きっとそれが失われた時の重みは計り知れない。

 それならば、今の段階で白黒ハッキリさせ、前を向く以外の選択肢を奪い去る方がきっと彼女の傷は浅い。


 もちろん、俺の独断で、杠葉にとって残酷なことをしたというのはよくわかっている。覚悟していたとはいえショックには違いないのだ。

 言うなればこれは心の準備もできていない彼女にいきなり刃を突き立てたようなものだ。怒られても――恨まれても仕方ない。


 それでも、全て終わったときに少しでも杠葉が前を向いていられるようにするのが、協力者たる俺の役割だ。

 俺は俺の役目を全うする。


「……そうか、やっぱりそうだよな。悪い、変なこと訊いて。俺、恋愛ってあんま慣れてないからそいつに上手くアドバイスできなくてさ。一条が話を聞いてくれて助かったよ」

「おー。ま、参考になったならよかった。んじゃ、俺らはそろそろ行くわ。また学校でな」

「……おぉ」


 さして疑問も抱かなかったのか、そんな当たり障りのない受け答えののち、一条は俺たちが来た方角へと一歩踏み出す。

 俺たちと遭遇してしまった以上、彼らもここでデートを切り上げるはずだ。不必要にリスクを冒すことはしないだろうし、ここから先は無理に追跡する必要もない。


 俺は立ち止まったまま、去り際の一条に小さく手を挙げ、道を譲る。


 もはや用のない俺に一瞥くれることもなく、ただ前を向いて通り過ぎる一条。

 そして――それに続く神楽坂詩。

 俺たち恋愛リベンジャーズは、今のところはただその姿を見送ることしかできない。


 相も変わらず誰にも興味のなさそうな無機質な瞳を虚空に彷徨わせながら、漆黒の髪をはためかせ、何物にも目もくれずただ悠然と俺たちの前を横切っていく――はずだった。


 しかしその去り際。

 俺は確かに耳にする。


 聞き馴染みのないその声色を。

 聞こえるはずのないその言葉を。


「――さようなら、天ヶ瀬くん」




「ここまでで大丈夫だよ、天ヶ瀬くん」


 杠葉は駅のホームへと続く階段の前で立ち止まり、控えめな笑顔を浮かべてそう言った。


「もう落ち着いたから大丈夫。心配かけてごめんね」

「……そうか」


 一条たちと別れた後も、杠葉は顔を上げることはなかった。

 俺の腕にしがみついたまま。

 いや、縋りついたまま、と言う方がニュアンスとしては適切かもしれない。


 俺には、杠葉にかける言葉が見つからなかった。そもそも俺がかけていい言葉など存在しないのかもしれない。彼女が縋っていたモノを奪い去ったのは他でもない俺だ。俺に出来ることは、彼女の嗚咽を聴きながら、せめて一時的な宿木を提供することくらいだった。

 そうして、俺たちはそのまま道の端で暫くの間立ち尽くす。


 夜の帳が顔を覗かせてきた頃には杠葉も心の整理がついたらしく、「そろそろ帰らなきゃだね。ごめんね、天ヶ瀬くんの袖、濡らしちゃった」と弱々しい笑顔を浮かべて俺から離れていく。


「恥ずかしいとこ見せちゃったな。でも、ありがとうね、天ヶ瀬くん」

「……怒らないのか」

「何に怒るって言うのよ。感謝こそすれ、キミを怒る理由も権利も、わたしにはないよ」


 瞼を腫らしながらも気丈に振る舞う杠葉。

 ビンタとまでは行かずとも恨み言の一つくらいは覚悟していただけに、なんなら罪悪感の逃げ場を失ってしまったような感じだったが、杠葉がそう言うのであれば俺は黙って従おう。罪悪感を飲み込むこともきっとまた罰なのだ。


「あー、なんかすっきりした! キミのおかげでちゃんと吹っ切れた気がするよ。あれだけ熱が冷めただなんて言っておきながら恥ずかしい限りなんだけれど、正直に言えば、あの現場を目撃した後もわたしはまだ一条のことが好きだったし――その気持ちは今も変わらない。好きっていう自分の気持ちはそう簡単に消せないんだね。信じられないという感情と、信じたいという願いがわたしの中で同居して、理想と現実のギャップがどうしても埋められなくて、ここ数日ずっと苦しかったんだぁ」


 杠葉はグイと伸びを挟むと、妙に晴れやかな表情で滔々と続ける。


「けれど、さっきのやり取りのおかげで正しく踏ん切りがついた気がするんだ。やっぱり、あいつのことが好きだったという気持ちはちゃんと持っていく。どんな形であろうと、わたしは過去の自分も、今の自分も否定しない。どれだけ一条のことが許せなくとも、自分のことだけは否定したくないんだ。あいつを信じたいという願いだけ――ここに置いていくよ」


 自分の生き方が間違っていないことを強く確信しているからこそ、彼女はそのプライドを何より大切にしているのだろう。

 それはきっと杠葉ちとせがナチュラルに『杠葉ちとせ』で在り続けられる一番の根拠であり、同時に彼女の復讐の原動力にもなっている。


 杠葉の瞳に強い意志の光が宿る。


「もう迷わないよ。今日がわたしの――わたしたちの本当の復讐記念日。一年後の今日、わたしたちが一条あいつの向かい側で笑っていられるように頑張ろう。改めて、これからもよろしくね、天ヶ瀬くん」

「……おう」


 杠葉はそう締めくくると、にこりと鮮烈に微笑んだ。

 俺が余計な言葉を付け加える必要も、余地も、どうやらなさそうだった。


 その後、俺たちは駅までの道すがら、一言も会話を交わすことなく、淡々と足を動かし続けた。

 そうして現在に至る。


「いやぁ、しかし改めて思い出すとムカつくよねぇ、あいつ。小賢しい誤魔化し方しよってからに。そのくせ自分のことを棚に上げて浮気理論語っちゃったりしてさぁ! なーにが無責任なことは言いたくない、ですか。わざわざ『普通』って言葉を二回も使ってまで予防線張ってるところが嫌らしいよね。まずはわたしについて責任取れって感じだよ。本当図太いというかなんというか」


 階段の下まで来たところで、まさしく思い出したように杠葉は腰に手を当てぷりぷりと怒り出す。

 ようやく悲しみに怒りが追いついてきたらしい。

 杠葉のアクセルをふかし続ける。


「復讐が終わった暁には、あいつの顔面にシュークリームをぶつけてやろうね!」

「まぁそれくらいはしてやってもいいかもという気持ちはあるけれど、なぜシュークリーム?」

「あいつの好物だからね!」

「それだと半分くらいご褒美になる気がするが」

「うぅむ、一理あるね。よぉし、それなら靴の方のシュークリームをお見舞いするぞぉ!」

「いや、そこまで冷酷な追い打ちをかけるつもりはない」


 こっちの手もべたつきそうだし。


 杠葉は顎に指をあて、んーと思案顔を浮かべたのち、またも何かを思い出したかのように表情を一変させる。


「あれれっ、そう言えばすっかりスルーしていたけれど、神楽坂さん去り際に天ヶ瀬くんに挨拶してなかった? してたよね? なんで? 天ヶ瀬くん、彼女とはほとんど話したことないって言ってなかった? ねぇ、わたしに嘘ついてたの? もしかして天ヶ瀬くんは裏切り者なのかな?」

「圧が強ぇよ。嘘でも裏切り者でもねぇって……いや、マジで俺も困惑してるんだよ。一番意味がわかってないのは俺なんだって。あいつの声聞いたの、たぶん半年ぶりくらいだぞ」


 こちらに詰め寄る杠葉を手でいなしながら、俺は本音で答える。

 誰あろう俺が一番びっくりしてるよ。


 前に聞いたセリフは試験中の「すみません、シャーペンと消しゴムをすべて落としてしまいました」だったかな。

 ああ見えて意外とドジっ子らしい。


「ふぅん……わたしなんて毎朝彼女に挨拶してるのに一回も返事もらえてないのになぁー。どうして天ヶ瀬くんには彼女から挨拶してくるんだろうねぇ? 不思議だねぇ?」


 杠葉は面白くなさそうにぼやく。

 一度も挨拶を返してこない相手に二か月近く挨拶し続ける杠葉の鋼メンタルには正直脱帽といった感じだ。


 不思議だねぇとプレッシャーをかけられても本当に心当たりがない俺にとってはただただ答えに窮するばかりである。

 最も可能性が高いのは、彼氏(仮)とのデートで気分が高揚し、つい口から挨拶が零れてしまったという線か(挨拶がつい口から零れるという表現は果たして実社会で使う機会が今後あるとは到底思えないが、しかし神楽坂について話す上では純然たる事実なので仕方がない)。

 なんにせよ、ここで推量を並べたところでわからないものはわからないし、そもそも並べるほどの推量も持ち合わせていないのだ。

 わかっているのは、神楽坂詩が俺――天ヶ瀬陽太郎のことを認識しているらしいという、ただその一点のみである。


「まぁ、あれが偶然だったのか必然だったのか、故意なのか過失なのか、明日以降のあいつの態度でなんとなく見えてくるだろ。まぁ、十中八九、大した意図はなかったのだと思うけれど」

「……まぁ薄い方の目が出たとしても、それはそれで都合がいっか」


 何やら独りでに納得したらしい杠葉は、パッと表情を明るくすると「頑張れよ少年!」と俺の肩をパシパシと叩いたのち、こちらを向いたまま一歩後方へ踏み出す。


「じゃあね天ヶ瀬くん! 今日はありがと! 色々あったけれど、今日の尾行、なんだかスリリングで楽しかったよ! また明日学校でねっ! バイバイ!」


 一気にまくし立てたかと思うと、杠葉は俺の言葉を待つことなく踵を返し、颯爽と階段を駆け上っていく。

 ゆらゆらと不規則に揺れるスカートの端に気を取られたのもつかの間、あっという間に彼女の後ろ姿は見えなくなってった。青春漫画のような、とても爽やかな去り際であった。


 ――つまりこれって、俺の初デートじゃん。

 今さらながらにぼんやりとそんなことを思った。

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