第2話 わたしの復讐、手伝ってよ
五秒ほど様子を見ていたが身体を離す様子はなく、倒れかけた神楽坂を一条が支えた拍子に――という可能性はなさそうだ。
あまり出歯亀行為をする趣味はないが、このまま覗いていたらこれ以上のシーンを見られそうな雰囲気である。
しかしそれらが意味するところは、俺の隣で目を見開き肩を震わせる女――
……いや。
マジで隣を見られねぇよ。
見てらんねぇよ。
「――きて」
「ちょっ」
衝撃的な光景をそのまま眺めていたいという気持ちと、さっさと財布を回収して帰りたいという気持ちが交差する中、不意に動き出した杠葉にグイと腕を引っ張られる。
ズンズン進んでいく杠葉の勢いに抵抗叶わず、俺たちはそのまま教室を後にする。
あの、俺の財布……。
*
「……
俺と杠葉は近くのファミレスに場所を移していた。
移動の間、彼女が発した声といえばファミレスの店員に対する「二名です。奥の方の席でお願いします」というそのフレーズだけで、あとはずっとダンマリであった。
それこそ神楽坂のように。
いや、もはやそれもシャレになっていないのだけれど。
そうして着席したのち、注文もそこそこに発したセリフがそれである。
自分の教室をあんなところ呼ばわりというのもまた随分な話だ。
「ああ、忘れ物を取りに戻ってたんだよ。まさかあんな光景を見ることになるとは思ってなかったけれど。杠葉は?」
「……わたしはね、健矢――一条くんから職員室に寄らないといけない用事があるから先に帰っててって言われてさ。そしたら友だちからちょっとした相談を受けてね。中庭でお話をしていたんだよ」
「なるほど」
「それでさ、そこまで時間がかからなかったから、もしかしたら健、一条くんがまだ残ってたりしないかなぁって、ばったり会って一緒に帰れたりしないかなぁって、そう思って教室に行ったら――この様だよ」
「それはまぁ、なんというか……お気の毒に」
虚ろな目で淡々と経緯を述べる杠葉に、俺は掛ける言葉が見つからなかった。
ルンルンで彼氏に会いに行ったところで彼氏の浮気現場と遭遇するというのはなんとも残酷な話である。
「ねぇ、天ヶ瀬くんはさ、
「……忖度アリ? ナシ?」
「ナシ」
「まあ十中八九、浮気でしょ」
「……だよねぇ」
杠葉は大きなため息をつくと、べたりとテーブルに突っ伏すが、豊かな胸部がつっかえとなり頭はテーブルに接地せず。自らの胸に顔を埋めているような謎の格好になっているが本人は気にした様子は見せない。むしろこれが彼女なりの『突っ伏し』なのだろうか。
そもそも俺はなぜ連れてこられたのだろう。
彼女に引き摺られるままついてきてしまったわけだが、なぜ俺は彼女の突っ伏しをこうして眺めることになっているのかよくわからない。
そんなことを考えていると杠葉が顔を上げる。
「……ちなみに聞くのだけれど、残りの一と二は?」
「元から神楽坂が本命で、杠葉が浮気」
「うわぁぁぁん! 酷いよぉぉぉぉ! なんでそういうこと言うんだよぉぉっ!」
「忖度ナシでって言ったのはそっちだろ」
杠葉はワッと顔を歪ませ、再びユニークな突っ伏しを見せる。
訊かれたのであくまで可能性を答えたものの、状況を勘案するとその線は薄いとは思っている。春休み以前に神楽坂と一条が付き合っていたのだとしたら多少なりとも噂になっているはずだ。無論、隠し通していたという可能性はあるが、その場合はそもそも誰かに見られる可能性の高い教室で抱き合うなんてことはしないだろう。
ただ、今後そうした逆転が起きる可能性は十分あり得るように思う。
というか一条の中では既に逆転していてもおかしくない。杠葉という学年トップクラスに人気のある彼女がいる状況であのハグは、きっとそういうことなのだろう。
さすがにそれを真正面から杠葉に言うほど鬼ではないが。
俺は突っ伏したままの彼女を後目に二人分のドリンクバーを注文し、とりあえず自分の分のアイスコーヒーをとってくる。
「……ねぇ、わたし、これからどうしたらいいと思う?」
杠葉は顔を伏せたままそう言う。
「は、なんで俺に聞くんだよ」
「……なんとなく、天ヶ瀬くんって正解を持っていそうだから」
「そんな期待されてもな……」
この子は、レトリックではなく本当に教室の隅の方で小さく縮こまっている俺のどこら辺にそんな期待を見出したのだろう。
「まあ無難だけど、ストレートに一条を問いただせばいいんじゃねぇの? 何かの勘違いなら説明してもらえるだろうし、勘違いでないのなら――どのみちそれなりの釈明はあるだろ」
「……甘い、甘いね天ヶ瀬くん! それじゃダメだよ!」
ガバッと食い気味に顔を上げた杠葉の頬には薄っすらと涙の痕が残っていた。
どうやら杠葉の中では、俺の回答を聞くまでもなく何かしらの答えがあるらしい。
ダメと言われてもな。というかなんで聞いたんだよ。
「わたしがいま何を考えているかわかるかな?」
「えっと……彼氏が浮気している可能性が高くて哀しい、とか?」
「正解は一条と神楽坂詩マジぶっ殺す、だよ」
怖ぇよ。
そして到頭、一条の呼び名が一条になってしまった。
「一条とは去年から同じクラスではあったんだけれど、最初はそんな好きじゃなかったんだよね。確かに顔はかっこいいし、運動神経もコミュ力もあって、ザ・クラスの中心人物って感じで最初からモテてたんだけど妙にギラギラしててさ、正直ちょっと苦手だった」
滔々と語り出す杠葉。
これは長い話になりそうだなぁなんてことを思いながら、俺はアイスコーヒーを啜る。
「きっかけはあいつからのアプローチでさ、最初はそれも適当にあしらっていたんだけれど、ちょっとずついいなぁって思う部分が見えてきちゃってね。気づいたら――好きになってた。それでこないだの春休みに付き合うことになったんだ」
いわゆる返報性の原理というやつだろう。好きという気持ちを繰り返しぶつけられると、相手にも好意を返したくなり、次第にその人の些細な言動でさえも好意的に思えてくるのだと言う。
「嫌々付き合っていたわけじゃないし、わたし自身は幸せだったよ。だったのにさぁ……」
杠葉は手に持った紙ナプキンをぐしゃりと握りつぶす。
あ、これは噴火するな。
「なんで付き合って二ヶ月もしないうちに浮気するかなぁ! というかそんなことあるっ!? わたしってそんなに魅力ないのかな!? これでも三年に一人の美少女って言われてたんですけどわたし! おっぱい込みなら五年に一人と専らの噂だったんだよ!」
「ど、どうどう」
ガンガンと机に拳を打ち付け肩を震わせる杠葉を宥める俺という、謎の構図がそこにはあった。
何故、俺が杠葉を宥めているのだろう。
つーか、あんまでかい声でおっぱいとか言うんじゃねぇ。
「しかもさ! よりによって神楽坂詩はないでしょ! なんでそこにいくかなぁ!」
「まぁ、客観的に見れば杠葉から神楽坂ってのは納得感はあるよ」
「うるさいよ!」
怒り冷めやらない杠葉は俺の飲みかけのアイスコーヒーのグラスを引っ手繰ると、ストローに口をつけズズズと一気に飲み干していく。
どうやら間接キスを気にするタイプではないらしい。
「というか神楽坂さんも神楽坂さんだよ! あんな虫も殺せなさそうな顔をしておいて、しっかりみっちりやることやってるってことね! あーヤだヤだ。というかあんな男の何がいいんだろうね? お人形さんみたいに可愛いのに男の趣味は悪いんだねぇ」
一言一句残さず特大ブーメランという感じだった。
それ以上自分を虐めるのはやめてあげてほしい。
聞いているこちらが居た堪れなくなってくる。
「ま、まぁ、人生山あり谷ありということで。そういうこともあるさ。それに、まだ浮気したと確定したわけでもないわけだし、あんま落ち込みすぎるなよ。もし、どうしても怒りが収まらないなら真正面から弾劾してしまえばいいんじゃないかな? 意外とそれで解決することもあるし、仮にそうでなくてもすっきりはするだろうよ。とにかく俺はお前のこと、応援してるぜ。じゃ、そういうことで」
このままでは延々と愚痴を聞かされ続けると踏んだ俺は、速やかに退散に移行する。
まあいろいろと想定外の出来事はあったが、しかしなんというか、杠葉ちとせの新しい側面を見ることができたのは面白い収穫だったな。誰にでも優しい根明の優等生とばかり思っていたから、ここまで腹黒く毒を吐く一面があるというのは新鮮な発見だった。
そんな感じで上手いこと自分の中でまとめて席を立とうとしたのだが、しかし杠葉が俺の腕を掴み立ち上がることを許さない。
「えっ、どこに行くの? お手洗い?」
「いや、普通に帰るつもりだけど」
「えっ、本気? この状態のわたしを置いて帰る気なの? というかまだ話は終わっていないのだけれど?」
杠葉は信じられないといった口調で俺を暗に非難する。
俺のような陰キャが残ったところで何ができるとも思えないのだが。
「……まだ俺に何か用があるの?」
「よくもまぁめんどくささを一切隠さずにそんなことが言えるね。天ヶ瀬くんに人の心はないのかな?」
暗に、どころか公然と非難してくる杠葉。
そこまで言われるほどのことをしたつもりはないが、俺に人の心があるかはともかく杠葉は俺の腕を離す気はないらしく、俺は已む無く改めて着座する。
「さっき、わたしがこれからどうしたらいいかって訊いたでしょう? 実は、もう自分が何をしたいかはわかっているんだよ」
「……ふぅん。それで? いったい何がしたいんだよ、杠葉は」
仕方なく相槌を打つ。
話を聞いてやらないことには解放してくれそうにない。
杠葉は瞳に鋭い光を宿して答える。
「わたしは――一条を許さない。わたしにはあれが浮気じゃないとは到底思えないんだ。
「……はぁ、それで?」
「あいつには――いや、
そう口にした杠葉の表情には鬼気迫るものがあった。
朗らかな優しい仮面の下には、マグマのように煮えたぎった激情が常にうねりを上げているようだった。
これが本当の杠葉ちとせという人間なのだろう。
自分の味方――いや、敵ではない者といった方が表現としては正しいかもしれないけれど――に対しては、広く遍く優しさを降り注ぐ。反面、自分に仇なす人間に対しては容赦なく炎の嵐をぶつけていく。
きっとどちらも杠葉ちとせの本質なのだろうと思う。ここまでピーキーなスイッチのオンオフは余程器用でなければこなせないはずだ。
単なる優等生だと思い込んでいたクラスメートの予期せぬ一面を垣間見て、俺は思わず寒気を覚える。
「――天ヶ瀬くんさ、さっき、わたしのこと応援してくれるって言ったよね?」
「ん、あ、あぁ、言ったような気もするけれど」
確かに、退散しようとして聞こえの良い言葉を並べた記憶はある。
別にまるっきり嘘というわけではないが、退散することに若干の後ろめたさを覚えていたからこそ飛び出た言葉であり、そこまで心を込めて伝えたフレーズというわけでもない。
改めて言及されると、俺にとっては多少決まりの悪さを覚えてしまう。
「それってつまり、わたしに協力してくれるってことだよね?」
「いや、どうしてそうなる」
「どんなことでも、わたしの為にやってくれるってことだよね?」
「そんな都合のいい変換を許した覚えはねぇよ!」
俺は思わずツッコミを入れながらも、バレない程度に下唇を噛み締める。
あぁ、まずい。
この流れは非常に良くない。
次に何が起きるか俺には――いや、俺でなくても手に取るようにわかってしまう。
――
だなんて。
後悔してももう遅いのだけれど。
彼女はゆっくりと目を開き、俺の瞳をまっすぐと見据える。
強い意志を湛えた瞳から、俺はなぜだか目をそらすことができない。
「ねぇ、天ヶ瀬くん――」
杠葉は静かに口を開き、言葉を一つ一つ並べていく。
彼女にとっても、俺にとっても呪いとなるその言葉を。
「――わたしの復讐、手伝ってよ」
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