第8話
夜明け前の静かな村。恵は早朝の薄暗い空気の中で目を覚ました。春子が亡くなってから初めて迎える朝、彼女の心には一抹の不安と、そして新しい一歩を踏み出す決意が混ざり合っていた。
「今日は、春子さんの代わりに私が塩むすびを作る日だ」と自分に言い聞かせ、恵は布団からゆっくりと起き上がった。まだ外は静かで、村はまるで眠っているかのようだった。
恵は食堂に入り、春子がいつもしていたように、まずは丁寧に米を研ぐことから始めた。水の冷たさが指先に染み渡るが、その感覚が彼女を現実へと引き戻してくれるようだった。研ぎ上がった米を炊飯器にかけ、やがてふっくらと炊き上がる米の香りが厨房全体に広がっていく。
その香りは、恵に春子の存在を感じさせた。彼女は春子が側にいるかのように、穏やかな気持ちで塩むすびの準備を進めた。木製の桶に炊き立てのご飯を移し、春子から託された塩瓶を手に取る。
「春子さん、今日は私が村の人たちにこの塩むすびを届けます」と心の中でつぶやき、恵は塩を振りかけた。手のひらにご飯をのせ、優しく握りながら、春子が教えてくれた「心を込める」という言葉を思い出す。
ひとつ、またひとつと塩むすびを握っていくたびに、恵の心は次第に落ち着きを取り戻していった。これまで春子に見守られていた手が、今は自分の力でこの村を支えることを実感し始めていた。
やがて、朝日が昇り始め、村が少しずつ目覚めていく。恵は作り終えた塩むすびを竹かごに詰め、食堂の扉を開けた。外の空気は澄んでおり、鳥のさえずりが耳に心地よく響く。
恵は食堂の前で深呼吸をし、そしてゆっくりと村の道を歩き始めた。春子がいつもそうしていたように、一軒一軒、村の家を訪れ、塩むすびを手渡していく。村人たちは、春子の代わりに塩むすびを持ってきた恵を温かく迎え入れ、感謝の言葉をかけてくれた。
「恵さんがこうして塩むすびを作り続けてくれて、私たちも心が和らぎます」と、ある老婦人が微笑んだ。
恵はその言葉に励まされ、さらに自信を持って次の家へと向かう。村の人々との触れ合いが、彼女に新たなエネルギーを与えてくれた。春子が生きていた時と同じように、村は今も変わらず塩むすびを中心に回っていることを感じる。
最後に、恵は村の古い神社へと足を運んだ。神社の境内には、村の象徴である大きな杉の木がそびえ立ち、その根元には春子のために奉納した塩むすびが並べられていた。恵はその前に立ち、心を込めて一礼した。
「春子さん、皆さんと一緒に塩むすびを作り続けます。そして、この村を守り続けます」と誓いを立て、恵はその場を後にした。
その日の夕方、村の広場には恵が作った塩むすびを手にした村人たちが集まっていた。皆が一緒に春子の思い出を語り合い、そして笑顔を交わしていた。その光景を見た恵は、自分が正しい道を歩んでいることを確信した。
夜が更け、村が静まり返る中、恵は一日の疲れを感じながらも、心に満足感を抱いて食堂へ戻った。春子の教えを胸に、明日もまた塩むすびを握り、村の人々と共に歩んでいくことを決意しながら、恵は穏やかに眠りについた。
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