第6話

夜明け前の静けさの中、恵は目を覚ました。外はまだ薄暗く、静まり返った村の風景が窓の外に広がっている。恵は何かに導かれるように布団から抜け出し、そっと春子の部屋へ向かった。


扉を開けると、春子は既に目を覚ましていた。小さな明かりがともる部屋の中で、春子は静かにベッドに横たわりながら、恵の方を見て微笑んだ。


「早いわね、恵さん」と春子は穏やかに言った。「今日は、大事な話をしようと思っていたの。」


恵は胸が高鳴るのを感じながら、春子の隣に座った。春子の顔は少しやつれていたが、その目にはいつもの優しさと決意が宿っていた。


「恵さん、私はもうあまり時間が残されていないことを感じているの。でも、塩むすびの伝統は続けていかなければならない。だから、あなたにお願いがあるの」


恵はその言葉に息をのんだ。「春子さん…」


「この村で塩むすびを作り続けてきたのは、ただの食べ物を提供するためではなかった。これは、人と人をつなぐためのもの、心の絆を結ぶためのものだったのよ。そして、それはこれからも続けていかなければならない。」


春子はゆっくりと体を起こし、枕元に置いてあった古びた箱を手に取った。その箱を開けると、中には古い木製の塩瓶と、手書きのレシピが収められていた。


「この塩瓶とレシピは、私が大切にしてきたもの。私の母から、その母へと受け継がれてきたものなのよ。この塩には、ただの塩以上の力がある。それは、気持ちを伝える力。そして、このレシピは、私たちの家族の思いが詰まったもの。」


春子は恵に塩瓶とレシピを手渡した。恵はその重みを感じ、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。


「恵さん、私はあなたならきっと、この村を守り、塩むすびの心を伝えていってくれると信じている。だから、どうかこの塩むすびを大切にして、村の人たちと一緒に未来へ繋げていってほしいの。」


恵は春子の手をしっかりと握りしめ、強く頷いた。「私が必ず、春子さんの思いを受け継ぎます。そして、塩むすびを通じてこの村を守っていきます。」


春子は恵の言葉を聞いて、満足そうに微笑んだ。「ありがとう、恵さん。あなたに出会えて、本当に良かった。」


その言葉を聞いた瞬間、恵の胸に温かいものが広がった。春子の塩むすびが持つ力、それを受け継ぐ責任、そして何よりも春子の優しさと愛情が、恵の心に深く刻まれた。


その日、恵は春子の指導のもとで、最後の塩むすびを一緒に作った。春子は手を添えるようにして、ゆっくりと丁寧に塩むすびを握っていく。ふっくらとしたご飯と塩の絶妙なバランスが、まるで魔法のように手の中で形作られていく。


「これが、私たちの塩むすびよ」と春子は言い、完成した塩むすびを恵に手渡した。


恵はその塩むすびをしっかりと受け取り、心の中で春子の思いを反芻した。そして、これから自分が何をすべきかを強く決意した。


その夜、春子は静かに息を引き取った。村は静寂に包まれ、恵は春子の遺志を胸に、新たな旅立ちを迎える覚悟を決めた。塩むすびを通じて繋がる絆を守り、そして広げていくために。

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