第2話
その夜、恵は食堂の小さな二階に泊まることになった。窓の外には星が瞬き、村全体が静けさに包まれていた。しかし、恵の心は穏やかではなかった。塩むすびに感じた温かさと、老婦人・春子の微笑みの裏に隠された何かが、頭から離れなかったのだ。
夜が更けても、恵はなかなか眠れず、そっと布団から抜け出した。階下の食堂に降りてみると、まだ灯りがついていた。カウンターの奥では、春子が何かを手にしてじっと見つめているのが見えた。
「起きてたのね」と春子が振り向き、穏やかに声をかける。
恵は少し戸惑いながらも、「眠れなくて…」と答えた。「何か気になることがあったのかしら?」春子は問いかけるが、その声にはどこか優しさが漂っていた。
「春子さんの塩むすび…すごく美味しかったです。でも、それだけじゃなくて、何か特別なものを感じたんです」と恵は正直に話した。
春子はその言葉を聞くと、ふっと微笑んだ。「そうかもしれないね。この塩むすびには、私の人生が詰まっているんだよ。」
恵はその言葉に胸が高鳴った。春子は黙っているかと思ったが、ゆっくりと語り始めた。
「昔の話だけどね、私は戦時中に夫を失ったの。夫は兵隊として戦地に行き、そのまま帰ってこなかった。残されたのは、私とまだ幼い息子だけだった。戦争が終わっても、私たちの生活は貧しくて、毎日が辛かったわ。」
春子は手にしていた古びた写真を恵に見せた。写真には、若かりし頃の春子と、夫と思われる男性、そして小さな子供が写っていた。
「その後、息子も病気で亡くなってしまった。私は何もかも失ったと思った。生きる意味もわからなくてね…」
恵はその言葉に心を締め付けられる思いがした。春子の話は、どれほどの痛みと悲しみを抱えてきたかを感じさせた。
「でもね、この村の人たちが私を支えてくれたの。誰もが同じような苦しみを抱えていて、それでもお互いを支え合って生きていた。その時、私は思ったの。この手で何かを作って、みんなに恩返しをしようって。それが、この塩むすびだったのよ。」
春子は、静かに微笑みながら続けた。「この塩むすびには、私の感謝と愛情、そして失われた人々への思いが込められている。だからこそ、特別なんだと思う。」
恵はその言葉を聞きながら、春子の塩むすびがただの食べ物ではなく、彼女の人生そのものを象徴していることを理解した。そして、今の自分に何が欠けていたのか、少しずつ分かり始めた。
「春子さん…私、もっと知りたいです。この村のこと、春子さんのこと、そして塩むすびに込められた思いを…」
春子は恵の目をじっと見つめ、しばらく黙っていたが、やがて頷いた。「いいわ。明日から一緒にやってみましょうか。私ができる限りのことを教えるわ。」
その夜、恵は春子の言葉を胸に、久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。明日から始まる新しい日々に、どこか期待と希望を感じながら。
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