塩むすび

湊 町(みなと まち)

第1話 

冷たい風が田舎の小道を吹き抜け、枯れた草がささやかな音を立てて揺れていた。恵は駅前で降りた後、まっすぐ伸びる細い道を歩き続けていた。都会の喧騒から逃げ出すように、この村にたどり着いたが、実際に何を求めていたのかは自分でも分からなかった。ただ、足を進めるたびに、心の中の痛みが少しずつ薄れていく気がしていた。


古びた商店の角を曲がると、風に乗ってどこからか漂ってくる香ばしい香りが鼻をくすぐった。何気なく目をやると、小さな食堂の前に立ち並ぶ古びた木製の看板に目が留まった。「塩むすび」と書かれたその文字は、どこか懐かしく、温かさを感じさせるものであった。


恵はそのまま足を運び、食堂の引き戸を静かに開けた。店内は薄暗く、木のぬくもりを感じさせる年季の入った家具が所狭しと並んでいる。客は一人もおらず、カウンター越しに佇む老婦人が、静かに手を動かしていた。


「いらっしゃい」と穏やかな声が響く。恵はその声に導かれるようにカウンター席に腰を下ろした。目の前に置かれたお茶の湯気が、冷えた体をほんのりと温める。


「何にしましょう?」老婦人が微笑みを浮かべながら問いかける。


恵は少し戸惑いながら、店の名物である「塩むすび」を頼んだ。注文を受けると、老婦人は手早く塩むすびを作り始めた。手の中でふっくらと形作られていくご飯の粒一つ一つが、まるで命を吹き込まれるかのように丁寧に扱われていた。


やがて、皿に乗せられた塩むすびが恵の前に差し出された。見た目は何の変哲もない、シンプルなむすび。しかし、ひとくち口に入れた瞬間、恵はその奥深い味わいに驚いた。ふんわりとした米の甘さと、控えめに振られた塩のバランスが絶妙で、どこか懐かしい記憶が呼び覚まされるような感覚に包まれた。


「美味しい…」恵は無意識にそうつぶやいていた。


老婦人は恵の表情を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。「それは良かった。この塩むすびはね、私が大切にしてきたものなのよ。」


恵はその言葉に引き寄せられるように、老婦人の過去に思いを馳せる。この村で、そして老婦人が生きてきた長い時間の中で、塩むすびがどのようにして作られ続け、どのような物語を抱えているのか――その全てを知りたくなった。


店内に漂う静けさの中で、恵は初めて自分が何を探していたのか、少しだけ見えてきた気がした。

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