「スマホの中の……」

 梅雨明けの蒸し暑い夜、さくらハウスの詩音の部屋では、小さな光が揺れていた。ベッドに横たわった詩音は、スマートフォンの画面を覗き込んでいる。その顔は、青白い光に照らされ、どこか緊張した表情を浮かべていた。


 詩音は、いつもの大きめのTシャツではなく、薄手のキャミソールを着ていた。淡いピンク色の生地に、繊細なレースが施されたそのキャミソールは、普段の彼女からは想像もつかないほど女性らしいデザインだった。髪は、いつものまとまりのないウェーブではなく、丁寧にブラッシングされ、柔らかなカールを描いている。


 彼女の指先が、スマートフォンの画面をそっとタップする。そこには、カラフルなロゴと共に「LoveMatcha」というアプリの名前が表示されていた。詩音は、深呼吸をして、ゆっくりとアプリを起動させた。


「よし、これで私も……」


 詩音は小さくつぶやいた。その声には、期待と不安が入り混じっていた。


 彼女は、慎重にプロフィールを作成し始めた。年齢、職業、趣味……。それぞれの項目を埋めていく中で、詩音は何度も迷い、書いては消し、また書き直した。


「写真は……これにしようかな」


 詩音は、スマートフォンのギャラリーから一枚の写真を選んだ。それは、先日友人の結婚式に出席した時のものだった。淡いブルーのドレスを着た詩音が、幸せそうな笑顔を浮かべている。普段のラフな姿からは想像もつかないほど、洗練された雰囲気を醸し出していた。


 プロフィール作成が終わり、詩音はためらいがちに「マッチング開始」のボタンを押した。画面には、次々と男性のプロフィールが表示される。詩音は、緊張した面持ちで一つ一つのプロフィールを見ていった。


 時計の針が、静かに深夜を指し示す。詩音は、まだスマートフォンを手放せずにいた。


「あ、メッセージが……」


 詩音の目が大きく開かれた。画面には、彼女に興味を持ったという男性からのメッセージが表示されている。


 その瞬間、部屋のドアがノックされた。


「詩音、まだ起きてる?」


 にこの声だった。詩音は慌ててスマートフォンを布団の中に隠した。


「う、うん。どうしたの?」


 詩音が答える。その声は、少し上ずっていた。


 にこが部屋に入ってくる。彼女は、シルクのナイトガウンに身を包み、髪は優雅なお団子ヘアにまとめられていた。首元からは、ラベンダーの香りが漂っている。


「ごめんね、遅くに。明日の朝、早く起きないといけなくて。目覚まし時計を貸してもらえないかしら。たしか詩音、鬼のように大きい音で鳴る目覚まし時計持ってたわよね?」


「あ、うん。いいよ。これかな?」


 詩音は、ベッドサイドテーブルから目覚まし時計を取り出した。その時、布団の中のスマートフォンが小さな音を立てた。


「あら、何かしら。その音」


 にこが、不思議そうに詩音を見る。


「え? あ、なんでもないよ。きっと、何かの通知かな」


 詩音は、焦った様子で言い訳をした。しかし、にこの鋭い目は、既に詩音の様子の変化を察知していた。


「詩音、何か隠してない?」


 にこの声には、優しさの中に鋭さが混じっていた。


「え? そんな……」


 詩音が言葆を濁す中、部屋のドアが再びノックされた。


「みんな、まだ起きてる?」


 今度は澪の声だった。彼女も部屋に入ってきた。澪は、シンプルなパジャマ姿だったが、その姿からも凛とした雰囲気が漂っている。


「どうしたの、こんな時間に」


 にこが尋ねる。


「ちょっと水を飲みに行こうと思って。でも、二人の声がしたから」


 澪の鋭い目が、詩音の様子を観察している。


「詩音、何かあったの?」


 澪の質問に、詩音は言葆に詰まった。


 その瞬間、再びスマートフォンの通知音が鳴った。今度は、はっきりとした音だった。


「あ……」


 詩音が小さく声を漏らす。

 にこと澪は、顔を見合わせた。

 そして、にこがゆっくりと詩音のベッドに近づき、布団をめくった。


「これは……」


 にこが、スマートフォンを手に取る。画面には、まだLoveMatchaのアプリが表示されたままだった。


「詩音、これって……」


 澪が、驚いた様子で言う。

 詩音は、真っ赤な顔で布団に顔を埋めた。


「ごめんなさい……内緒にしてて」


 詩音の小さな声が聞こえた。

 にこと澪は、再び顔を見合わせ、そして優しく微笑んだ。


「別に謝ることないわよ」


 にこが、優しく詩音の肩に手を置いた。


「そうよ。むしろ、教えてくれなかったことの方が残念」


 澪も、ベッドの端に腰掛けた。

 詩音は、おそるおそる顔を上げた。


「え? 怒ってないの?」


「もちろんよ。私たちだって、恋愛に興味があるのは当然でしょう」


 にこが、優しく言った。


「そうよ。むしろ、詩音が一歩踏み出したことを誇りに思うわ」


 澪も、温かい笑顔を向けた。

 詩音の目に、涙が浮かんだ。


「みんな……ありがとう」


 三人は、静かに抱き合った。その瞬間、さくらハウスの中に、新しい風が吹き始めたようだった。


 窓の外では、夜空に星々が輝いている。詩音のスマートフォンの画面も、その星々のように小さく光っていた。それは、彼女の新しい挑戦の始まりを告げるかのようだった。


 その夜、三人は詩音のベッドに集まり、LoveMatchaアプリについて詳しく話し合うことになった。にこは優雅に足を組み、澪は背筋をピンと伸ばし、詩音は少し緊張した面持ちで二人の間に座っていた。


「それで、どんな人とマッチングしたの?」


 にこが、興味深そうに尋ねた。彼女の指先は、無意識のうちにパールのネックレスを弄んでいる。


「えっと……」


 詩音は恥ずかしそうにスマートフォンを操作し始めた。


「この人とこの人かな。でも、まだメッセージのやり取りはほとんどしてないんだ」


 澪は、真剣な表情でプロフィールを確認していく。


「なるほど。写真を見る限り、清潔感のある人たちね」


「うん。でも、どう返信したらいいか分からなくて……」


 詩音が困ったように首をかしげる。その仕草に、にこは優しく微笑んだ。


「大丈夫よ。私たちで考えましょう」


 にこは立ち上がり、自室からメイクポーチを持ってきた。中には、様々な高級コスメブランドのリップやアイシャドウが詰まっている。


「まずは、詩音のプロフィール写真をもう少し魅力的にするわよ」


 にこは、慣れた手つきで詩音のメイクを始めた。ナチュラルながらも、詩音の魅力を引き出すメイクに仕上げていく。


 一方、澪はスマートフォンを手に取り、詩音のプロフィール文を読み始めた。


「ここの文章、もう少し具体的に書いた方がいいわね。例えば、好きな本やアーティストの名前を入れるとか」


 澪のアドバイスに、詩音は頷きながらメモを取っていく。


 三人で話し合いながら、詩音のプロフィールは少しずつ洗練されていった。にこの美的センスと澪の論理的な思考が、詩音の個性と融合し、魅力的なプロフィールが完成していく。


「さて、メッセージの返信ね」


 にこが、スマートフォンを手に取った。


「あまり積極的すぎず、かといって冷たすぎず……そうね、こんな感じはどう?」


 にこは、優雅な文面を提案した。

 それは、詩音の個性を活かしつつ、相手の興味を惹くような内容だった。


「わあ、すごい。にこってこういうの得意なんだね」


 詩音が感心したように言う。


「まあ、ね」


 にこが、少し照れくさそうに微笑んだ。


「でも、あまり自分らしさを失わないように気をつけてね」


 澪が優しく忠告した。


「そうだね。素の自分で相手と向き合うのが一番大切だよ」


 詩音は深く頷いた。


 夜が更けていくにつれ、三人の会話はマッチングアプリの話題から、恋愛全般の話へと広がっていった。にこは過去の恋愛経験を、優雅な身振りを交えながら語り、澪は恋愛と仕事の両立について真剣に考察を述べる。詩音は、二人の話に聞き入りながら、自分の理想の恋愛像を少しずつ形作っていった。


「でも、詩音」


 澪が真剣な表情で言った。


「アプリでの出会いには注意が必要よ。安全面には十分気をつけて」

「そうね」


 にこも同意した。


「初めて会う時は、必ず人気のある場所で。そして、私たちに行き先を教えておくことも忘れずにね」


 詩音は、二人の言葆に真剣に耳を傾けた。


「うん、分かった。ありがとう、みんな」


 窓の外では、夜明けが近づいていた。

 三人は疲れた表情を見せながらも、満足げな笑みを浮かべている。


「さて、もう寝ましょう」


 にこが立ち上がり、優雅にストレッチをした。


「そうね。明日も仕事だし」


 澪も同意した。


 三人は互いに「おやすみ」を告げ、それぞれの部屋に戻っていった。しかし、詩音の心の中では、新しい可能性への期待が、小さな火花のように灯り始めていた。


 詩音は、ベッドに横たわりながら、スマートフォンを見つめた。画面には、彼女の新しいプロフィール写真が映っている。にこが施したメイクと、澪のアドバイスで書き直したプロフィール文。そこには、確かに新しい詩音の姿があった。


「よし、頑張ろう」


 詩音は小さくつぶやき、目を閉じた。明日からの新しい一歩に、少しだけ胸を躍らせながら。


 さくらハウスは、再び静けさを取り戻した。しかし、その空気の中には、三人の若い女性たちの夢と希望が、静かに、しかし確実に育まれていたのだった。


(了)

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