「記憶の迷宮 ~名前のない有名人~」

 梅雨明け間近の蒸し暑い日曜日、さくらハウスのリビングは、三人の若い女性たちのだらだらとした空気に包まれていた。鷹宮澪、小鳥遊詩音、月城にこは、それぞれが思い思いの格好でソファに寝そべっている。


 澪は、普段の完璧なビジネススーツから解放され、ゆったりとしたリネンのワンピースに身を包んでいた。そのワンピースは、淡いベージュ色で、首元と袖口にはかすかなレースの装飾が施されている。彼女の長い黒髪は、普段のきっちりとしたまとめ髪から解かれ、なだらかな波を描いて肩に落ちていた。


 詩音は、いつものようにオーバーサイズのグラフィックTシャツを着こなしていた。そのTシャツには、彼女自身がデザインした不思議な生き物のイラストがプリントされている。下はゆったりとしたショートパンツで、素足にはカラフルなトゥリングが輝いていた。


 にこは、シルクのキャミソールに軽やかなガウンを羽織っていた。そのガウンは、淡いピンク色で、花柄の刺繍が施された上品なデザイン。彼女の首元には、ラベンダーの香りを漂わせるアロマペンダントが揺れている。


 三人の前のローテーブルには、それぞれのドリンクが置かれていた。澪のグラスには、レモンスライスを浮かべたアイスティー。詩音のマグカップには、たっぷりのホイップクリームを載せたアイスカフェオレ。にこのグラスには、ミントの葉を添えたモヒートが、小さな泡を立てていた。


 部屋の中央には、大きな扇風機がゆっくりと首を振り、三人に心地よい風を送っている。その風に乗って、にこの髪から漂う高級シャンプーの香りが、ふわりと部屋中に広がっていた。


 雨音が静かになり、部屋の中に穏やかな空気が戻ってきた。三人は、まだくすくすと笑いながら、ソファに深く腰掛けていた。その時、にこの目が詩音のTシャツに留まった。


「ねえ、詩音」


 にこが、優雅に髪を耳にかけながら言った。


「そのTシャツ、気になるわ。そこに描いてある生き物、なんなの?」


 澪も、にこの言葉に気づいたように、詩音のTシャツをじっと見つめた。


「ああ、これね」


 詩音が、少し照れくさそうに自分のTシャツを見下ろす。


「私がデザインしたんだ。名前は……えっと、まだ決めてないんだけど」

「へえ、じゃあ詩音のオリジナルキャラクターなの?」


 澪が興味深そうに身を乗り出した。


 詩音のTシャツには、確かに不思議な生き物が描かれていた。それは、猫のような耳と、犬のような鼻、鳥のような翼、そしてリスのようなふさふさとした尻尾を持つ生き物だった。全体的に丸みを帯びた愛らしいフォルムで、大きな瞳が印象的だった。


「うん、そうなんだ」


 詩音が嬉しそうに答える。


「この子は、夢の中で見たの。それで、すぐにスケッチして、Tシャツにしてみたんだ」

「素敵ね」


 にこが感心したように言った。


「でも、これって何の動物なの? いくつかの動物を混ぜ合わせたみたいだけど」

「そうなんだよね」


 詩音が少し考え込むように言う。


「正確には、私もよくわからないんだ。夢の中では、空も飛べるし、木にも登れるし、水の中も泳げる生き物だったの」

「まあ、なんて多才な子なの」


 にこが笑いながら言った。


「それで、その子には何か特別な能力があるの?」


 澪が真剣な表情で尋ねた。


「うーん、そうだなあ」


 詩音が天井を見上げながら答える。


「夢の中では、この子が現れると、いつも素敵なことが起こるんだ。例えば、空を飛んで虹の橋を渡ったり、海の底で人魚と踊ったり」

「すごい! まるでジブリ映画みたいね」


 にこが目を輝かせて言った。


「そうそう、ちょっとトトロっぽいところもあるでしょ?」


 詩音が嬉しそうに頷く。


「でも、名前はまだないのね」


 澪がつぶやいた。


「そうなんだ。なかなかピッタリくる名前が思いつかなくて」


 詩音が少し困ったように言う。


「じゃあ、私たちで考えてあげましょう」


 にこが提案した。


「そうね! みんなで名付け親になるのも素敵じゃない」


 澪も賛同した。


 三人は、詩音のTシャツに描かれた不思議な生き物の名前を考え始めた。にこは優雅に、澪は真剣に、詩音は楽しそうに、それぞれのアイデアを出し合う。結局ぴったりする名前は決まらず、これからも各々が考えておくことになった。


 その時突然、詩音が身を起こし、何かを思い出したように言い出した。


「そうだ、知ってる!? この前テレビで見たあの人のこと」


 澪とにこは、ゆっくりと詩音の方を向いた。


「誰のこと?」


 澪が、少し興味を示しながら尋ねる。


「えっと……名前が思い出せないんだけど」


 詩音が困ったように眉をひそめる。


「また名前の問題ね(笑)」

「どんな人?」


 澪が笑い、 にこが優雅にモヒートを一口飲みながら聞いた。


「あのね、背が高くて、すごくスタイルがいい人。髪が長くて、いつもウェーブがかかってて……」


 詩音が必死に思い出そうとする。


「あ、私知ってる!」


 澪が急に身を乗り出した。


「最近CMにもよく出てる人でしょ? 確か香水のCMだったような……」


「そう、そう! それそれ!」


 詩音が嬉しそうに頷く。


「でも、名前が……」


 澪も困ったように首をかしげた。


「私も気になる」


 にこが言った。


「確か、モデル出身の女優さんよね。最近は歌手デビューもしたって聞いたわ」


 三人は、それぞれが思い出す情報を言い合い始めた。


「あの人、確かファッションブランドもプロデュースしてたわよね」


 にこが言う。


「そうそう! 私、そのブランドのバッグ持ってるの」


 詩音が嬉しそうに言った。


「あ、私も持ってる。確か……」


 澪が言いかけて、また首をかしげた。


「ブランド名も思い出せない」


 三人は顔を見合わせ、くすりと笑った。


「でも、あの人の特徴的な歩き方は覚えてる」


 澪が言う。


「そう、なんか独特のウォーキングがあるのよね」


 にこが同意する。


「ねえ、確か最近結婚したんじゃなかった?」


 詩音が突然思い出したように言った。


「そうよ! お相手は……えっと……」


 にこが言葆を濁す。


「ミュージシャンだったわよね」


 澪が付け加えた。


「そう、バンドのボーカルの人」


 詩音が頷く。


 三人は、その有名人についての情報を次々と思い出していった。その人の好きな食べ物、よく着ているブランド、出演した映画のタイトル……。しかし、肝心の名前だけが、どうしても思い出せない。


「もう、すごく気になる!」


 詩音が頭を抱えた。


「私も。これって、あれよね。何だっけ……」


 にこが言いかけて、また言葆を濁す。


「ああ、tip of the tongue……舌先現象ね」


 澪が言った。


「舌先現象って言うのよ。答えはわかっているのに、どうしても思い出せない状態のこと」

「へえ、そんな名前があるんだ。こっちの名前はすぐ思い出せるのにね」


 詩音が笑いながら感心して言う。


「でも、名前が思い出せないのはすごくイライラするわ」


 にこがため息をついた。

 三人は、しばらくの間黙って考え込んだ。部屋の中には、扇風機の風切り音だけが響いていた。


「あ! そうだ」


 詩音が突然立ち上がった。


「スマホで検索すれば……」

「ダメよ」


 にこが遮った。


「それじゃあ、負けたも同然でしょう」

「そうね。自分たちの力で思い出したい」


 澪も同意した。


 三人は再び黙り込み、必死に記憶を辿る。にこは無意識のうちに、ネイルケアされた指先でアロマペンダントを弄んでいた。澪は、くせ毛を整えるように、何度も髪を耳にかけている。詩音は、唇を噛みながら、足の指をくるくると動かしていた。

 時計の針が、ゆっくりと進んでいく。部屋の中の空気は、どんどん濃密になっていった。


「ああ、もう!」


 詩音が大きな声を上げた。


「気になって他のことが考えられない」

「わかるわ」


 にこが頷いた。


「私も、これ以外のことが頭に入らないわ」

「でも、きっと思い出せるはず」


 澪が、決意を込めて言った。


「そうよね。あきらめないで、もう少し考えましょう」


 にこも気を取り直した。


 三人は、再び静かに考え込んだ。時折、誰かが「あ」と言いかけては黙り込む。その度に、残りの二人が期待に満ちた目で見つめるが、結局名前は出てこない。


 窓の外では、夕暮れが近づいていた。部屋の中は、オレンジ色の柔らかな光に包まれ始めている。


「ねえ」


 詩音が、ゆっくりと口を開いた。


「私たち、同じ人のこと考えてるのかな? もしかして違う人のこと考えてない?」


 澪とにこは、ハッとした表情を見せた。


「そうか、確認してなかったわね」


 にこが言った。


「じゃあ、順番に特徴を言っていきましょう」


 澪が提案した。


 三人は、順番に自分が思い出せる特徴を挙げていった。髪の色、目の形、よく着ている服のブランド、出演した作品……。話し合いが進むにつれ、三人が同じ人物について話していることが明らかになっていった。


「やっぱり同じ人のことね……」


 にこが安堵のため息をついた。


「うん、間違いない」


 詩音も頷いた。


「でも、まだ名前が……」


 澪が言葆を濁す。


 その時、突然部屋の電気が消えた。


「あ!」


 三人が驚いて声を上げる。


「停電?」


 にこが尋ねる。


「違うわ、タイマーよ」


 澪が説明した。


「節電のために、この時間になると自動で電気が消えるの」


「へえ、そんなの付けてたんだ」


 詩音が感心したように言う。

 突然の暗闇に、三人の目がゆっくりと慣れていく。

 窓から差し込む夕暮れの光だけが、部屋を柔らかく照らしていた。


「なんだか、いい雰囲気」


 にこがつぶやいた。


「そうね。ちょっと幻想的」


 澪も同意する。


 その時、詩音が突然大きな声を上げた。


「思い出した!」


「え?」


 澪とにこが、驚いて詩音を見つめる。


「名前よ、思い出したの!」


 詩音の目が、暗闇の中で輝いていた。


「えっ、本当に?」


 にこが身を乗り出す。


「うん! その人の名前は……」


 詩音が言葆を続けようとした瞬間、突然大きな雷鳴が響いた。


「きゃっ!」


 三人が驚いて声を上げる。


 その雷鳴と共に、激しい雨音が聞こえ始めた。

 突然の夕立に、三人は言葆を失った。

 雨音が収まるのを待って、澪が静かに尋ねた。


「で、名前は?」

「え? あ、えっと……」


 詩音が困ったように首をかしげる。


「忘れちゃった」


 その言葆に、三人は顔を見合わせ、そして大きな笑い声を上げた。


「もう、なんなのよ、これ」


 にこが笑いながら言う。


「本当に、もう」


 澪も、涙が出るほど笑っていた。

 詩音も、申し訳なさそうな表情をしながらも、つられて笑っていた。


 窓の外では、雨がしとしとと降り続けている。部屋の中には、三人の笑い声と、雨音が心地よく響いていた。結局、その有名人の名前を思い出すことはできなかったが、三人はこの時間を楽しんでいた。


 それは、彼女たちの日常の中の、ささやかだけれど大切な瞬間だった。名前を思い出せなかったもどかしさも、この瞬間の楽しさに溶け込んでいった。


(了)

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