「記憶の香りに包まれて」

 梅雨明けを告げる蒸し暑い日曜日の午後、さくらハウスのリビングは三人の若い女性たちの柔らかな笑い声に包まれていた。鷹宮澪、小鳥遊詩音、月城にこは、それぞれがゆったりとした姿勢でソファに腰掛け、冷たいハーブティーを片手に談笑していた。


 澪は、涼しげな麻のワンピースを纏い、髪を普段よりも高めの位置でまとめ上げている。その首筋には、ほんのりと汗の粒が光っていた。詩音は大きめのTシャツとショートパンツという、いつものラフなスタイル。しかし、その素足には可愛らしいアンクレットが輝いていた。にこは、シルクのキャミソールに軽やかなガウンを羽織り、まるでファッション誌から抜け出してきたかのような優雅な佇まいだ。


「ねえ、こんな蒸し暑い日は、なんだか懐かしい気分になるわね」


 にこが、ふと呟いた。彼女の指先で、グラスの縁をなぞっている。


「そうね。なんとなく、学生時代を思い出すわ」


 澪が同意する。彼女は無意識のうちに、首元の汗を専用のあぶらとり紙で押さえていた。


「うんうん、わかる! 夏休みの宿題に追われてた頃とか」


 詩音が、少し照れくさそうに笑う。


 三人は顔を見合わせ、くすりと笑った。そこには、それぞれの大切な思い出が詰まっているようだった。


「ねえ、みんなにとって一番大切な思い出って何?」


 詩音が、突然尋ねた。彼女の大きな瞳には、好奇心の光が宿っている。


「そうね……私にとっては、初めて自分でデザインした服を着た日かしら」


 にこが、懐かしそうに目を細める。彼女は立ち上がり、クローゼットから小さな写真アルバムを取り出した。


「ほら、これよ」


 にこが開いたページには、高校生らしき彼女が、手作りのワンピースを着て微笑んでいる写真があった。ワンピースは淡いピンク色で、胸元にはレースの装飾が施されている。


「わぁ、可愛い!」


 詩音が目を輝かせる。


「でも、今から見ると少し幼いデザインね」


 にこが少し照れくさそうに言う。


「そんなことないわ。むしろ、にこらしい夢のあるデザインだと思う」


 澪が優しく言った。


「そうだよ。このワンピース、今でも着られそう」


 詩音も同意する。


 にこは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。このワンピースを作った時の気持ちは、今でも忘れられないの。自分の想像したものが形になる喜びを、初めて感じたから」


 にこの言葆に、澪と詩音は深く頷いた。


「じゃあ、次は澪の番ね」


 にこが言う。


 澪は少し考え込むように目を伏せた。その長いまつ毛が、頬に影を落としている。


「私にとっては……初めて広告のプレゼンを任された日かしら」


「へえ、それはいつ頃の話?」


 詩音が興味深そうに尋ねる。


「入社2年目の冬よ。まだ新人だった私に、突然大きなプロジェクトを任されて」


 澪は懐かしそうに話し始めた。彼女の指先が、無意識のうちにワンピースの裾をいじっている。


「最初は不安で仕方なかったわ。でも、先輩たちに助けてもらいながら、必死で準備したの」


「それで、うまくいったの?」


 にこが、身を乗り出すようにして聞く。


「ええ、なんとか。でも、それよりも大切なのは、あの時感じた達成感よ」


 澪の目が、遠くを見つめるように輝いた。


「自分の力で何かを成し遂げられた。その感覚が、今でも私の原動力になっているの」


 にこと詩音は、澪の言葆に深く頷いた。


「素敵ね。そういう経験が、人を成長させるのよね」


 にこが感心したように言う。


「うん、わかる気がする。私も似たような経験があるよ」


 詩音が言葆を続けた。


「私の大切な思い出は、初めて自分のイラストが雑誌に掲載された時のこと」


 詩音は立ち上がり、本棚から一冊の雑誌を取り出した。表紙には彼女のイラストが大きく使われている。


「わぁ、これ詩音が描いたの?」


 にこが驚いた様子で言う。


「うん。でも、ここに載るまでが大変だったんだ」


 詩音は雑誌を開きながら、当時の苦労を語り始めた。

 彼女の指先が、イラストの細部を優しくなぞっている。


「何度も描き直して、締め切り直前までかかったんだ。でも、やっと納得のいくものができて……」


「それで、雑誌に載った時はどんな気持ちだったの?」


 澪が優しく尋ねる。


「うーん、言葉では表せないくらい嬉しかった」


 詩音の頬が、幸せそうに紅潮する。


「自分の絵を見た人が、何か感じてくれるかもしれない。そう思うと、胸がいっぱいになったんだ」


 三人は、それぞれの大切な思い出を共有し合いながら、静かに微笑んだ。彼女たちの目には、過去の輝かしい瞬間が映し出されているようだった。


「ねえ、みんなの思い出を聞いていて気づいたんだけど」


 にこが、ふと言葆を挟んだ。


「私たち、それぞれに違う道を歩んでるけど、根っこの部分は同じなのかもしれないわね」


「どういうこと?」


 澪が首を傾げる。


「つまり、自分の想いを形にする喜びよ。私は服で、澪は広告で、詩音はイラストで」


 にこの言葆に、三人は顔を見合わせた。


「そうかも。確かに、みんな自分の想いを表現することに喜びを感じてるんだね」


 詩音が嬉しそうに言う。


「そうね。それが私たちを繋げているのかもしれないわ」


 澪も深く頷いた。


 リビングには、三人の若い女性たちの温かな空気が満ちていた。彼女たちは、それぞれの大切な思い出を語り合うことで、より深く互いを理解し合えたようだった。


 窓の外では、夕暮れの空が美しく彩られ始めていた。それは、彼女たちの輝かしい未来を予感させるかのようだった。


 会話が進むにつれ、三人は自然とそれぞれの思い出に結びついた「香り」の話題へと移っていった。


「そういえば、私の大切な思い出には、ある香りが強く結びついているの」


 にこが、ふと思い出したように言った。彼女は立ち上がり、ドレッサーから小さな香水瓶を取り出した。


「これよ」


 にこがそっと香水瓶の蓋を開け、軽く手首に吹きかけた。ほのかに甘い、しかし決して押し付けがましくない優雅な香りが、リビングに広がる。


「わぁ、いい香り」


 詩音が目を閉じ、深く香りを吸い込んだ。


「これ、シャネルのシャンスでしょ?」


 澪が的確に当てた。


「さすが澪ね。その通りよ」


 にこが微笑んだ。


「この香りは、私が初めてパリに行った時に買ったもの。あの時の高揚感や、憧れの街を歩いた時の気持ち、全てがこの香りに詰まっているの」


 にこの目が、遠い記憶を辿るように輝いた。


「香りって不思議よね。記憶を鮮明に呼び起こす力があるわ」


 澪が感心したように言う。


「うん、本当だね。私も大切な香りがあるよ」


 詩音が言いながら、バッグから小さなハンドクリームを取り出した。


「これ、私が初めて個展を開いた時に、お母さんがくれたの」


 詩音がチューブを開け、ほんの少しだけクリームを手のひらに出す。ラベンダーとバニラの優しい香りが、ふわりと広がった。


「緊張していた私に、お母さんがこれを塗ってくれたんだ。『この香りにはリラックス効果があるのよ』って」


 詩音の声には、母への感謝の気持ちが滲んでいた。


「素敵ね。お母さんの愛情が感じられるわ」


 にこが優しく言った。


「澪は? 何か特別な香りはある?」


 詩音が尋ねる。


 澪は少し考え込むように目を伏せた。そして、ゆっくりと立ち上がり、自分の部屋へ向かった。戻ってきた彼女の手には、古びた木製の小箱があった。


「これは……」


 澪が小箱を開けると、中からほのかに木の香りが漂ってきた。


「祖父の形見のタバコケースよ。祖父はもう亡くなったけど、この香りを嗅ぐと、祖父との思い出が鮮明によみがえるの」


 澪の声には、懐かしさと少しの切なさが混ざっていた。


「祖父はね、私が広告の仕事に就きたいと言った時、一番に応援してくれたの。『自分の道は自分で切り開くんだ』って」


 にこと詩音は、静かに澪の言葆に耳を傾けた。


「だから、仕事で壁にぶつかった時は、この香りを嗅いで勇気をもらうの」


 澪の目に、うっすらと涙が光った。


 三人は、それぞれの大切な香りを通じて、より深く互いの心に触れ合えたように感じた。


「ねえ、私たちってすごくラッキーだと思わない?」


 詩音が突然言った。


「どういうこと?」


 にこが首を傾げる。


「だって、こうやって大切な思い出や、特別な香りを持てるってことは、それだけ豊かな人生を送れているってことだよね」


 詩音の言葆に、澪とにこは顔を見合わせた。


「そうね。確かにそうかもしれないわ」


 にこが穏やかに微笑んだ。


「私たちには、それぞれの道があって、でも時々こうして集まって分かち合える。それって、本当に素晴らしいことよね」


 澪が深く頷いた。


 リビングには、三人の若い女性たちの大切な香りが溶け合い、独特の雰囲気を作り出していた。シャネルの洗練された香り、ラベンダーとバニラの優しい香り、そして懐かしい木の香り。それらが混ざり合い、まるで彼女たちの絆を表すかのような、温かく心地よい空間を生み出していた。


「ねえ、この香りのミックス、なんだかいい感じじゃない?」


 にこが言った。


「うん、本当だね。私たちらしいっていうか」


 詩音が嬉しそうに頷く。


「そうね。まるで、私たちの友情を表しているみたい」


 澪も同意した。


 三人は、それぞれの大切な香りに包まれながら、静かに微笑み合った。その瞬間、彼女たちは今この時が、また新たな大切な思い出として心に刻まれていくことを感じていた。


 窓の外では、夕暮れの空が深い紫色に染まり始めていた。さくらハウスのリビングには、三人の若い女性たちの想いと、大切な香りが溶け合い、温かな空気が漂っていた。それは、彼女たちのこれからの人生を優しく包み込むような、かけがえのない時間だった。


(了)

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