「風邪と友情のシンフォニー」
澪が風邪をひいたのは、梅雨の終わりが近づいた蒸し暑い土曜日のことだった。普段なら週末の朝からジョギングに出かける彼女が、珍しく二度寝をしている様子に、にこと詩音は違和感を覚えた。
リビングでモーニングルーティーンを済ませていたにこは、高級シルクのパジャマ姿で、フランス産のオーガニックラベンダーオイルを手のひらに垂らし、丁寧にデコルテまでマッサージしていた。彼女の肌は、毎晩欠かさず塗る韓国コスメの美容液のおかげで、みずみずしく輝いている。
「おかしいわね。澪、まだ起きてこないわ」
にこが眉をひそめながら言った。
ソファでだらりと横たわっていた詩音は、大きなTシャツの裾をたくし上げ、お気に入りのボディクリームを脚全体になじませていた。甘い石鹸の香りが部屋に漂う。
「うん、珍しいよね。見に行ってみる?」
詩音が言いながら、なかなか立ち上がろうとしない。
にこは小さなため息をつき、澪の部屋のドアをノックした。返事がないため、そっとドアを開ける。
「澪……大丈夫?」
にこの声に、ベッドで丸くなっていた澪がゆっくりと顔を上げた。彼女の顔は普段の健康的な輝きを失い、頬が紅潮している。
「あら、どうしたの?」
にこが心配そうに澪に近づく。
「……ごめん。なんだか体がだるくて」
澪の声は鼻声で、普段の張りのある声とは違っていた。
「ちょっと、熱があるみたいよ」
にこが澪のおでこに手を当てながら言った。
詩音も部屋に入ってきて、心配そうに澪を見つめる。
「大丈夫? 何か食べられる?」
「ありがとう。でも、今は何も……」
澪は言葉を途切れさせ、咳き込んだ。
にこと詩音は顔を見合わせ、無言の了解を交わした。
「わかったわ。あなたはゆっくり休んでいて。私たちで何とかするから」
にこが優しく言い、澪の肩にそっと手を置いた。
二人は部屋を出て、リビングで作戦会議を開いた。
「まずは解熱剤と喉飴を買ってこなきゃね」
にこが言いながら、スマートフォンで近くの薬局を検索し始める。
「うん。あと、おかゆとか作ろうか」
詩音も立ち上がり、冷蔵庫の中を確認する。
二人は手分けして準備を始めた。にこは化粧ポーチから小さな鏡を取り出し、さっと眉を整え、薄くリップを塗る。外出する時は、たとえ薬局に行くだけでも最低限のメイクは欠かさない。
一方、詩音は髪をさっとまとめ、大きめのTシャツの上からゆったりとしたカーディガンを羽織った。彼女のファッションは常にコンフォートが最優先だ。
にこは高級ブランドのトートバッグを手に取り、中身を確認する。ハンドクリームやリップクリーム、携帯用の香水など、外出時に必須のアイテムが整然と収められている。
「じゃあ、私は薬を買いに行ってくるわ」
にこが言いながら、玄関に向かう。彼女の足元には、カジュアルながらも洗練されたデザインのスリッポンが揃えられていた。
「うん、気をつけてね。私はおかゆを作るよ」
詩音が台所に向かいながら返事をした。
にこが出かけた後、詩音は静かに料理を始めた。彼女は雑誌で見た「美肌効果抜群」というレシピを思い出し、白米に加えて押し麦や高麗人参を加えることにした。
しばらくすると、階下からドアの開く音が聞こえ、ミチおばあちゃんが顔を出した。
「あら、詩音ちゃん。珍しいわね、こんな早くから起きて」
ミチおばあちゃんが、艶のある紺色の着物姿で現れた。その襟元には、控えめながら上品な帯留めが光っている。
「おはようございます、ミチおばあちゃん。実は、澪が風邪をひいちゃって……」
詩音が説明すると、ミチおばあちゃんは心配そうな表情を浮かべた。
「まあ、それは大変。何か私にできることはある?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。にこが薬を買いに行ってて、私がおかゆを作ってるんです」
「そう。でも、昔ながらの療法も侮れないのよ」
ミチおばあちゃんは、にっこりと微笑んだ。
「私が若い頃によく作った養生茶があるの。よかったら作ってあげましょうか」
「はい、ぜひお願いします!」
詩音は嬉しそうに返事をした。
ミチおばあちゃんは自分の部屋に戻り、しばらくして様々な乾燥ハーブやスパイスを持って戻ってきた。
「これはショウガ、これは陳皮、そしてこれはクコの実よ」
ミチおばあちゃんが、一つ一つ丁寧に説明しながら、小さな鍋にハーブを入れていく。
その時、玄関のドアが開き、にこが戻ってきた。
「ただいま。あら、ミチおばあちゃん、おはようございます」
にこが優雅に挨拶をしながら、手に持った紙袋を広げた。
「解熱剤と喉飴、それから……」
にこは紙袋から次々とアイテムを取り出していく。風邪薬の他にも、高級ブランドのハンドクリーム、オーガニックのリップバーム、そして肌に優しいとされる使い捨てマスクまで入っていた。
「にこちゃん、それ全部必要なの?」
詩音が少し呆れたように尋ねる。
「ええ、もちろんよ。風邪の時こそ、肌のケアが大切なの」
にこが真剣な表情で答えた。
三人は協力して、澪のための看病セットを整えていく。ミチおばあちゃんの養生茶、詩音の栄養満点おかゆ、そしてにこが買ってきた様々なケアアイテム。それぞれの思いやりが詰まった看病セットが完成した。
「よし、これで準備オッケーね」
にこが満足そうに言った。
「うん、澪きっと喜ぶよ」
詩音も笑顔で頷いた。
「さあ、みんなで持っていきましょう」
ミチおばあちゃんが優しく促した。
三人は揃って澪の部屋に向かう。それぞれの個性が混ざり合い、温かな空気が漂っていた。風邪をひいた澪を気遣う彼女たちの姿に、さくらハウスの絆の深さが感じられた。
(前回からの続き)
澪の部屋のドアをそっと開けると、かすかに鼻をすする音が聞こえてきた。三人は静かに部屋に入り、ベッドに近づいた。
「澪、起きてる?」
にこが優しく声をかける。
澪がゆっくりと目を開け、ぼんやりとした表情で三人を見上げた。彼女の頬はまだ紅潮し、額には薄い汗が浮かんでいる。普段はきちんとまとめられている黒髪が、枕の上で乱れていた。
「みんな……ごめんね、こんな姿で」
澪が少し恥ずかしそうに言った。彼女は普段、人前で弱った姿を見せることを極端に嫌う。しかし今は、抵抗する気力すらないようだった。
「何言ってるの。私たちが家族でしょ」
にこが優しく諭すように言う。彼女は持ってきたアイテムを、澪のベッドサイドテーブルに丁寧に並べ始めた。
「そうだよ。みんなで看病するから、ゆっくり休んでね」
詩音も笑顔で言いながら、おかゆの入った器を慎重に置いた。
ミチおばあちゃんは、養生茶の入った細めの湯飲みを両手で包むように持ち、ゆっくりと澪に差し出した。
「これを飲むと、きっと楽になるわ」
澪は感謝の気持ちを込めて三人を見つめ、ゆっくりと体を起こした。にこがすかさず背中にクッションを当て、澪を支える。
「ありがとう……本当に、みんなありがとう」
澪の声は掠れていたが、その目には温かな光が宿っていた。
にこは持ってきたアイテムを一つずつ説明し始めた。
「これはね、フランスの老舗ブランドの保湿クリーム。敏感になってる肌にも優しいの」
彼女は小さな瓶を取り出し、澪の手の甲に少量をつけてやさしく伸ばした。ラベンダーとカモミールのほのかな香りが、部屋に広がる。
「それから、これは無添加のリップクリーム。唇の乾燥を防いでくれるわ」
にこは澪の唇に、そっとクリームを塗った。
詩音は、おかゆの入った器を手に取り、小さなスプーンですくって澪の口元に運んだ。
「はい、あ?ん。熱々だから気をつけてね」
澪は少し照れくさそうにしながらも、素直におかゆを口に運んだ。
「……美味しい。詩音、ありがとう」
澪の言葉に、詩音は嬉しそうに頬を染めた。
「えへへ、雑誌で見たレシピなんだ。美肌効果もあるんだって」
ミチおばあちゃんは、養生茶の入った湯飲みを澪に手渡した。
「少しずつ、ゆっくり飲むのよ」
澪は恐る恐る一口飲んでみると、意外な美味しさに目を見開いた。
「これ、すごく……体が温まる感じがします」
「でしょう? 昔から伝わる知恵は侮れないのよ」
ミチおばあちゃんが満足そうに微笑んだ。
しばらくの間、四人は穏やかな空気の中で過ごした。にこは澪の肌の状態を細かくチェックし、適切なケアを施す。詩音はおかゆを少しずつ澪に食べさせ、時折冗談を言って場を和ませる。ミチおばあちゃんは、昔の風邪の治し方や、若い頃の思い出話を静かに語った。
澪は徐々に表情が和らぎ、体の力が抜けていくのを感じていた。友人たちの優しさと、ミチおばあちゃんの温もりに包まれ、彼女の心は安らかになっていった。
「みんな、本当にありがとう。こんなに大切にしてもらって……」
澪の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「当たり前よ。私たちは家族なんだから」
にこが優しく言い、澪の手を握った。
「そうだよ。困った時はお互い様だもん」
詩音も笑顔で頷いた。
「さあ、あなたはゆっくり休むのよ。私たちが見守っているから」
ミチおばあちゃんが、静かに言葉を添えた。
澪は深く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。彼女の周りには、大切な人たちの温かな気配が満ちていた。
にこは静かに立ち上がり、カーテンを少し閉めて部屋を薄暗くした。詩音は使用済みの食器を丁寧に片付け、ミチおばあちゃんは澪の額に冷たいタオルを乗せた。
三人は静かに部屋を出て、リビングに戻った。
「さて、私たちも少し休憩しましょう」
にこが提案した。
「うん、そうだね。お茶でも飲もうか」
詩音が台所に向かい、急須とティーカップを用意し始めた。
ミチおばあちゃんは、ゆったりとソファに腰掛けた。
「あの子、きっとすぐに良くなるわ。若いんだもの」
にこと詩音も、ソファに座った。三人の間に、穏やかな空気が流れる。
「そうですね。でも、看病は交代でしないとね」
にこが言った。
「うん、当番表でも作る?」
詩音が提案する。
三人は顔を見合わせ、くすりと笑った。それぞれの個性が混ざり合い、さくらハウスならではの温かな空気が漂っていた。
窓の外では、梅雨の晴れ間を縫って、柔らかな日差しが差し込んでいた。さくらハウスの中は、家族のような絆で結ばれた彼女たちの、優しさと思いやりに満ちていた。
(了)
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