第2話

 暗闇の中で過ごしてどのくらい経つのだろうか。杉田だったモノが新しい生身を得た。

 次第に誰かの声が外から聞こえる。母親と五感を共有したり、何か口の中が苦く感じたり、母親の体が連続的に突き上げられるような衝撃を感じる事もあったが、母親の体から何となくこれから生まれる予感を感じた。

 狭い管を無理やり押し通って、捻りだされるように体外に排出される。


「んぎゃあ、おぎゃああああ、おぎゃああああ」


 生まれたのだと思う。まだ目が明かず何となくの感覚でしかわからないが、次第に母親とのつながりが切れる。そして、温かい水に体が浸けられる。

 それから優しく揺れる感覚、そしてだれかが何か語りかけているのが、何となく赤子の耳に聞こえる。


「ジィハン」


 何もかもがおぼろげに聞こえる耳に、なぜかその言葉が自分の名前として認識し、かつて杉田と呼ばれていた魂に強く名前が刻まれた。

 口に何かを入れられて赤子は反射的にそれをしゃぶる。口の中が液体で満たされ、それを飲んでいる。

 ひとしきりに飲んだ赤子は、母親に背中をやさしく叩かれながらゲップをして寝た。


 それからというもの、手を認識した。足を認識した。だが寝返りができるわけではない。ジィハンは首が座るまでの間、特に何ができるという訳でもなく両親の愛に甘える日々が続いていた。


「んああああ」(腹が減った)

「ああああ」(パンツが汚れた変えてくれ)

「あぁぁぁ」(眠い)


 一応まだ前世の杉田としての人格が残っているが、両親の愛の結晶である赤ちゃんなのだ。

 泣きに泣いて、適度に笑顔で両親の愛想を振り撒くのが赤ちゃんの仕事であるとして今生の両親に甘えることにした。

 二人の子供として本能に従って本能のまま未成熟の欲望のままに生きる。


   × × ×


 それから首が座り、はいずりまわり、一人でにお座りが出来る様になったくらいに時間が経った。

 ハイズリまわるジィハンの目によって、両親と共に家がボロ屋である事が分かってしまった。雨が降れば雨漏りするし、夜中になれば両親の鳴き声が聞こえ、この家は良く揺れる。


「おお、ああぁ、ああぁはぁ、ああ、ああ」

 ――うるせー、眠れねー、腹減ったー。


 ジィハンは親が見ていない事をいい事に、耳を伸びきってない手で塞いで耐える野獣の方向に耐える。

 猛獣のような野太い声だが、一応それが女性の声である事で、野性味に満ちた声は母親のものだと識別できる。

 ジィハンだって、杉田としての生前で成人するまでに一通りの知識を身に着けてはいるし、その行為自体は想像できる。


 ――俺がが生まれたという事は、愛し合う二人の行為の結果であるので、まぁ、多少はね。

 理解はするけどもさ、本当で野獣の遠吠えと思うくらいにすごい声だ。この家いつか崩れるんじゃないか? 

 腹減ったなぁ……、けど気まずいよなぁ。


 家が揺れる。ジィハンは寝返りをして俯せになり天井から落ちてくる埃が目に入らないように対策する。

 おむつの交換と授乳している最中に盛られても嫌だと考えたジィハンは、両親の二人の時間の間は我慢をしていると、雄々しい雌の遠吠えが聞こえる。


「おおおおおおおおおお」


 色気もくそもない野太い母の野生声の後に静寂が訪れる。

 両親がいい感じにピークタイムを迎えた後で、ジィハンはすぐさま仰向けに戻り、二人の野獣を反面教師にしたできるだけ可愛らしい声で泣いて、母乳を要求する。

 このタイミングを逃せば、また盛り初めていつ母乳にありつけるか分からなくなる。ジィハンは全力全開で声を発する。


「んああああああああ、あああああああ!」


 すると隣の部屋から、全身を艶やかにした母親が何も糸の一片も身につけないまま出てきた。

 ジィハンは鳴き声をフェードアウトさせ、笑顔を浮かべ、手足を動かし喜びを表現する。


「ジィハン、ごめんよ、おなかが減ったんだな」


 ジィハンは母親に抱きかかえられる。これが母親の素なのか、赤ちゃん相手に隠すものがないという事なのかはまだジィハンに区別はつかない。

 しかし普段は服の下に隠された体はバッキバキに仕上がっている。しかし、体中には数々の傷跡が見える。それは生む為に腹を切ったという訳ではなく、なんらかの外傷の痕である。


 ――どうしてこんなに怪我だらけなのだろうか。


 ジィハンには思った事を話す事もまだできない。

 母親に抱き上げられ隣の部屋が少しだけ見えると、父親が干からびて潰れたカエルの様に俯せていた。


「ああ」(父よ、かわいそうに)


 ――父か家か、何かがこの母に押しつぶされる日が来るのではないか。


 そんな不安がジィハンの頭を過るが、おっぱいを吸って眠くなって、考えるのをやめた。赤ちゃんだから仕方がないのである。


   × × ×


 ――ぬぁんもう、この体じゃ何もできないよ。退屈過ぎぃ。


 ある昼下がりの事である。

 ジィハンが寝っ転がり、手足をバタつかせ、床でゴロゴロ暇をつぶしていると、母親がいない間に父親が呼びかけてくる。


「ジィハン」

「やーん」


 呼ばれたので返事を返すと、父親が自らを指さしてさらに呼び掛けてくる。


「シンハン」

「んんあ」

「シンハン」

「んああ――」


 ――そりゃかわいい息子にさ、ママより先にパパと言わせたいのはわかるけど、それはなに?

 ジィハンにそれがパパを指す言葉なのか、父親の名前を指す言葉なのかまだよくわからない。そして言葉をしゃべれる口ではないので、ジィハンは適当に言葉を返した。

 父親との会話(仮)をやり取りしている間に、玄関の引き戸が開いた。


「ただいま」

「お帰り」

「あ――――」


 ――ママだ。

 美人の母親が戸を開けて帰ってきた。ジィハンはハイハイ未満の全速力の這いずりで母親の元に駆け付け、笑顔を見せる。

 母親はなにか血生臭く、赤黒いものを拭き取った感じで左肩には短槍を担いでいた。

 武人で猛々しい母の様相に凄みを感じるが、閻魔という比較対象が存在するジィハンには何も怖くなく、むしろ頼もしさを感じていた。


「ジィ、ただいま」

「あう――――――」


 帰ってきた挨拶を受け、母親に右腕で抱きあげられたジィハンは手足を曲げ伸ばしして喜びを全身で表現する。

 その行動に母親の笑顔が返ってくる。


「今日は二人で何をしてたの?」

「ジィハンに俺の名前を教えようとしてた」

「そう。それでどうだったの」

「ああん」

「まだジィハンはしゃべれないもんな」


 家族三人での会話に、三人ともが笑顔である。母親がジィハンの体を抱き上げ、笑顔を向けてジィハンに呼びかける。


「リンフェ。これが私の名前」

「んあ――」


 美人で凛々しい母リンフェの顔に、ジィハンは血の繋がった親子でありながら、惚れそうになるのを我慢するのが、精いっぱいだった。

 リンフェがあやしながらジィハンを視線を左に向けると、父親が近づいてくる。


「あれがシンハン、ジィハンの父」

「ああん、はぁ」


 シンハンとは父の名前と理解できた事にジィハンが足をバタつかせて喜びの舞を踊る。

 シンハンがジィハンを抱き上げるリンフェに寄り添う。仲睦まじい夫婦の間は挟まる子供は幸せそうにみんなでほほ笑む、幸せが止まらなかった。

 しかし、後にジィハンは思った。この時が一番に幸せな時期だったと思った。

 そう、ここは地獄である。

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