2枚目

 ぼくは小論文は苦手だったし、本もあまり読まなかったから、ちゃんと書けるかどうかがわからないけれど、どんな気持ちでいるのかを知っていてもらうためには、どうしても書いておかないといけないと思ったし、一昨日からのことを改めて思い返すのは、実はとても楽しい気持ちが蘇ってきて、それはぼくが、今からやろうとしていることには必要なのだと、この手紙を書いていて、気付いたような気がします。


 一昨日、ぼくがホームから飛び込もうとしたとき、ーー飛び込もうとしたときというより、飛び込もうかなって、ぼんやり思い始めたときかも知れないけれど、後ろから突然引っ張られたのを感じました。リュックサックの紐がどこかに引っかかったまま動こうとしたときのような感じで、そんなに強い力で引っ張られたわけではなかったのだけれど、ぼくはとっさに、イタズラが見つかったときのような気持ちになって、一瞬体がこわばりました。

 

 ちょっと、と、後ろからぼくのリュックサックに手をかけているヤツの声がしました。そいつが手を離したので、とっさに、ぼくは体半分だけで後ろを向いて、すみません、とか、声が出たのかわからないぐらい曖昧に言って、会釈みたいに頭を下げた気がします。そうして顔を上ようとしたときに、紺色のスカート、通学カバンとそれを持つ白い手、半袖のシャツと大きめのリボンが目に止まりました。女の子、そう思いました。女の子がぼくのすぐ後ろに、さっきまでリュックサックの持ち手を掴んでいたらしい手を伸ばして、立っていました。


 それじゃいけない。それじゃ悲しすぎるよ。女の子ーー先輩はそう言いました。後で話してみても、どこの学校とか、何学年かというのはわからなかったし、聞いてもすぐに、君は死のうとしている寸前だったのに今更他人が年上とか年下とか気にするのかとはぐらかすので、結局教えてくれませんでした。見ようによっては同い年にも、年上にも見えました。今思えば、もしかしたらどこの学生でもなかったのかもしれません。ただ、彼女が言うには、ぼくよりは先輩だと言うので、ここでは彼女の言うとおり、先輩にしておきます。


 先輩は、手を腰に当てて憮然とした表情で立っていました。ぼくは、さっきまでの驚きが不審に変わって、次に、変な人に絡まれたというのが、ぱっと浮かびました。だから、とにかく離れようと思って、すみません、と言いながら、小さな穴を通り抜けるように体を小さくして先輩の脇を抜け、足早にホームから降りる階段に向かいました。


 すると、どうも後ろから誰かが同じスピードで着いてくる気配がします。ぼくは、それに気が付かないふりをして、振り返らないように歩いていましたが、だんだんと怖くなってきて、最後の方は半ば走るようにして、改札へ向かいました。それで、気が付かなかったのですが、電車に乗らずに同じ駅から出ようとすると改札機は通してくれないようになっているみたいです。定期券を改札機のセンサーに叩きつけて、慌てて通り抜けようとしたのですが、突然ゲートが閉まって、ぼくは前につんのめるような格好になりました。改札機に捕まりながら体勢を立て直して、もう一度改札機に定期券をタッチしようと後ずさったところで、誰かにぶつかりました。


 おっと、あぶない。そんな、逃げなくてもいいじゃないか、先輩は悲しいな。さっきの女の子、先輩がすぐ後ろにいました。思えばそこで、先輩、と聞いたのが初めてだったような気がします。そこから、この人は先輩なのだ、と勝手に思ったのかも知れません。先輩は、ぼくが定期券を持つ方の腕を掴んで、改札機からひっぺがしながら、駅員室を通らないと同じ駅からは出られないんだと言いました。そのままぼくを引っ張って駅員室まで連れて行き、一旦外に出たいですと先輩が駅員に言って、二人で駅を出ました。そこで、ようやく先輩はぼくの腕から手を離しました。


 先輩は何が面白かったのか、ニコニコとしてぼくを見ていましたが、ぼくは呆然と先輩の前に立っていました。ここでようやく、ぼくは先輩を落ち着いて目に収めることができました。ちょっと長めの髪を後ろでまとめていて、下ろした前髪からは細めた吊り目が覗いていました。背はぼくより少し低いかなと思うぐらいで、着ている制服のサイズがそうさせるのか、全体的に華奢で、かわいい、というより、綺麗と言ったほうがいいのかも知れません。いえ、ぼくは女の子のそうした印象を表現するのに慣れていないから、もしかすると、古語に言うような、怪しい、という言葉が合うように思いました。


 ぼくは我に帰って、もう一度、すみませんと言って、どこに行こうとしたかわかりませんが、とにかくどこかにと思って、線路の高架下の道へ向かって歩き始めました。しかし、その後を先輩はついてくるようです。歩いていくうちに、夏服がじんわり湿り始めていくのがわかりました。まだ朝の早い時間でしたが、駅に向かう他の学生やスーツ姿の人、子供を乗せて自転車を走らせている女の人とすれ違うたびに、自分の悪いところが一つずつ挙げつらわれて責められているような気がしました。戻ろう、とその度に思いましたが、先輩が後ろからついてきているのが、すれ違う人の視線でわかったので、引き返すに引き返せませんでした。駅から次の駅の半分ぐらいにきたところ、ちょうど道路と線路とが立体交差になっていて、その高架の下を埋めるように、コンビニがある所です。ぼくは歩くのをやめて、決心して振り返りました。やはり、先輩はぼくのあとをついてきていました。先輩は改札口で見たのと同じようにニコニコとそこに立っていました。手には薄紫色のハンカチを畳んだまま持っていて、それで顔を煽いでいます。


 ぼくは、なんでついてくるんですか、となるべく嫌そうな感じを出しながら、先輩に尋ねました。先輩はぼくの態度などまったく気にしないで、だって君、死のうとしてたでしょと言います。言い返そうと口を開いたのですが、何も言葉が出てきません。そうしているうちに先輩は、ちょっと暑くない、とうんざりした感じで言いうと、今初めて見つけたふうにコンビニを指差しながら、ちょっと涼んでいこうよ、とぼくの腕をまた掴んで引っ張っていこうとします。あまりに強引でしたし、さっきの駅の時とは違って人目もなかったので、振り払おうとしました。しかし、案外先輩は力が強いのか、ちょっと腕を引いたぐらいではそのまま引っ張られてしまいます。もっと力を入れようとしましたが、相手は女の子というところがぼくの頭の隅で引っかかり、引っ張られるままギクシャクとコンビニの中に入って行きました。


 先輩は自分の分とぼくの分の飲み物を買い、今度は後ろから押し上げるようにしてぼくをコンビニの二階のイートインスペースに突っ込みました。それで、窓際の席に行って、カフェオレのパックとお茶のペットボトルを置くと、ぼくを手招きして座らせました。先輩はカウンターに片方の肘をついて、足をぶらぶらさせながら、カフェラテのパックをカウンターに置いたままストローで飲んでいます。ぼくは、横目でそれを盗み見ながら、目の前にあるお茶のペットボトルを目に収めていました。しばらくそうしていましたが、ぼくが居心地の悪さに我慢ができずに口を開こうとすると、先に先輩が、君は死にたいの、と窓の外を見ながらぼんやり聞いてきました。

 

 ぼくは、違います、と否定しましたが、それは、世の中とか、そう言うのに憚って咄嗟に出た言葉でしかありませんでした。先輩はそれを見透かしたように、くすくす笑いながら、嘘だね、と言います。あんな中途半端な時間に、ぼうっと黄色の線を見てフラフラしている人間が、死のうと思ってないなら何なのか、というようなことを言いました。ぼくはお茶のペットボトルを手にして、フィルムを親指で撫でるようにしながら黙っていました。説教かと、ぼくは思いました。きっとこの人は、同い年ぐらいの男子学生が自殺しようとしたのを止めたという正義感を満たすだけには飽き足らず、ぼくの今までを矮小化して、自分のくだらない人生観を流し込もうとするつもりなのだと身構えていました。しかし先輩は、じっとお茶のパッケージを見ているぼくを、死ぬんだったらもう少しマシな気持ちで死になよ、と鼻で笑いました。死ぬなとか、これから先のことを考えろとか、そういう誰でも言えるようなことを言われるんだと思っていたぼくは、驚いて顔を上げて先輩を見つめました。先輩は、君、ただ死のうかなとか、そういう曖昧な気持ちのまま死ぬのは、もったいないよ。せっかく死ぬんなら、もっと気分よくやらなきゃ。

 

 ぼくは嫌な予感がしました。脱法ドラッグが学生の間で蔓延しているとニュースでやっていましたし、つい最近、わざわざ警察の人が来て学校で講習をしたばかりでした。ぼくが訝しんで身を引いているのに気がついたのか、先輩は呆れて、いやいやクスリなわけないでしょ、そういうのはそれ以前の問題じゃん、とちょっと低い声を出しました。そして大袈裟にため息をつくと、パックの残りのカフェラテを吸いながら、椅子から降りて、ほら行くよ、とぼくの肩を叩きました。階段のほうに向かう先輩に、ぼくが、どこへ行くんですか、と言うと、先輩は立ち止まって、向こうを向いたまま、腰に片手を当ててしばらく考えるように唸っていましたが、うん、と頷くと、君が昔いたところ、と言いました。ぼくがまだまごまごとしていると、先輩が近づいてきて、どうせ今から学校行ったって一緒でしょ、だったら、いいじゃない、そう言いました。


 壁にかかっていた時計を見ると、もうホームルームの終って、一限目の授業が始まっている頃でした。確か今日の一限目は数学で、先生が昨日出した宿題の解答を教団のボードに書かせるために、クラスの奴らを指名している様子が目に浮かびました。それに当てられて前に行こうとするとき、後ろの方の席と斜め前の席から小さな声で、あいつらが囃し立てたりする声が、聞こえた気がしました。また別の場面も浮かびました。ぼくが遅れて教室に入ってきて、数学教師がぼくを見咎めて、ぼくが色々な言い訳をするのを、そいつらがニヤニヤ笑って見ている姿でした。もういいや、そう思いました。


 どこに行くんでしたっけ、と椅子を降りて先輩に聞くと、XXX、と先輩は答えました。ぼくが中学生の頃まで住んでいた所でした。XXX、いいかも知れないそう思いました。その時、小学生の頃、友達の家までに歩いた草だらけの裏道とか、おばあちゃんの家の真っ青な瓦が敷かれた屋根の端が、両側を家に囲まれた細い通りの先に見えている景色が、目の奥から溶けて滲み出るように浮かんできました。ぼくは、それに浸りながら、乗り換える駅を思い浮かべながら、ここからはちょっと遠いけど、十五時ぐらいには着くな、なんてことを計算しました。決まりだね、と、ぼくがいつの間にか追い越していた先輩の、嬉しそうな声が後ろから聞こえました。先輩は飲み終わったカフェラテのパックを壁際にあるゴミ箱に向かって投げました。

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