第8話
アンデルセン商会を出て、私はしばらく街をぶらぶらと歩いていた。身体を動かしていなければ、罪悪感に押しつぶされてしまう気がしたからだ。
自然と視線は落ち、砂埃に塗れた敷石と、その上を歩く市民たちの無数の脚が視界を満たす。男の脚、女の脚。大人の脚、子供の脚。速い歩調、遅い歩調。方向もてんでバラバラで……混沌としている。
ふと、黒い固まりが視界に入った。小さく震えている。
よく見てみれば、それは子犬であった。全身が灰色の短毛で覆われているが、それが土埃ですすけ、みすぼらしい有り様になっていた。商店の外壁に身を寄せ、不安げな瞳で人々を眺めている。
「どうした、犬っころ」
しゃがみこんで声をかけてやると、子犬は「きゅうん」と悲しげな声で鳴いた。
その時、一台の馬車がガラガラと音を立てながら通り過ぎていった。ああいったものに犬が
「ひとりぼっちか?」
問いかけてみるが、当然ながら子犬は答えない。つぶらな瞳を悲しげに伏せるだけである。よく見てみれば、痩せて肋が浮き出ていた。
私はとうとう居たたまれなくなり、「ちょっと待っていろ」と言ってから立ち上がった。もう一度周囲を見渡す……ぼろぼろの身なりの老人が目に留まった。長い髭をたくわえた男性で、右目に汚れた包帯を巻いており、片足を引きずっている。周囲の人々が彼を避けるように歩いているのを見るに、浮浪者か何か……いや、
私はその男に声をかけることに決めた。
「もし、そこの人」
男は仰天したようで、きゅっと黒パンを抱きしめたまま固まった。
「そう警戒しなくて良い。こちらは、そのパンを少しばかり譲って貰いたいだけなんだ……ああ、勿論お代は払うとも」
「パ、パンをですか……? それでしたら、あちらにパン屋がありますので……」
「小麦粉の持ち合わせがないし、焼いて貰うのを待つのも億劫でね。半分で良い、譲って貰えないか?」
そう言いながら、赤みがかった銀貨を1枚差し出す。浮浪者はさらに仰天したようで、首をぶんぶんと横に振った。
「お、多すぎます、旦那様」
「手間賃だ。それで新しいパンを買うと良い」
浮浪者は迷いながらも、結局赤銀貨を受取り、ナイフでパンを半分に切り取って渡してくれた。
「ありがとうございます、旦那様」
「こちらこそ」
浮浪者は何度も頭を下げ、パン屋のほうへと去っていった。渡した赤銀貨――黒銀貨よりも銅の混じり気が少ない――があれば、新しく黒パン……どころか、混じり気のない白パンを買った上で、新鮮な肉も幾ばくか手に入るはずだ。ちょっとした喜捨だ。
「さて」
と私は踵を返し、子犬のところに戻った。子犬はまだ先ほどと同じ場所で、同じように不安そうな瞳で周囲を見渡していた。
私は子犬の前にしゃがみ込み、黒パンをナイフで削った。小さな欠片が幾つも地面に落ちる。
「食べるといい」
そう言いながらパンの欠片を子犬に近づけてやると、子犬はパンの欠片に鼻を寄せ、しばらく匂いを嗅いだあと、パクパクと食べ始めた。
――ひどい偽善だな、と思った。いたいけな少女1人を巻き込んだ罪滅ぼしが、これか。貧者に小銭を渡し、餓えた子犬に餌をやる? その程度で償える罪なはずがない。
だが、私はどうしてもこの子犬を放っておくことが出来なかった。この子犬を見捨てるのは……私自身やローザを見捨てるのと同義だと、そう思ってしまったのだ。
偽善と自己
「残りはどこかに隠しておくことだ、猫や鳥に取られる前にな」
そう言って私は立ち上がり、歩き始めた。ヘルマンと別れてもう1時間以上は経つだろう、そろそろ『金の鹿亭』に向かわねば。
……だがしばらくして、背後から気配を感じた。振り返ってみれば、先程の子犬がついてきているのに気付いた。パンを
「ついてきても飼ってはやれないぞ」
しっしと手を振る。これから犬よりも聞き分けの悪い傭兵共を組織し、軍隊に仕立てねばならないのだ。犬の世話なぞしている暇はない。
私は再び歩き始めた。背後から「きゅうん」と悲しげな声が聞こえたが、努めて無視した。
◆
『金の鹿亭』は、王都でも1、2を争う規模の酒場だ。昼間でも営業している……というのも、王都を訪れる隊商の人間や、その護衛、あるいは護衛の仕事を求める者たち……の憩いの場として需要があるからだ。
扉を空けて店内に入ると、既に複数の男女が酒を飲み交わしていた。その殆どは、屈強な身体つきをしている。傭兵だ。
カウンターに目を向けてみれば、見慣れた姿を見つけることが出来た。
「ヘルマン」
そう声をかけると、彼は……何かを悟ったような、静かな瞳で……笑顔を向けてきた。
「よぉ、ディオス。……その子犬は?」
私の胸に抱かれた子犬が、「むふん」と息を漏らした。……結局、情に負けてしまったのだ。
「……良い猟犬になると思ってな」
「そうかい。まあ座れよ」
私は子犬を床に下ろし、ヘルマンの隣に座った。子犬は特に命令されるまでもなく、私の足元に尻を下ろした。
酒場のマスターがこちらを見たので、銅貨を数枚カウンターに出しながら注文する。
「葡萄酒を2つ。薄くて良い」
「承知」
マスターが混酒器に葡萄酒と水を入れてかき混ぜるのを横目に、ヘルマンに話しかける。
「来てくれたことを嬉しく思うよ、ヘルマン」
「当然だろ親友」
力強くそう言うが、ヘルマンは……やはり何かを悟ったような、静かな瞳をしていた。
「……。どうだった?」
「俺は
「いつも通りだな。それで?」
「屈強な体格の、髪が真っ白な婆さんが出てきた」
丁度マスターが木の盃に入れた葡萄酒を運んできたので、私はそれを掴み、掲げた。
「同情するよ。乾杯」
「乾杯」
物悲しい空気を漂わせながら、私たちは盃を打ち合わせ、薄い葡萄酒を飲んだ。
「……でもテクニックは凄かったぜ」
「んぶっ」
葡萄酒を噴き出しそうになったのを、必死で堪えた。
「ゲホッ、それは良かったな畜生!」
「ああ、だが俺は悟ったんだ……いくらテクが凄くてもよ、胸がまるで、しわしわの腰帯みたいじゃ」
「興味深いレポートだが、まだ笑って流せるほど酔ってないんだ。結論から言ってくれないか?」
「……俺ぁ英雄になって、胸に張りがある頃合いのねーちゃんにモテてぇ。だからお前に着いていくよ」
「ありがとう。……うん。ありが……とう」
動機は不純極まりないが、ひとまず頼れる従士が着いてきてくれるのは
酒が回ってきたのか、ヘルマンの瞳に宿った悟りの色が薄れてきた。
「んで、これからどーすんだ?」
「軍を組織する。身体1つで東部辺境行って、諸侯に『ちょっと魔将討伐するんで軍貸してくれ』と頼むわけにはいかないからな」
「そりゃそうだ。東部諸侯にんなこと言ったら、ブチ殺されそうだしな」
東部諸侯は魔族領域と境界を接しているため、通常の諸侯より大きな特権と軍隊を持っている……そして、気質がアレクシアレスに近い。大反乱の際、アレクシアレスが「楽しい戦をさせてやる」と言ったら喜んでアレクシアレス側についたそうだ。根っからの武人連中なのである。
つまり、ヘルマンの読みは恐らく当たっている。身体1つで向かえば「ふざけているのかこのクソガキ?」と斬り捨てられてもおかしくないし、アレクシアレスはそれを追認する予感しかしない。
私は頷く。
「1個中隊が限度だが、無いよりはマシだ。ひとまずは下士官から集めよう」
下士官は軍隊の柱だ。最低でも伍長が10人以上は欲しい。彼らが最前列を担当し、その後ろに彼らが指揮する5人隊の面子が続くからだ。つまり、伍長の数が部隊の横幅を決めるのだ。
マスターに声をかける。
「今、店のなかに暇してる傭兵はいるかい?」
「殆ど全員でさぁ、旦那様」
「そりゃ僥倖」
私は椅子から立ち上がり、店中に響くように語りかけた。
「皆聞いてくれ! 私はアレクシアレスが長子、ディオスである。東部辺境へと向かうため、軍を組織することになった。目下、下士官兵を募集している。給料は兵卒なら大金貨4枚、下士官はその2倍とする。我こそはと思うものは、私に声をかけてくれ!」
給与はかなりの高額。相場の1.5倍から2倍に相当するのだ、飛びついてくる者は多かろう。
酒場中がざわついたのを確認し、私は席に座った。私はゆっくりと葡萄酒で喉を潤しながら、志願者を待つことにした――。
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