第2話 崩壊
その日の夜。
秋の夜長を鳴く虫の声と、お風呂で
静かになった台所には、蓮が1人。鼻歌交じりに食器を洗っている。夕飯の片付けは当番制であり、今日は蓮の担当なのだ。
ふと、蓮は手を止め、窓の外を見た。
夕食を食べ始めた頃はまだ日が出ていたが、今では空も紺碧に染まりかかっている。10月に入った為か、最近は日が沈むのも早く、夜は寒いほどだ。
季節が進むのは早い。
何となく時間は大切にせねばと、改めて思う蓮であった。
「蓮〜、真奈食べ終わったよ〜」
と、そこへ杏樹が暖簾をくぐって来た。手には2人分の食器がある。
「ん、ありがと、杏樹!」
やや疲れ気味の杏樹から、蓮は食器を受け取った。どうやら全員が完食したようだ。
「遅くなってごめんね〜!でも、真奈も前に比べたら早く食べられるようになったんだよ!」
そう話しながら杏樹も蓮の隣に並ぶ。真奈の成長が自分の事のように嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている。
「だね!真奈は今からお風呂かな?杏樹も一緒に入ってきなよ」
『片付けはあたしに任せといて!』と、蓮は泡だらけの手でブイサインをつくる。しかし、杏樹はゆるゆると首を振った。
「ううん、今日は私も手伝うよ」
と、早速自身もスポンジを持ち、腕まくりをする次第だ。
「え、大丈夫だよ?今日はあたしが当番だし」
「まあまあ、いいからいいから」
首を傾げる蓮を軽く流しつつ、杏樹も皿洗いに取り掛かる。暫く考えていた蓮だが、
「わかった、なんか話したいことあるんでしょ?」
蓮は勝ち誇ったようにそう言うと、杏樹は反対に萎縮する。蓮の読みは図星のようで、恥ずかしそうに笑った。
「う……バレた?」
「バレるバレる〜!あたしら、何年の付き合いだと思ってんの?」
蓮は試すように杏樹を見た。杏樹は指折り数えるが、これといった数字は出せない。
「かれこれ……10年弱?」
「まあ、そうだけど…正確には8年と9ヶ月!!」
蓮は自身ありげにそう言うと、ふんぞり返った。
「そんなに正確に覚えてるの!?」
「あったりまえじゃーん!!あたしと杏樹の初対面の日だよ?8年前だから……あたしが8で杏樹が5の時だね!懐かし〜」
蓮は杏樹を置いて1人で思い出に浸った。そんな様子を杏樹は羨ましげに見る。杏樹には昔から、何故か当時のことが思い出せないでいるのだ。
「……私、置き去りにされた時のこと、あんまり覚えてない。きっと、誰かと一緒に来たんだろうけど……」
「あーそうだったね。杏樹めっちゃ可愛かったんだよー!あ、今ももちろん可愛いよ」
蓮は昔を思い出して恍惚とした表情を見せる。泡も電気の光を反射してキラキラと光り、辺りを舞っている。
「そ、そういうのいいから!!」
「ごめんごめん。で、何?話したいことって」
蓮は口を抑えるようにして笑った。顔には少し泡がついている。
「あ、えっと、その……なんか今日の朝、ふと寂しくなっちゃってさ」
杏樹は『もー!』と言いつつ、自身を落ち着かせ話し始めた。顔には僅かな
「寂しく?」
「うん。蓮はあと2年でここ卒業でしょ?2年って長いようで短いから、なんか急に不安になったの。蓮が卒業したら私が1番上になるし」
一気にそこまでいうと、苦笑した。蓮はその様子を見て分からないというように肩を
「うーん、確かにそうだけど、他の部屋には杏樹より歳上の子なんてまだいるでしょ?そんなに気負う必要ないと思うけどなー」
「でも、周りのみんなもどんどん引き取られて行っちゃうし、なんか私だけ取り残されたみたいで……」
それでもまだ不安げな杏樹を、蓮は覗き込むようにして目を合わせた。普段は見せない、真面目な顔。長い睫毛が夜風に揺れる。杏樹は不覚にもドキリとした。
「杏樹、2人で約束したの、忘れちゃったの?」
「え?」
――約束?覚えていない。
杏樹は首を傾げた。蓮は再び前を向く。
「18になったら規則だからさすがに出ていくけど、引き取られる時はお互いに一緒じゃないと行かないって約束!」
「あ……」
そこまで言われて、蓮と出会ったばかりのことを思い出す。寂しさに泣いてばかりの杏樹の隣には先生より長い時間、蓮がいた。
――『約束!!』
先程の言葉が昔の蓮と重なるような気がした。じんわりと杏樹の心に温かさが染み渡る。
遠い日、夕陽が指す自室のベッド。『アンジュ』と自身の名前が書かれた小さなメモ紙を持った女の子が泣いている。それを抱きしめる女の子がいた。泣き止むまで、私をずっと。やがて涙が枯れると、名前の話になる。
――『うーん、杏樹は雨の日に来たから……"雨宮"なんてどうかな!?』
瞳をキラキラさせて、私に苗字をくれる。そうだ、彼女は……
「もうー!やっぱり忘れてた!!」
僅かな怒気を含んだ蓮の声で杏樹は我に返る。何故か蓮がぼやけて見えた。
「ご、ごめん……そう、だったね。忘れてた」
慌ててそう謝ると蓮は『いいよ』と言って笑う。そしてまた杏樹を見る。
「だから――大丈夫だよ、杏樹。もう杏樹を1人にはさせないから」
――『約束だよ、杏樹ちゃん!もう1人にはさせないから!!』
また、重なった。蓮は夕陽に照らされていて――
ああ、何故こんなに大事なことを忘れていたのだろうか。私はここでずっと愛されたいたのに。みんなに置いていかれたと思っていたのは杏樹だけだったのかもしれない。
「そうだ、今日は久しぶりにあたしのベッドで一緒に寝ちゃう?」
それはとても魅力的な提案に聞こえた。昔は2人で寝ていたことを思い出して――また、涙が出てくるのを堪える。代わりにその提案には満面の笑みを返す。
「……うん!」
「よーし、そうと決まればさっさと片付け済ませちゃお!杏樹、手伝ってくれる?」
蓮は上目遣いで杏樹を見た。赤茶色の瞳に灰色の瞳が映る。杏樹はすぐにうなづいた。
「もちろんだよ!……ありがとう、蓮」
「水臭いなーこのぐらい。てか、杏樹は暗い方向に考えすぎなんだよ!ポジティブにならなきゃ!」
「ポジティブかあ……そうだね、」
2人の話し声はこれからの寒さを切り裂くように、その後も続いたのだった。
時刻は夜10時。
食器の当番を済ませた2人はその後、お風呂も2人で入った。そしてリビングで昔話に花を咲かせているうちに、上級生が寝る時間になったため、2人で布団に入る。
2人のベッドは窓に一番近いところに位置している。窓に柵が施してあるとは言え、小さな子供は落ちてしまうかもしれない。他の部屋でも必然的に1番上の子供が窓に近いベッドで寝ている。
「おやすみ、蓮。あ、私のことカーテンと間違って蹴らないでね」
「こんな可愛い杏樹を蹴るわけないでしょー!!」
「ごめんって。でも可愛いは余計」
そんな他愛もない会話をしてベッド近くの電気を消す。月明かりはカーテンで遮断され、部屋は暗闇に包まれた。
「……ありがとう、蓮」
「ん、おやすみ、杏樹」
最後にそう交わすと、2人は目を瞑る。
――こんな日々が続くと思っていた。
友達と、いや"家族"とくだらない事で笑いあって、時には喧嘩もして。他には望まないのに。どうしてこうも簡単に日常は壊れるのだろうか。
2人も寝ついた、真夜中――
――ジリリリリリリリ!
突如火災報知器が鳴った。
聞いた事のないけたたましいベルの音にみんなが目を覚ます。避難訓練はしてきたものの、実際の音は訓練の時より大きな気がした。すぐに最年長の蓮が大きな声で指示を出した。先生が来るのには時間がかかるかもしれない。蓮が先頭、杏樹が最後尾で歳下の子供を間に挟むようにして外へ向かう。火元は分からなかったため、最短ルートだ。突き当たりの階段が近づいた頃、杏樹は重大なことに気づく。
『アンジュ』と書かれたメモ紙を部屋に置いてきてしまったのだ。
自分のベッドで寝ていたら咄嗟に掴んでいたかもしれないが、今日は状況が違った。
――戻るのはダメだってわかってるけど……
あれは自分と家族を繋ぐ最後の手がかりだ。あれを無くしてしまったら自分を構成する何かが壊れてしまうような気がする。
杏樹は決意すると、他の部屋の子と合流したタイミングで、みんなに気づかれないように来た道を戻った。
部屋にはいつもの夜の静けさはなく、相変わらず警報が鳴り響いている。煙が迫ってくる様子はない。
杏樹はまだ火の手が回っていないことを確認すると、急いで自分のベッドを登った。
「良かった……あった……」
枕元には時計と共にジップロックに入ったメモ紙が置いてあった。メモ紙だけポケットに入れ、ベッドを降りる。
(早く戻ろう、火元がどこかまだ分からないけど……とりあえず、最短ルートで――)
と、ベッドから降りようとしたその時――
コンコン
窓から何やら音がした。突然のことに驚いて咄嗟に音の方を見る。
(な、何……?窓に――人影?)
月の光が逆光だからだろうか、カーテンを透けて人影が見えた。
コンコン
またノックの音。杏樹は誘われるようにして、カーテンを開けた。暗かった部屋に一気に月明かりが差し込む。
そこには見たことの無い青年がいた。
青年は大袈裟な口の動きで『開けて』と言い、窓の鍵を指さしている。杏樹は慌てて窓の鍵を開けた。瞬間、青年が外から窓を開ける。外から夜の冷たい風が一気に入り込んだ。杏樹は反射的に顔を覆い、目を閉じた。やがて風が止むと、目を開けるより先に、少し高めでハスキーな、青年らしい声が耳に入る。
「やあやあ、お嬢さん。ごめんね、ちょーっとお迎えが遅くなっちゃった」
――あれ……?
違和感を感じて杏樹は目を開けた。そして改めて青年を見る。
色素が薄めの髪に、右目が隠れている。では左目はというと、こちらは黒い眼帯をしていた。表情が読めない。というか、見えているのか……?首には黒いネッグウォーマーまでしている。両手には、指の部分が抜けている黒い手袋。黒が好きなのだろうか。そして右は半袖で、左は長袖の奇妙なTシャツに、すねの部分まで
なんとも奇妙な格好をした青年。初対面のはずなのに、何故かどこかで会ったことがあるような気がしてならない。でも、こんな変な格好をした人を忘れるだろうか――
全く動かない杏樹を不思議に思ってか、再び青年が口を開いた。
「あー、ごめん。もしかして寒かった?」
と、杏樹の心配をすると、どこから出してきたのか茶色のポンチョを杏樹にふわりとかけた。外界の温度が遮断され、暖かさが戻ってくるのがわかる。
「これでとりあえずは大丈夫かな?……って、こんなことしてる場合じゃないや」
何がおかしいのか青年は1人で笑うと、無駄のない動きで杏樹に手を差し伸べた。手袋が月光に反射してキラキラと光る。
「おいで、僕と一緒に逃げよう」
突然の誘いに訳が分からず、『は、』と声が漏れる。
「逃げるって……急にそんなこと言われても」
杏樹は当然無理だ、とばかりに青年を見た。その反応をわかっていたかのように、青年はまたもや笑った。そして次の言葉を告げる。
「あれ、引き取ってほしかったんだろ?ほら、僕が引き取ってあげるよ」
――引き取って、あげる
杏樹は無意識にその言葉を反芻した。ずっと自分が待ち望んでいたこと。この人が、叶えてくれる……?
先程までの疑心はどこへやら、それだけで杏樹の心を掴むのには十分だった。
青年は無言で手を差し伸べるばかりだ。その口元は相変わらず笑っている。
果たして杏樹は――ゆっくりとその手を取った。
青年の手はずっと外に居た為か、冷たかった。
「いい子だ」
青年はそう言って笑うと、ぐいっと杏樹を自身へ引っ張った。思っていたより強い力に為す術なく、杏樹は青年の胸の中に収まる。そして、その勢いのまま2人はそのまま外へ落ちた。
――ん?落ちる?
杏樹は青年の胸の中である疑問を浮かべた。
――あれ?私の部屋って……
「あの!ここ、5階――」
そう叫んでもう手遅れ。冷たい風が頬を
「ん?あー大丈夫大丈夫。そのままぼくに捕まってて……ってもう、遅かったか」
青年はまた笑うと、握るのが弱くなっていく杏樹の手を上から包んだ。そして意識を手放した杏樹に向けて、
『――』
何かを言うと自身も目を瞑る。
後に残ったのは夜風に誘われ、なびく純白のカーテンと月光に照らされた部屋のみ。
2人がどこへ向かったのか、誰も知らない――
否、知っている者達がこのときを待っていたとばかりに動き出すのは、以降の話である。
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