開いたのは誰

白夏緑自

 包丁がまな板を叩く音。みそ汁の匂い。母の朝を告げる声。両親と一緒に暮らしていれば、目覚めに紐づく郷愁じみた記憶の一つや二つをほとんどの人が持っているだろう。


 私にとってのそれは部屋の扉を開ける音と、父の声。さらに窓を開ける音だった。実家では毎朝、父が洗濯物を干すことが日課であった。

 ベランダに繋がる唯一の動線が私の部屋だったこともあり、平日のほとんどはベッドの横を通る父に起こされていた。


 当時、私が過ごしていた部屋の構造をざっくりと説明すると、ちょうどベッドで二分するようなレイアウトをしていた。長方形の部屋をベッドが半分に割り、空いたスペースは扉からベランダまで一本の道となっていた。


 ベランダへ続く窓は引き違い式だった。両方の窓を横に動かせられるが、しかし両方同時に開くことはできない。ごく一般的な窓。


 その日の朝はたまたま母が洗濯物を干すことになっていた。父は出張に出ていたからだ。

 ノックもなしに部屋へ入ってくるのも慣れている。入って来て早々の「クーラー点けるなら窓は閉める」。倹約家な母の小言も「ああ、うん」と適当に返す。たしかに、寝ぼけ眼で見てみると私の足元にあたる窓が開いていた。しかも、網戸まで。

窓をスライドする音が二回鳴る。母の方が父より乱暴なので、はっきり聞こえる。一晩の間に虫が入ってきていないことを祈りつつ、寝ぼけた頭をそのまま枕に静めようとしていると「なにこれ⁉」母が叫び声をあげた。


「なに?」

 怒っている様子でもない。母が怒り以外で声を荒げるのも珍しい。ただならぬ雰囲気に眠気を吹っ飛ばして、私もさすがにベッドから起き上がる。


 母はベランダに洗濯物を抱えたまま立って、下を向いていた。俯いているわけではなさそうだった。視線をたどると、ベランダ備え付けの避難はしごのハッチを見ていたのだとわかる。


 見慣れた設置物だが、この状態になっているところは私も初めてだった。


「なんで開いてるの?」

 本来なら緊急時に使用する、そのハッチが開けられていた。

「あんたがやったんじゃないの?」

 私は首を横に振る。

 

 まさか。昨晩は一滴も酒を飲んでいないから眠るまでの記憶はハッキリしている。帰ってきて、歯を磨いてそのまま就寝。疲れて、スマホすらロクに見ていない。


「まあ、何か間違って開いたんでしょ。下に住んでいる子どもがいたずらで開けたとか」

 我ながら苦しい推理だったが、怯える母を納得させるためには何でもいいから適当な辻褄が必要だった。


「……そうね……」

 我が親ながら母は頭が良いほうだったが、私のでっち上げに無理やり納得して、そそくさと洗濯物を干してはベランダを出て行った。


「あ」と、母が部屋を出る直前、思い出したように「クーラー点けるなら窓は閉めて。電気代もったいないから」


「うん」と私は曖昧に返事をするしかなかった。繰返しの小言に言い返す余裕も失せた。寝汗でTシャツが張り付く体に鳥肌がたつ。凍えそうな寒気が頭からつま先まで降りる。


 ハッキリと言い切れる。夜の間、窓など、私は開けていない。エアコンを使っていたのだ、普段から倹約化の母の教えを守り続けている。


 だが、母は窓が開いていたと言う。私も目撃した。ベッドと隣接した、私の足元にあたる窓は確かに開いていた。それも、網戸まで。


 開けた覚えのないはしごに、開けた覚えのない窓。昇り、入るための口が全て。

 もし、誰かが部屋に入ってきたとすれば、まず足を踏み入れる場所は──。


 ここまでで、私は深く考えるのをやめた。私自身に降りかかった恐怖を払しょくするための辻褄が思いつきそうになかったから。

 あの日以来、私が実家を出てから一度もベランダのはしごが開いたことはない。あの朝の真相はいったい誰が持っているのだろうか。


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開いたのは誰 白夏緑自 @kinpatu-osi

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