ep12 今なら何をしても

 掛井が先輩に向ける視線は明らかに医者が患者へ持つ感情を超えた、偏執的な熱がこもっていた。常日頃から先輩のストーカー集団に釘を刺している俺にはわかった。あれは何か一つでも間違えば道を踏み外す犯罪者予備軍の目だって。

 だから俺は、先輩に追い出されたその日から病院の敷地に侵入して先輩を影から見守ることにした。日中は学校もあるし、先輩も起きてて人の目もあるからそんなに心配することはない。ことが起きるとすれば夜だろう。そう考えて、俺は授業中に『潜伏』を使いながら爆睡して、夜は徹夜で先輩を見守っていたんだ。


 俺にはオーラの匂いを嗅ぎ分ける特別な『嗅覚』がある。

 扱えるかどうか、その技量や保有量に差があるだけで、人というのはほぼ例外なくオーラを体内に有している。生きている内は少しずつそれが体外に漏れ出して、新たに生成される、言ってしまえば汗みたいなものだ。

 そして汗と同じくオーラには人それぞれ匂いの違いがあって、体調や精神に影響を受けてその匂いは変化する。

 だから俺は、別に先輩の部屋にまで忍び込まなくても、敷地の中で先輩の匂いを嗅いでいれば異変に気付くことが出来る。


 先輩の匂いは日が経つにつれて少しずつ変わっていった。あの日から先輩からの連絡はないから予想になるけど、それは多分徐々に能力が使えなくなって不安や恐怖を感じてたんだと思う。

 そうやって先輩の気持ちを推し量るたびに、今すぐ病室まで行って先輩を元気づけたい、そばにいたいと思ったけど、オーラを使える俺がそんなことをしても逆効果かもしれないって、先輩に嫌われるかもと思うと勇気が出せなかった。


 だけど今日だけはそんなことを言っている場合じゃなかった。

 深夜、とっくに眠りについて穏やかな嗅ぎ心地だった先輩の匂いが、唐突に強い恐怖を感じた時のものに変化した。

 先輩が危ない、それを敏感に察知して人目を避けながら大急ぎで先輩の病室まで駆けつけた俺は、気が付けば掛井をぶん殴って先輩を背にかばうように立っていた。


 何か思考する暇も余裕もなかった。先輩が掛井に押し倒されているという事実を認識した瞬間に、身体が動き出していた。掛井が死んでいないのは奇跡と言っても過言じゃない。人間が相手だから無意識にセーブをかけてたんだと思う。そうじゃなければ、掛井の首から上はなくなってたはずだから。


 掛井を徹底的に痛めつけて先輩に手を出そうとしたことを後悔させてやりたい気持ちはあったけれど、それよりも今すぐにこの場所から先輩を連れ出すべきだという激情が俺の思考を支配して、深く考えもせずに啖呵を切ってから先輩をお姫様抱っこして窓から飛び出した。


 先輩が何か言ってたけど、それにちゃんと考えて答える余裕もなかった。

 本当に、俺は先輩のこととなると少しも冷静でいられなくなってしまう。

 先輩のことを天使だと思ってた頃も、そうじゃないってわかってからも、先輩はいつも俺を夢中にさせる。腕に感じる先輩の重みが愛おしい。俺はもう、この人がいないと駄目なんだ。


 病気のこととか、どうせ死ぬつもりってどういうことなのか、これからのこととか、先輩と話したいことは沢山あった。それにもっと構ってもらいたい。だけど、今の俺は冷静さを欠いていると思う。このまま先輩と一緒にいたら何を言うか、何をしでかすかわからない。先輩も自分の家で家族と一緒にいるのが一番安心できるだろうし、頭を冷やすためにも今日は先輩を送り届けて解散にしよう。

 そう考えて、ふと思い出す。そういえば俺は先輩の家がどこにあるのかを知らない。先輩は俺の家の合鍵を持ってて我が物顔で入り浸ってるって言うのに、俺は一度も先輩の家に行ったことがない。


「先輩、送りますから家の場所を教えてください」

「こっからならワンコの家の方が近いだろ」

「いや、今日はちょっと」

「……なんでだよ」


 なんでだよ、と来ましたか。

 ついさっきあんなことがあったばっかなのに、先輩は本当に自分がどれだけ可愛いのかをわかってるんだろうか。いっつも美少女美少女言ってそれっぽい誘惑してくるくせに、実際はこの人が一番自分の可愛さをわかってないんじゃないかとすら思えてくる。

 いくらなんでもさっきの今で自分の家に連れ込むほど俺は無神経じゃないつもりだ。

 今までの先輩ならいざ知らず、今の先輩はもしも俺に襲われたら抵抗できないんですけど、その辺りわかって言ってるんでしょうか。わかってないんだろうなぁ……。


「良いですか先輩、いつも言ってますけど――」

「俺がユーザーじゃなくなったからか……? もう俺は用済みだから、だから駄目なのか……?」


 俺の言葉を遮って自分勝手に話す先輩は、けれどいつものような自身に満ち溢れた様子じゃなくて、上目遣いで俺を見上げる瞳は僅かに潤んでいるように見えた。


「ちが――」

「いつもは駄目なんて言わないだろ!? なんで今日は駄目なんだよ!?」

「わかりました! わかりましたから落ち着いてください! 俺の家に行きますから」

「……わかればいいんだよ」


 あまりにも弱弱しい先輩の姿に驚き、咄嗟に否定しようとした俺にかぶせて先輩が声を荒げた。

 そもそも普段から俺は勝手に入るなって言ってるのに先輩が無視して上がり込んでるだけです、なんてとても言えるような空気じゃなかった。


 少し落ち着いているように見えたけれど、実際のところ今の先輩は俺以上に不安定になってるみたいだった。無理もない。先輩はいつも自分が最強だって、一番強いって自信満々に公言していた。きっとそれは先輩の精神の根底を支えるほど大切なことだったはずだ。それなのに、唐突にその強さを失った。病気の話を聞いた時は俺だってショックだったし悔しかったけど、先輩は俺なんかの想像が及ばないくらい辛いはずだ。錯乱してしまうのだって、しょうがないことだ。


 本当なら家族の元に送り届けるのが一番良いとは思うけど、本人がそう言うなら仕方ない。







 家に辿り着く頃には、先輩は俺の腕の中で深い眠りに落ちていた。

 張りつめていた糸が切れたんだろう。ただでさえここ数日は病気の恐怖に苛まれて気が休まらなかったはずなのに、今日に至っては眠ってるところを気色の悪い男に襲われたんだ。自惚れじゃなければ俺は先輩に結構信頼して貰えてると思うし、先輩はいつも俺の匂いは何故か落ち着くみたいなことを言っていた。そういうのも相まって、安心して眠ってしまったんだと思う。

 俺は先輩を起こさないようにそっとベッドに身体を横たわらせて、規則正しい寝息をたてているのを確認してからシャワーを浴びる。


 信頼してくれるのは凄く嬉しい。

 だけど、俺だって男だ。先輩にはなるべく見せないようにしてるけど、そういう欲求だって当然ある。

 あんなことがあった直後だって言うのに、先輩はあまりにも無防備すぎる。物理的に頭を冷やさなければ、自分もまた掛井と同じ穴の狢になってしまいそうだった。


「冷たい……」


 無防備に眠るのなんてお前の前くらいだと言われるほどに信頼されて、実際にそれを示されて、嬉しく思うのと同時に自分が嫌になる。

 ついさっき、掛井から先輩を助けた時に我を忘れて怒り狂いそうになったのは、先輩が望まない行為をされそうだったからってこと以上に、俺の先輩に触るなって、そんな醜い独占欲が大半だった。あの豚の怪人の時もそうだった。先輩の無事を案じる自分と、先輩を自分のもののように感じて、それに無遠慮に触れられることに憤る自分がいた。

 ただ片思いしてるだけの後輩でしかないくせに、何様のつもりなんだ。先輩がわがままを言って、俺がしょうがないですね、なんて応じる、そんな心地いい関係性を壊したくなくて、先輩を守れるくらい強くなるまでは、なんて言い訳して自分の気持ちも伝えられない、滑稽で情けない腰抜け。拒絶されることが怖くて、負け犬にすらなれない臆病者。


 今回は襲われてる先輩を助け出すって形だったからまだいい。

 だけど先輩が誰かを好きになって、その人と結ばれるってなった時、今回みたいに相手を殴り倒さない自信がない。きっと先輩は、やめろって言って俺を止めるだろう。今までならそれで終わりだった。暴走した俺を先輩が殴り倒して、軽蔑されて、それでやっと俺は諦められるんだ。でも、もうそうはならない。先輩は俺のことを止められない。俺は嫌がる先輩を無理矢理連れ去って、誰も来ない場所に閉じ込めて、ずっと二人で……。あぁ、最低だ。


 俺は、先輩が思ってくれてるほど良いやつなんかじゃない。

 そんな風になってしまっても良いと、ほんのわずかにでもそう思っている。

 それに、そんな時が来るのを待たなくても良いとすら。


 先輩が病院で始めて目を覚ました日、俺に押し倒されて力負けした先輩の、少しだけ怯えたような表情と、押さえつけた華奢な腕の感触を思い出す。

 そうだ、今なら何をしても、先輩は抵抗出来ないんだ。だから、今のぬるま湯みたいな関係を続ける必要も、いつか来る終わりも待つ必要なんかない。今すぐ無理矢理奪ってしまえば良い。


 鏡に映る自分の顔が不気味に笑っているように見えた。


 ……死ねよ


 血が滲む程強く頭を打ち付けて、何度も何度も俺は自分自身に呪詛を吐く。

 欲求をなくすことは出来ない。そんなのは当たり前のことだ。だけど、それを制御できるのが人間だ。俺は獣じゃない。良くないことを考えてしまっても、それで良いと思ってしまっても、それを抑え込めてる内は先輩の隣にいても良いはずだ。俺は、先輩に誇れる自分でありたい。先輩に嫌われたくない。


「良しっ」


 大丈夫、頭は冷えた。

 さっきまでのは何かの間違いだ。気の迷いだ。

 初志貫徹、俺は先輩を守りたい。その気持ちは今も変わらない。

 先輩にはいつも通り、周りを顧みないで自分勝手で我儘に振舞って、心の底から笑っていて欲しい。


 こんな形になってしまったのは不本意ではあるけど、俺は先輩を守る立場になった。俺の強さが変わったわけじゃないから、どっちかと言えば先輩が守られる立場になったっていうのが正しいのかもしれない。

 まあ、そんなことはどっちでも良くて、とにかくこれからは俺が先輩を守るんだ。先輩が何の不安も感じずに笑って過ごせるように。


 あ、そういえば病院で一生かけて守るなんて言っちゃったけど、今思い返すとプロポーズっぽくないか……? いや、先輩って普段は色恋だの性欲を絡めて揶揄ってくるくせに意図的じゃない時は妙に鈍いから気づいてないかもしれない。

 それならそれで良いか。先輩を守るのは俺がやりたいことだから先輩が負い目を感じることなんて全くないけど、実際に先輩がどう思うかはわからない。いつもの先輩なら、超絶美少女を一生ボディガード出来るとかむしろ感謝しろ、くらいは言いそうなもんだけど、万が一思い詰めた時に本当は嫌なのに見返りとして俺と付き合うとか結婚するとか言わせたくない。

 無理矢理でも良いとか考えてた俺はついさっき死んだんだ。先輩の幸せを一番に考えろよ、俺。


 先輩は俺のことなんて、可愛げのない後輩とか、頼れる相棒、くらいにしか思ってないだろうけど、それでも良いんだ。先輩が幸せなら、俺も幸せだ。

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