ep9 深緑の天使

1.


 先輩と初めて出会ったのは、まだ俺が小学五年生だった頃の話だ。きっとあの時はまだ、先輩は俺のことを認識してなかっただろうから、それを出会いと呼んで良いのかはわからない。だけど、俺にとっては間違いなく、運命の出会いだった。


 あの瞬間のことは今でも鮮明に覚えてる。

 うだるような暑さの日曜日。雲一つない青空の下、父さんと母さんと一緒に近所の公園に行って、キャッチボールをしたり鬼ごっこをして遊んでた。

 父さんは俺がボールを投げたりキャッチしたりするたびに、うまいうまいなんて大袈裟に褒めてくれて、母さんは木陰のベンチに座ってそんな俺たちを笑いながら眺めてた。


 幸せだった。

 そんな日常が当たり前だった。

 当たり前に、無意識下で、そんな日々がいつまでも続くんだと思ってた。


 だけどそれは間違いだった。


 あの頃の俺は、怪人という脅威を知識として知ってはいても、自分がそれに襲われるかもしれないなんて全然考えてなかった。

 学校ではその危険性を教えてくれるし、テレビでは悲惨な怪人被害を報道したりしてるけど、実際に見たことは一度もなかったんだからしかたがない。対岸の火事、あるいは正常性バイアスなんて言うんだろうか。多かれ少なかれきっと誰もがそんな風に考えていて、俺もまた例外ではなく、その日、地面の土をかき分けて現れたもぐらみたいな怪人の姿に、最初はただ固まってしまっていた。あの場にいた誰もがそうだった。たった一人、父さんだけを除いて。


 逃げろ、と父さんは怒鳴りつけるように俺を突き飛ばした。いつも優しくて、俺が悪いことをして叱る時でも声を荒げることなんてないあの父さんが、怖い顔で大声を出した。

 わけがわからなくて、怖くて、泣きそうだった。だけど、俺は男だから。男は簡単に泣いちゃいけないから。怖くても辛くても歯を食いしばって、大切な人を守らなくちゃいけないから。父さんがそう教えてくれたから、俺は母さんの手を引いて逃げようとした。

 でも駄目だった。視線の先で、怪人に立ち向かった父さんが鋭い爪で肌を切り裂かれ、血を流し倒れる姿を見て、母さんは腰が抜けて動けなくなってしまった。


 母さんは言った。あなただけでも逃げなさいと。

 逃げるわけがない。だって、俺が母さんを守らなくちゃいけない。

 そりゃあ子供の俺は母さんよりも弱かった。だけどそんなの関係ないんだ。俺は男だから、女の人を守るんだ。大切な母さんを守るんだ。頭の中はそんな使命感で一杯だった。


 俺は母さんの前に立って、両手を広げて、精いっぱい怪人を睨みつけた。

 そんなことに意味がないことはわかってた。だけど俺も、逃げ遅れた俺たちを嬲るようにゆっくりと近づいてくる怪人が怖くて、立ってるだけで精いっぱいだった。

 母さんを守るなんて息巻いても、足が震えて一歩も動けなかった。


 腕の届く距離まで近づいた怪人が、父さんの血で濡れた真っ赤な凶爪を振り上げ、思わず目をつむる。

 もう駄目だって、ここで死んじゃうんだって、まなじりに溜まった涙が頬を伝った。

 だけど、どれだけ待っても痛みも衝撃もなくて、もしかしたらもう死んでしまったのかもしれないなんて思って、恐る恐る目を開いた視線の先に、誰かの背中があった。


 当時の俺よりは背が高いけど、それでも小さな背中。

 美しい深緑の長髪が風に揺れて、女の子特有の良い香りが鼻をくすぐった。

 呆然としたのはほんの一時で、すぐに危ないと叫ぼうとして、気が付いた。

 怪人が倒れていたのだ。胴体に大穴を開けて絶命していた。


「もう大丈夫だ。よく頑張った」


 おもむろに振り向いて、微笑みを浮かべながら俺の涙を優しく拭った少女は、この世の物とは思えないほど美しかった。

 俺はその時、自分は怪人に殺されてこの美しい天使が迎えに来たんじゃないかと思った。

 もしくは、夢を見ているんだと。目の前の美しい存在が現実のものなのだと信じられなかった。

 

 その天使と見紛うほどに美しく儚げな少女こそが、先輩だった。


 鮮明に覚えているのはここまでで、この後は何があったのか朧げにしか思い出せない。それは時間の経過によるものではなく、そもそも先輩との出会いが強烈過ぎてその後はしばらく放心状態だった。先輩はいつの間にかいなくなってしまったし、俺と母さんは救急車で運ばれる父さんに付き添って病院に行ったり、怪人のことを警察に聞かれたり、とにかく慌ただしかった。

 幸いにも父さんは見た目ほどひどい怪我ではなかったようで、入院することにはなったけど命に別状はなかった。後遺症なんかもなく、今でも元気に働いてる。



2.


 怪人との遭遇は、俺の価値観というか、考え方を大きく変えた。それまで怪人とは天災のようなもので、被害者はいつどこにでもいるけれど自分がその被害にあうことはないと思ってた。だけどそうじゃない。怪人は災害とは違って、明確な悪意と知性を持って人類に牙を剥く敵なのだと知った。そしてそれを知ってしまってからは、今までのように自分には関係ないなんて思えなくなった。

 これは俺だけに限ったことではなく、怪人災害の被害者は個人差こそあれど考え方になんらかの変化があるものらしい。それは、今まで眼中にもなかったユーザーを目指してみたり、護身用にオーラを使えないか習ってみたり、いざというときの避難所や経路を下調べしたり、人によって方向性は様々だ。


 俺の場合は、ユーザーになって怪人を倒したい、大切なものを自分の手で守れるだけの力が欲しいと思った。

 当時の俺が気づいていたかはわからないけど、それは間違いなく先輩の影響だった。意識的か、無意識的か、あるいはその両方か。とにかく当時の俺は、あの天使みたいになりたいと思ったんだ。


 とはいえこの頃の俺はまだ小学生。今みたいにスマホを一人一台持ってて当然みたいな環境でもなかったし、ユーザーになるためにはどうすれば良いのかなんてわからなかった。

 そこで、素直に両親に聞いてみることにした。父さんと母さんの反応は両極端だった。父さんは、やっぱり俺の息子なんだな、なんて言って嬉しそうに笑って、母さんは絶対に反対だって心配そうに困り顔をしてた。


 聞けば、父さんも昔はプロユーザーをやってたのだとか。公安と民間のユーザーの違いなんかを簡単に説明されて、父さんは民間のユーザーでもあまりパッとしない方だったらしい。元々そんなに強い方じゃなかったのに、加齢による衰えによって余計に戦いが厳しくなって、知り合いの伝手を頼って今の職に転職したんだそうだ。だから怪人にも立ち向かえたんだ。

 母さんは、父さんがいつも傷だらけになりながら戦ってるのを知ってたから、ユーザーを引退することになって安心したって言ってた。それなのに、大事な一人息子がユーザーになりたいなんて、この前怪人のせいで死ぬかもしれなかったのに、自分から危ないことに首を突っ込むなんてもう耐えられないと言って、泣き崩れてしまった。


 それでも、俺の意思は曲がらなかった。母さんを泣かせてしまったことは申し訳ないと思うけど、男が一度決めたことは曲げちゃいけない。俺の意思は固かった。


 父さんの協力もあって、時間はかかったけど母さんを説得することは出来た。最悪の場合、母さんに納得してもらえなくても、それで家にいられなくなったとしても、絶対にユーザーになるって覚悟が伝わったみたいで、ほんとうに、お父さんそっくりなんだから、なんて苦笑して許してくれた。

 ただ、あの子が好きになっちゃったんでしょ、なんて先輩のことで揶揄ってくるようにもなったのは誤算だった。電話する時に今でも、どこまで進んだの、なんて聞いた来るのは勘弁してほしい。


 母さんの説得と並行して、俺は父さんからオーラの手ほどきを受け始めた。ユーザーって言うのはオーラを使って超人的な能力を発揮する人間のことで、いくらユーザーになりたいって思ってもオーラが使えなければ話にならない。

 幸いにも、俺にはオーラを扱う才能があった。とくに基本能力と呼ばれる誰でも扱うこと出来る能力の一つ『射撃』に対する適正は凄まじいものだった。自分ではそれが他人と比べてどれくらい優れているのかはわからなかったけど、父さん曰く自分の息子じゃなければ嫉妬してしまうほどらしかった。


 そうして先輩との出会いから二年経過した中学一年生の夏、その頃にはオーラの影響が身体にも現れ、髪の色は白く、瞳の色は赤の、アルビノのような外見に変化していた。父さんと母さんは格好いいと褒めてくれたけど、俺は深緑の天使と同じが良くて少しの間だけふてくされていた。

 まあそれはそれとして、一線級のプロユーザーとも遜色ない実力だと父さんからお墨付きをもらった俺は協会の特別試験を受け、晴れてプロユーザーの仲間入りを果たした。

 

 中学生の内にプロのユーザーになることは俺の目標だった。


 ユーザーとはオーラを使う者の総称で、別にプロかアマかを分けるものではない。だからユーザーになるというだけなら別にプロのライセンスを取得する必要はない。プロユーザーにならなくても、こっそり怪人を狩ることは出来る。事実、出会ったばかりのころの先輩は恐らくそうしていたはずだ。


 ユーザーになることを決意して、学校に通いながら特訓を続ける日々の中で、俺はあの日出会った天使の情報を探していた。あれほどの強さなのだから、プロのユーザーとして活躍してるに違いない。それも、指名手配されてるわけでもない怪人の発生に居合わせたということは、活動地域はこの辺のはずだと思って。


 別に下心や邪な気持ちがあったわけじゃなくて、ただ一言お礼を言いたかったんだ。

 今の先輩ならまだしも、あの頃の俺は先輩のことを本当に天使のように人間離れした存在だと勘違いしていて、愛だの恋だのそんな気持ちを抱くような対象と認識してなかった。


 協会所属のユーザーは一応名前が公示されていて、HPや協会の公示物をまとめた掲示板なんかで確認できる。だけど俺はあの天使の名前を知らないから、自分の住んでる地域を管轄する協会に通い詰めて人の出入りを見張ったり、職員やユーザーに話しかけて情報を探った。

 ユーザーの髪色や瞳の色はオーラの影響で後天的に変色するから、緑髪に緑の瞳という配色は珍しいというほどではないけど、それが年端もいかない少女となれば話は別だ。そもそも女性のユーザーは少ないし、それが18歳未満のいわゆる飛び級ユーザーであればなおさら。

 情報はすぐに集まると思っていたけれど、そううまくはいかなかった。名前はおろか目撃情報すらなくて途方に暮れた。


 ただ、そうやって協会に通った時間が全くの無駄だったかって言ったらそんなことはない。

 天使の情報収集がてらユーザーからオーラを使うコツや戦いの心構えを聞いたり、協会職員からユーザーやオーラの小話を聞くのは楽しかったし、勉強にもなった。俺みたいな子供が毎日協会に通って熱心に話を聞いているのが珍しかったのか、子供好きの職員やユーザーには随分と気に入られたりもした。そんな人たちが他所の協会の話も簡単にだけど聞いてくれて、それでも先輩の情報は集まらなかった。


 転機が訪れたのは、小学六年生の夏。あの事件からちょうど一年程度が経った頃のことだった。

 協会にあの天使の情報がないというのはとっくにわかっていたけれど、新しく出来た年の離れた友人とお喋りするのは楽しくて、協会通いはやめてなかった。

 そしてその日、馴染みの職員から見せられた一枚の顔写真。別の支部の資料で、本当は外部には出せないけど特別だよ、なんて口元に人差し指をあてながら見せてくれたそれに映っていたのは、紛れもない、あの深緑の天使だった。


 日本でたった数人しかいない、18歳未満でありながら厳しい条件をクリアしてプロユーザーのライセンスを勝ち取った、飛び級ユーザー。その名も――


「大空、きららさん……」


 自分では気づいていなかったけれど、後から職員さんが言うには、俺は先輩の名前を噛み締めるように呟いていたらしい。そのことで随分揶揄われたのも今となっては良い思い出だ。


 とにかく、探していた天使はプロのユーザーになっていた。

 であれば、きららさんに追いつきたい、きららさんのようになりたいと思った俺が、18歳になるまで指をくわえて待っていることなんて出来やしない。


 協会職員を経由したり、徐々に普及し始めたインターネットを活用して天使の動向を追いながら更に一年猛特訓を続け、前述の通り俺は飛び級ユーザーの仲間入りを果たした。



3.


 もしもプロのユーザーになれたら一人暮らしをさせて欲しい。


 それは、きららさんの活動地域が判明してから再三にわたって両親に要求していたことだった。

 一端のプロユーザーとしての収入ならば、田舎の1Kアパートを借りるくらいなら何とかなるため、金銭的な負担をかけることはない。だから後は、賃貸契約にあたって両親の許可を得られるかというただその一点だけが問題だった。


 反対するとしたら母さんかな、なんて思っていたんだけど、意外にも母さんは乗り気で、むしろ渋い顔をしていたのは父さんの方だった。

 どうやら父さんは、俺ときららさんが男女の仲になって勢いのまま行くところまで行ってしまったらどうしようと心配していたらしい。一人暮らしとなると遠慮もなくなるだろうし、と。相手のご両親になんて言えば良いのかなんて言い始める始末だった。

 そもそもそんな目的ではないということを力説し、母さんからの援護射撃もあって、プロユーザーのライセンスを取得した日にとうとう父さんの許可がおりた。

 まあ、母さんはむしろ俺ときららさんが行くところまで行くことを期待してたみたいだったけど、本当に俺はそんな目的じゃなかった。ただ憧れの人の近くで戦いたかった。あわよくば、俺の戦いぶりを一目見て欲しいと思ってたんだ。


 そうして迎えた中学一年生の秋、夏休み明けの新学期から一人暮らしを始めた。

 学業に、家事に、特訓に、怪人討伐と慌ただしい日々が続いた。

 青田買いのつもりか、飛び級ユーザーということでチームへの勧誘は多くあったけどその全てを断った。深緑の天使がソロで活動しているのだから、それに追いつこうとするなら自分もソロで活動するべきだと思った。


 そしてある時、怪人討伐を終えて協会へ報告に向かった日のこと、俺はとうとうきららさんと再会した。

 あの日と変わらない、なんてことはない。あの日よりも身長は少し伸びて、体つきも女性らしくなっていて、さらに美しさが増していた。だけど見間違えるはずがない。美しい深緑の長髪と輝くエメラルドグリーンの瞳。勝気な雰囲気は儚くも優し気だった笑顔とは重ならないが、間違いなくあの天使、大空きららさんだった。


 俺は緊張で何度も噛みながらきららさんにお礼を言った。昔、あなたに助けてもらったことがありますと。本当にありがとうございましたと。きららさんはそのお礼を受け取って、優しくどういたしましてと答えて去ってしまった。きっと、これまでにも似たようなことはあったんだと思う。俺はきららさんに助けられた大勢の人たちの一人に過ぎない。

 今はまだ、それで良いと思った。きっとプロユーザーとしてすら認識されなかったことだろう。だけどそれでいい。あなたみたいになりたくてユーザーになりましたなんて、何の実績もないまま伝えたって滑稽だ。

 もっと強く、きららさんを目指してユーザーになったという言葉が、きららさんの名前に泥を塗らないくらい強くなるまでは、俺はその他大勢の一人で良い。


 ――なんて、思っていたのに。


 一人暮らしを始めてから、もう少ししたら一年が経つという中学二年生の夏。

 ソロでの活動にも慣れ、危なげなく銀等級の怪人を倒したところを、何の偶然かきららさんが目撃していて、しかもきららさんの方から話しかけてくれた。

 きららさんは以前に俺がお礼をしたことがあるのを覚えてなかったみたいで、初対面だからと自己紹介を始めた。その他大勢の一人で良いとは考えてたけど、実際全く覚えてないってことを突き付けられると思いのほかショックだった。

 ただ、お互いに自己紹介をした後のきららさんの言葉が衝撃的過ぎて、ショックだとかなんかなんて全てどうでもよくなった。


「良かったら、俺とチーム組まねぇ?」


 雰囲気が違うとか、口調がなんか変だとか、相変わらず美しいとか、現世に舞い降りた天使とか、きららさんと話しながら思ってたことはたくさん、ほんとうにたくさんあったのに、その全てが綺麗さっぱり消し飛んだ。頭の中は真っ白で、数秒間フリーズしてしまいまるできららさんを無視しているような形になってしまった。


 だってしかたないじゃないか。きららさんはこれまでずっとソロで戦ってた人で、偶発的に他のチームと一時共闘することはあっても、正式なチームを組んだことなんてなかったんだ。それには当然何か理由があるはずで、俺はきららさんみたいに強くなりたいとは思ってたけど、きららさんとチームが組みたいだなんて恐れ多いことは考えたこともなかった。

 あまりにも混乱しすぎて、それと無視したと思われたくなくて、自分が如何にきららさんを尊敬しているかを捲し立て、最後には自分はまだまだきららさんに相応しくないと断っている感じになってしまった。

 あの時は内心とんでもなく後悔したものだ。折角きららさんが直々に誘ってくれたというのに、断ってしまった。

 だけどきららさんは、昔の儚げな雰囲気からは考えられないほど強引に話を進めて、最終的にはチームを組むことになっていた。有無を言わせない感じがあったていうか、とんでもなく押しが強かった。きららさんの新しい一面を知って、この時の俺は呑気にもそんなところも素敵だ、なんて考えてたっけ。


 これから一緒に戦うんだからってことで連絡先を教えて貰った時は、家に帰ってから小躍りして喜んだものだ。



4.


 それからの日々は、幸福の絶頂だった。

 先輩と一緒に戦って、先輩と一緒に作戦を考えて、先輩が家に遊びに来たり、先輩とどこかに遊びに行ったり。毎日がバラ色だった。

 ずっと探していた、ずっと追いかけていた憧れの人と一緒に居られるだけでも幸せだっていうのに、どうにも先輩は距離感が近くて、いつもドギマギさせられる。

 それに先輩が遊びに行ったり俺の家に遊びに来てやることは、まるで男友達とやることみたいで、当時の俺は先輩が俺に気を遣って合わせてくれているんだと思ってた。先輩はなんて後輩思いで優しいんだろうと本気で思ってた。今にして思えば、単に先輩の趣味が俺と近かったってだけのことだってわかるけど。


 とにかく、初めの内は先輩も今と比べて傍若無人さが控えめで、男友達みたいだけど可愛すぎる憧れの女の子って感じだったんだ。

 そりゃあ、自分を俺って言ってたり男口調で喋るのは変だなとは思ってたけど、それで尊敬の念がなくなることはなかった。


 ただ、当然の話だけれど、他人と関わるうえで自分の全てを最初からさらけ出すような人はいない。徐々に仲良くなって、気安く、気の置けない仲になっていくことで見えてくることもある。

 チームを組んで半年ほど経ったころからだろうか。別にある日を境に豹変したとかそんなことはないけど、先輩は徐々に傲慢さというか、横暴さを隠さないようになり始めた。

 遠慮なくわがままを言うし、逆らえば罵倒がとんでくる。俺を誘惑するような行動も、最初の内こそ軽めのボディタッチだけで、大胆に肌が見えたりするのは露骨にではなく偶然を装ってやっていた。ただ、徐々に遠慮がなくなって、真っ赤になって慌てる俺を気遣うでもなく指を指して笑い始めたあたりから、何かが違うと気づき始めた。


 疑い出せば切りがなく、先輩には良いところももちろんあるがそれ以上に駄目人間なところが次々と目についた。わがままで自分勝手で、人を揶揄って遊んで、そのくせ自分の非は認めない。

 別に悪人だとは言わないけど、俺が憧れてた深緑の天使という存在は自分の妄想が作り出した虚像だったんだって思い知った。あの日俺を助けてくれたのはこの意地が悪く無防備で傲慢な後輩思いの先輩で、聖人みたいな非の打ちどころのない天使なんかじゃなかったんだと。


 だからって、別に先輩を尊敬する気持ちや好意がなくなったわけじゃない。目立ちたいなんて言ってるくせに人を助けるために地道な活動を厭わない人だ。


 先輩が持っている固有能力、『正史知識』。それは本来この日本で起きるはずだった事象の一部を知ることが出来るものなんだとか。先輩はそれを使って、凶悪な怪人が成長しきって被害を出す前に倒して回っている。大きな被害を出すはずだった多くの怪人を倒したことで、すでに先輩の知ることが出来る『正史』とは大きく歴史が変わってるみたいで、ほとんど固有能力は機能しなくなってるらしい。あくまでも先輩の能力は『正史』を知るもので、未来を知るものじゃないってことだ。

 そんな能力があればもっと私利私欲のために使うことも出来ただろうに、なのに先輩は歴史が変わってその能力が使えなくなることも承知で怪人を倒すことを優先したんだ。


 駄目人間であっても根は善良で、ちょっと性格がひん曲がってるだけ。嫌いになんてなれるわけない。


 それに、何だかんだ言っても先輩と一緒に居ると退屈しない。こんなこと先輩に言ったら調子に乗るから絶対に言わないけど、先輩に我儘を言われるのは嫌いじゃないし、男を誘惑するような悪戯も気を許した相手でなければそこまで度を越えたこともしない。それは逆に言えば俺のことを信じてるんだってことで、口では注意をしてるけど嬉しいと思う気持ちがないわけじゃない。


 俺は、先輩のことが一人の女性として好きだ。


 最初は、本当に感謝と尊敬だった。そこに恋愛感情はなくて、純粋な気持ちで憧れてた。それは先輩とチームを組み始めてからも同じで、先輩にボディタッチされたりちょっとしたハプニングがあっても嬉しいと思うより恐れ多いって気持ちの方が強かった。

 だけど、先輩が完全無欠の慈悲深い聖人じゃないことを知って、どこにでもいる一人の女の子なんだってことを知って、自分と同じ一人の人間なんだってわかって、一緒に過ごしてるうちにいつのまにか好きになってた。

 聖人だからじゃない。天使だからじゃない。大空きららだから、好きになった。


 先輩みたいになりたいっていうのが、ずっと俺の目標だった。

 だけど彼女を好きだという気持ちに気が付いてからは、守りたいって気持ちの方が大きくなっていた。

 我儘で、傲慢で、自分勝手な、優しい彼女を。



5.


 先輩は強い。守りたいだなんて思うことがおこがましいと言われても仕方ないほどに。俺だって一般的なユーザーの頂点に位置する純金等級並みの強さではあるけど、先輩のそれは格が違う。

 特別なユーザーにのみ与えられるダイヤモンドクラスの称号。先輩もこの前のカブトムシの一件で近々ダイヤモンドクラスになるかもしれないなんて言ってたけれど、ハッキリ言って先輩の強さはそれすら超えている。先輩の為にもう一つ上の位階を作っても過剰ではないくらい、その他のユーザーと隔絶した強さを持っている。

 別に先輩と他のダイヤモンドクラスが戦ったことがあるってわけじゃないけど、見てればわかる。先輩の速さに追いつけるユーザーは絶対にいない。その時点で勝ち目はほとんどないのに、先輩は『強化』と『硬化』の扱いもトップクラスの技量だ。殲滅戦に向かないという欠点はあっても、タイマンで戦って先輩が負ける姿なんて想像も出来ない。


 だから遠目に見える光景が信じられなかった。

 衣服を引き裂かれ、ところどころ下着を露出した状態で、先輩が宙づりにされている。

 豚のような怪人に綺麗な喉を掴まれて、力なく手足が垂れ下がっている。

 豚の怪人が自身のまたぐらに手を突っ込んだ。何をするつもりなのか、考えたくもない。

 一瞬、頭が真っ白になって、自分が何をしているのか、何を見せられているのかわからなくなり、一転して真っ赤に染まる。


「その人に触るなああぁぁっ!!」

「ぶひっ――」


 オーラをまき散らしながら大地を揺らすような怒号をあげて、目にもとまらぬ速さでオーラの砲弾をいくつも撃ちだした。

 普段は感情に任せて突っ走るのは先輩の役目で、俺は身を隠して冷静に援護するか、もしくは雑魚散らしをするのが役目だけど、この時ばかりは怒りを理性で抑えることが出来なかった。


 弾丸の如きスピードで撃ちだされた砲弾は豚怪人の反応を許さず身体をあっと言う間に穴だらけにして息の根を止めた。それでも俺は、投げ出された先輩の元へ駆け寄りながら豚の怪人が跡形もなくなるまで射撃をやめなかった。


「先輩! 先輩!? 大丈夫ですか!? 先輩!!」


 意識を失ったまま地面に横たわる先輩に駆け寄り、先輩の首を掴んだままの太く汚らわしい豚腕を力づくで引きはがし砲弾で塵に変える。間違っても誤射しないようにしたせいで腕だけが残ってしまっていたのだが、これでようやく俺の先輩に勝手に触れたゴミを消しつくすことが出来た。


 声をかけながら先輩を観察してみると、擦り傷や多少の出血はあれど一見して致命的なダメージはないように見える。掴まれていた首と露出した下腹あたりに奇妙な紋様が見えるけど、怪人の能力か何かだろうか。元凶の怪人を倒したのだから致命的な影響はないと思いたい。

 それから、首を絞められて意識を失った影響か、下が少し恥ずかしいことになってはいるけど、最悪の汚され方はされてない。不幸中の幸いだった。俺は、間に合った……。


 本来なら公安を呼んで後処理や事情聴取を受けるところだけど、そんなことをしてる暇はない。先輩が本当に何ともないのかは素人判断だけじゃわからない。とくに怪人の能力がわからない以上、時間をかけた結果手遅れになるって可能性もないわけじゃない。

 俺は先輩を担ぎ上げて、協会と提携している大きな大学病院へ向かって駆け出した。プロユーザーなら多少の融通が利く病院だ。場合によっては先輩がダイヤモンドクラスにほぼ内定してることも知ってるかもしれない。それなら何よりも優先して診てくれるはず。

 服が汚れることなんて少しも気にならなかった。先輩もそんなことを気にするようなタイプじゃないはずだ。……、この前の風呂上りの件を考えると、全く気にしないってわけでもないかな? 下の方の話は黙ってた方が良いかもしれない。


 それにしても……、どうして先輩は負けた?

 あの程度の怪人、先輩の敵じゃないはずだ。

 仮にもし先輩が遊んでいたとしても、あんな風に捕まるなんてありえない。

 先輩の身に、何か異常が起きている?


 確かに、前兆はあった。

 最近の先輩は、俺でも難なく倒せるような怪人に手こずることが時折あった。

 先輩のことだから、特訓の為に自分に縛りを課して戦ってるのかと思って、あんまり油断してると足を掬われますよ、なんて忠告もしたけど、本心では先輩が負けるかもなんて欠片も思ってなかった。

 いつも通りさくっと怪人を倒すこともあったし、気まぐれか何かなのだと思ってた。


 だけど、もしかしたら……。

 先輩にとって、何か致命的なことが起きているのかもしれない。


 俺は先輩を無事に助けられたことや、先輩を守れたことに僅かな達成感、満足感を抱いたけれど、それ以上に大きな、何か良くないことが起きているような不安が胸の中で渦巻いていた。

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