第23話 求める価値観 


 ナターシャの一件から4か月。ニールセン家の栄光にも翳りが見え始めていた。

 ローレンツは稼業の貿易と営業を任されたが、その評判がすこぶる悪いのだ。


 商人の足元を見るだけでなく、顧客にも仲介の見返りを過剰に求める。そうこうしているうちにどんどん客や商人が離れていく。

 痺れを切らした当主に何か1つ成果を出せと言われ、ローレンツは港を訪れていた。


「ホテルニールセンには金持ちが押し寄せる。必死に呼び込むなんざ三流のボロ宿のする事」


「ボロくない! 綺麗にしたし、スラムじゃなくなったもん」


「はっ、スラムにホテル? はっはっは! 泥棒だって泊まらないさ!」


「わざわざ嫌味を言いに来るなんて暇だねおっさん」


「なっ……」


 ローレンツに絡まれたせいで、客船から降りてくる客へのアピールは満足に出来ていない。ハンスが溜息と共に皮肉を言い、イングスは思いを素直に伝えた。


「私達のホテルが余程気になるようですが、邪魔です。私達はあなたに大変申し訳ございます」


「申し……? だ、誰が気になどするか! き、貴様少しばかり怪力だからと調子に……」


 押し売りや呼び込みの波を掻き分ける客達は、もう目の前まで来ている。このままではローレンツが邪魔で呼び込みが出来ない。


「ちょっと相手任せるね」


 食べ物を売るナターシャが落ち着いて微笑み、ペコリと頭を下げたかと思うと、オペラ歌手顔負けの大声が響き渡った。


「ホテルリャノ・ヴィークへようこそ! ここにいるホテルニールセンの創業家の御曹司にも注目されているホテルが本日開業です! 1泊100ユクで朝夜食事付き!」


 それにヨハンが慌てて続ける。


「う、海を眺める優雅なお風呂! 部屋数には限りがありますよ! ゆったりとお過ごしいただけます!」


 2人の大声にトンビが驚き空へと逃げる。喧騒の中でも2人の声は良く響いた。


「1泊でも、1名様でも歓迎です! ホテルまでは人力車でお連れしまーす! ホテルまで小腹を満たすソーセージはいかがですかー!」


「いかがですかー!」


 客を無理に引っ張らない。がめつく金を狙う素振りを見せれば嫌がられる。教養のないナターシャ達にメルが教えた行儀の1つだ。


 庶民のメルは、港の光景をよく見ていた。それに、屋敷を訪れる金持ちが口々に「港を抜けるのが大変だ」「あれでは物乞いと変わらない」と愚痴を零していた事も知っていた。


 もう宿は決まっている、迎えが来ている、そう言って呼び込みを振り切るのがどこの港でも当たり前だという。


 それらの喧騒を離れ、目的のホテルを目指す。もしくはさてどこに泊まろうかと落ち着いて考える。後者を狙うのがイングス達の作戦だ。


「失礼、今日から営業なのかい?」


「はい! 初めてのお客様になって頂けるなら嬉しいです!」


「そ、そう言われちゃうとなあ」


 額の汗を拭いながら人の波から逃れてきたのは、黒いスーツにステッキを持った初老の紳士と、白い日傘を差した上品で小柄な夫人だった。

 その後ろにはやや年下の荷物持ちがおり、スーツケースを2つ押している。


「まあ、初めてのお客だなんて、滅多にない事じゃない? 面白そう」


「しかし1泊100ユクの安宿では、警備に不安がありそうだ」


 警備に不安がある。そう言われると「旧スラム」のホテルは何も言えない。確かに金持ちは高級志向なだけでなく、安心や安全にも金を使う。


 戸惑いを見透かしたローレンツは、ここぞとばかりにニヤケ顔を浮かべ、夫婦に話を始めた。


「その通り、そいつらのホテルはスラム街に建っているんだ。そんな治安の悪い粗末な小屋に泊まるなんて恥ですよ恥! ホテルニールセンなら最高の部屋、最高のディナー、最高の警備! 満足の滞在をお約束しますよ」


「ホテルニールセン、3つ星の有名なホテルだな。あなたは」


「え? この俺をご存じない? はっ、ニールセン家の長男、次期当主のローレンツをご存じない? はっはっは、そんな庶民が泊まれるホテルではないが、まあ特別に許可してやってもいい……」


 ローレンツの物言いに夫婦が顔を顰めた。

 スラムの安宿と超高級ホテル。本来なら比べる必要もないはずだが、夫婦は侮辱だと感じ、ホテルニールセンにもローレンツにも嫌悪感を隠さない。


「ごめんください、お客様。警備については私にお任せ下さい。どんな悪人でも、私に敵わない事を知っていますので」


「えっ……えっ!?」


「な、何を」


 イングスは巨漢のローレンツを軽々と抱え上げ、数十メルテ先の喧騒の中へと置いて戻ってくる。


「おい! 貴様許さないぞ!」


「なんてこと、屋敷のボディガードでもあんな力はないわ」


「イングス兄ちゃん……えへん、イングスはとても強く信頼できます。それにスラムだったのは昔の話です。どうでしょう、宿を見てから決めても結構です」


「泊まれないと感じましたら、ちゃんとここまで連れて戻ります。どうでしょう」


「あなた、行ってから決めてもいいんじゃない?」


「……そうだな、あのニールセン家の次期当主とやらは不快だ。それに高級ホテルに泊まっても料理がどうだ、調度品がどうだと自慢を挟まれ気が休まらない」


「では! イングスにい……イングス、ハンス、お願いね!」


「ご夫婦は俺の……僕の車に乗って下さい! お連れの方はイングスさんの車に!」


 初めてのお客を乗せた人力車がホテルを目指して出発する。金持ちにとって、貧乏なホテルが珍しいだけだったのかもしれない。

 だが、リャノ・ヴィークの皆は誰であっても全力でもてなそうと決めていた。





 * * * * * * * * *





「珍しいわね、装飾が少ないし」


「ああ、建物の中は余計なものがなく、殺風景にも思うが……この大きな窓から見える海は素晴らしい」


 あえてコンクリートむき出しのままにした壁、扉や所々の床や壁に貼られた真新しい木板の香り。必要な所に必要なだけ設けられた設備。


 ホテルリャノ・ヴィークは決して粗末でも手抜きでもボロボロでもない。余計なものを一切排除し、必要なものにはしっかりと手間と金をかけた部屋に、共有の広いラウンジ。


 高価なもので飾る事こそ贅沢だと思っていた夫婦には、とても新鮮な空間だった。


「ねえ、とても興味深いじゃない。泊まりましょうよ、海も素敵」


「ったく、お前は先ほどの車の怪力男に惚れただけだろう」


「確かにいい男だけど、私はあなたについて行くと決めたの。義理堅くない女に価値を見出すあなたじゃないでしょう」


「ハア、仕方ない。試しに泊まる事にしよう、こう見えて私は妻に弱いんだ」


 夫婦の決断に、皆が歓声を上げる。初めての客が決まり、総支配人を名乗るケヴィンが宿泊名簿を持って現れた。


「そちらのラウンジでゆっくりと書いていただいて結構です。おふたり様で1室、おひとり様で1室、合計300ユクを頂戴いたします」


「こちらウェルカムドリンクです。ぶどうで作ったジュースをどうぞ」


「えっ」


「ぶどうの……」


 夫婦が驚いて顔を見合わせる。メルが差し出したぶどうのジュースがいけなかったのか、一瞬沈黙が訪れた。


「3人で2部屋で、300ユク? どういう事?」


「えっ……3名様なので、おひとり100ユクを……。もしかして1部屋100ユクとお伝えしておりましたか」


 金額の案内を間違えたのか。この歓迎ムードの中、騙されたと言って帰られたら落胆どころの話ではない。


 そんなケヴィン達の心配は杞憂に終わった。


「まあ、使用人が1人で1室使っても100ユクなの?」


「は、はい……それが何か。ご夫婦でそれぞれ1室の方が宜しければ……」


 夫婦は顔を見合わせ、そしてたまらず笑いだした。


「なんて良心的なの! あなた、昔を思い出すわね」


「ああ、金がなかった若い頃、それでも見栄を張りたかったあの頃。どうやって金を使わず旅行できるか考えていた、あの慎ましくも幸せな頃を思い出すな」


「300ユクね、是非支払わせてちょうだい。ああ、久しぶりに贅沢な気分で過ごせそうよ」

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