第22話 旧スラム街への転身
* * * * * * * * *
「なんだよ、お前またあの貧乏地区に行ってたのか」
「今あの場所、すっごく綺麗になって来てるのよ。あんた知らないの?」
「治安も悪いんだからよ、この辺のガキが肝試しに行くような場所に、女が1人で行くんじゃねえよ」
「うるさいわね、今はそんな事ないのよ!」
「……なんだよ、俺の腹がどうかしたのか」
「あんたもあの鍛え上げられたいい男達の体を見習いなさいよ。ズボンからはみ出て乗っかったその贅肉、みっともない」
イングスがスラムを訪れてから2か月が経った。
その間、イングスやケヴィン、その他やる気のある大人や若者総動員で金策に走り、廃墟の解体が始まった。
イングスとケヴィンが漁船に乗って金を稼ぎ、大人は荒れ果てた畑を耕し直す。子供は綺麗なレンガを拾い集め、傷んでいない建物の片づけと掃除。
まともに生きられるのならまともに生きたい。そう思う者は案外多かった。
元々は建設作業員だった者、養豚場を営んでいた者、スラムの大人の前身はそれぞれスラムの立て直しに大いに役立っている。
「戦争さえなかったら……住む場所も家族も失い、毎日そう思っていたよ。リャノに着いた頃には、もう自分のために頑張るなんて気力はなかった」
「失意ってもんは、浸ると心地よくて抜け出せないのさ。自分に言い訳をするための言葉がどんどん湧いてくる、枯れる事のない沼なんだよ」
「イングス、あんたの言葉を聞いて正直戸惑った。俺達の部族は神による裁きと称して焼き討ちに遭った。あの時の悔しさを、皆の無念を、俺はいつの間にか諦めていた」
自堕落でスラムに流れ着いた者はごく少数。
宗教戦争に巻き込まれ、負けた者は絶対服従の奴隷か死が待っている。そんな土地から命からがら逃げてきた者も少なくなかった。
もちろん、協力しない者もいた。出来ない者もいた。
その者達にも居住区を用意し、食料が余れば炊き出しをする。
あくまでもケヴィン達の地区で盗みやクスリの売人などをしない事が条件だ。
「誰かのために生きる事、あたしには無理だと思ってた。裁縫なんて誰でも出来る、特技でも何でもないと思っていたのに」
仕事をした事がない女も、裁縫や料理や掃除の腕に希望を見出した。
特別な事は出来ない。そんなスラムにいる大人と子供で出来る事は何か。皆が考え始めていた。
「イングスさん、俺達が神に頼らずともやっていける姿を見せる。それが神からの脱却を広めるきっかけになる。それでどうだ」
「十分です。神など不要だと言いまわるよりも、神を信じなくてもまっとうに生きていける、それを示す事が重要ですから」
白いタンクトップを着たガタイの良い男がニカッと笑う。
稼いだ金で食料や衣服を揃えつつ、朽ちた建物を取り壊すための鉄球分銅を借りて、出たコンクリートガラを埋め立てに、鉄くずはスクラップ屋に。
どれも割の良い仕事とはお世辞にも言えなかった。それでも貯えなど無に等しかったスラムに、地区の貯金が出来たのは画期的だった。
その金の管理はイングスが行っている。誰もイングスの怪力に敵わない事を理解しているからだ。誰も強盗に入る度胸などない。
「ちょっと、聞いてるの?」
「聞いてるよ、贅肉がなんだ」
「美男子が何人かいるのよ。市場に魚を売りに来るんだけど、魚よりその男の子達目的で大勢集まってて。売値も安いし勢いがあるの」
「ちょっと前までスラムは汚いだの、みんな不潔だの言ってたくせによ、手の平返したように」
筋トレ計画の成果が出るのはもう少し後になるとして、瘦せ過ぎていた者もある程度体重が増え、健康的な体つきの者が増えた。
元々力仕事ばかりしていた者は、筋肉も綺麗に付く。暑いからと薄着で作業する者達の姿が、今は庶民の女の密かなブームになっていた。
娯楽の少ない町だが、最近どうにも活気が出ている様子。
「怠けてると、あっという間にあの子達に仕事とられるんだから。頑張って稼いで、ほらっ」
「チッ、分かったよ」
妻になじられた男が渋々外に出かける。
「……あのスラムが、ねえ」
* * * * * * * * *
「ねえイングス兄ちゃん、どう? 美味い?」
「私は良いと思いますが、人にとって良い味なのかは分かりません」
「ん~っ! ナターシャ姉ちゃーん!」
「あーもう、もうすぐ開店なんだから忙しい……あんた煮干し入れ忘れてる」
「あっ、入れ忘れた、すぐ入れる!」
庶民街に比較的近い区画に、3階建ての綺麗な建物がある。
スラム街で一番海に近い建物であり、数年前から空き家となって以降、誰も寄り付かなかった場所だ。
外壁は杉の木のような飴色に塗られ、割れ散らかった窓ガラスは全てピカピカに。
建物には電気が通り、やや薄暗いながら上品だ。
厨房にも調理器具、調理台が並んでいて、良い匂いが流れてくる。
海を眺めながら入れる大きな風呂には、ちょうど湯を張り終わった所だ。
ホテルリャノ・ヴィーク。
大衆食堂を併設させた、お洒落で安いホテル。スラムの住民に定職を、そして庶民街との垣根をなくす。その第一歩となる。
「4か月もかけて準備したんだ。鶏も買った、畑の作物も収穫できた。料理の腕は上がったし、建物の中も申し分ない。いいか、高級ホテルにも安いホテルにも負けるな!」
「はーい」
「はーいじゃ気合入んないだろうが……」
「メルさん、部屋も大丈夫ですよね」
「ええ、この程度の部屋数なら私1人でもなんとか」
白いドレスシャツに黒いワンピース、白いエプロン。
給仕係の制服を着ているのは、かつて「ぶたくん」がいる富豪の家に仕えていた女だった。
ナターシャの一件の後、メルは屋敷の仕事を辞めた。しかし富豪というのは金以外に、特に心には余裕がないらしい。
あの屋敷の当主は、メルが他の屋敷で働けないように手を回し、庶民にも睨みを利かせた。
そうして再就職先が決まらない中、メルはケヴィン達の客室係募集の張り紙を見つけたのだ。
「メルさんは金持ちが満足できるような掃除洗濯を長年やってきてんだ。絶対大丈夫さ」
「さあ皆さん、お客様をお迎えするための挨拶の確認です! いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ!」
「丁寧にいきましょうね」
大人も子供もメルの指導を1か月みっちりと受け、所作はバッチリ。スラム街にある事以外、何も問題はない。
「イングスさん、ナターシャ、ハンス、ヨハン、集客お願いな!」
「承知しました」
イングス達年長組は、月に数回寄港する客船の到着に合わせ、呼び込みに行く。
ナターシャとヨハンはソーセージやパン、揚げ物を売り、イングスとハンスは馬車の客車を改造した人力車でホテルまで連れて行く係だ。
ただ、港に来ているのはイングス達だけではない。他にも土産売りや呼び込みが押し寄せており、イングス達は出遅れていた。
「イングスさん、どうしよう……」
「目立てばいいのでしょう? 押し掛けず、船から降りる方の視界に入る場所に立てば……」
「ほう、これはこれは。スラムの貧民共がそんな恰好をして」
「あっ……」
イングス達が港の入り口にいると、1台の馬車が止まった。その小窓から顔をのぞかせたのは……。
「ぶたくんの方ですね、お久しぶりです」
「その呼び方を止めろ! ニールセン家のローレンツと聞いて頭を下げない貴様らが下賤な事は分かっているけどな。……ホテルリャノ・ヴィーク? フン、ホテルの呼び込みの仕事でも貰ったのか。ホテルの程度が痴れる」
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