第16話 スラムの現実

 


 自らに使う金も惜しんで、釣った魚を自分で食べるつもりもない。日当をポケットに入れても、港の片隅で魚を焼いて食べても、バレる事はないというのに。


 それでも私欲に走らず、子供達をまっとうに育てようとしている。イングスはケヴィンの事を信用に足る人物だと確信した。


「でも、俺はこうやってあのスラムの外に出て色んな事が出来る。俺は恵まれている方だから」


「恵まれているとは思いません」


「……あ?」


 不意にイングスが口にした言葉に、ケヴィンの表情が強張った。2日間でイングスが冗談やお世辞を言えない人間だとは気づいていた。だからこそ言葉がそのままの意味だと分かってしまうのだ。


「どういうことだ、何が言いたい」


「親を亡くし、ならず者を掻き分け、多くの子供達を育てながら必死に稼いでいるのですから、恵む側であっても恵まれる方ではありません」


「あ、あー……そういう意味か。ちょっと勘違いした。そりゃそうでも、俺はあいつらより幸せ……」


「幼い孤児と比べなければ、幸福と言えないのですか」


 図星だった。


 ケヴィンは自分を幸せだ、恵まれているなどと思った事はない。

 アイツらよりは可哀想じゃない、そう考えるようにしていただけだ。


「あんたに何が分かるんだよ。……ああそうだよ、俺は別に幸せでもねえさ。だけど少しでも前向きに考えねえと、やってられるわけねえだろ」


 ケヴィンは虚勢を見透かされ、怒りで誤魔化す事しかできなかった。


 容姿に文句はなく、島でのんびりと育ち、定職に就かずとも旅と称して無責任に興味の趣くまま何でも出来る。

 そんな他所者がわざわざスラムに赴き、惨めな身分の男に掛ける言葉がそれでは、素直に受け取るのも難しい。


 イングスは察する努力は出来ても、人の感情を臨機応変に察する共感力はない。

 それはケヴィンへの刃ともなりうる。イングスの悪意なき言葉は続けられた。


「攻めるべきはあなたをこの境遇に置いた者では。神の慈悲、神の加護だと満面の笑みで布教する者達の怠慢ではありませんか」


「……お前、何なんだよ。何でもお見通しかよ、不幸すら否定されたら俺達はどうしろってんだ」


「その話のため、家に戻りましょう。私の事をお話しますから、どうするかはその後で」






 * * * * * * * * *





 イングスとケヴィンが食材を買って事務所に帰った後、魚などは料理担当の子供達に任せた。


 イングスは1時間程で自身の事、島での出来事、自身の目的などを明かした。ケヴィンは信じきれないと言いつつも、最初から違和感はあったと明かす。


「傀儡人形、ねえ。信じろって言われても難しいけど、あんたには確かに人間らしさがねえとは思ってた」


「人間らしさは習得中です。ただ父には人臭くなれと言われましたが、人間を臭いと感じた事がありません」


「あー……その言葉を文字通りに受け止めちまうのも、言葉を詰め込まれただけで、使いこなしていねえからか」


「そうなのでしょうか。私には分かりませんが」


 ケヴィンはイングスが現れた事に、ワクワクしていた。日銭を稼ぐのに必死な生活の中に現れた、非日常的な存在。イングスは日曜の朝、神を信じていない者を前に何を話すのか。


 見た目には筋骨隆々ではないのに、巨漢を軽々と背負い階段を降りる。漁船でも漁師が諦めるような魚を淡々と釣り続けた。

 傀儡かどうかの真偽はさておき、規格外の人物である事には違いない。


「……あんた、俺達の敵じゃねえんだよな」


「はい。私は敵デナシが欲しいのです」


「敵デ……味方っつうんだよ」


「味方ですね、学習しました」


「よく考えてくれ、俺達は確かに貧しいし幸せとは言えない。今以上に落ちぶれようもねえさ。それでもチビ達を守らなきゃいけねえ。俺達はあんたを信じていいんだよな」


「私を信じるかどうかではなく、神に支配されない事が重要です。私はまだヒトデナシですが、いつかヒトデアリになりたいと願っています」


「ヒトデ?」


「人ではない私が、人である私になるという事です」


「あ、ああ……なんか言葉おかしいけど理解したわ。つっても見分けつかねよ、そもそも」


「父は私に心を与えてくれると言いました。人の姿で心があれば、それは人と同じです。私は人と共に行動する事でもっと人の心を知りたいと考えています」


「あんたにどこまで可能性があるのか、俺には分かんねえけど。あんまり人間に期待すんな、心のねえ人間なんてゴロゴロいるさ」


 イングスは人への憧れを熱心に語る。しかし、スラムに生きるケヴィンにとって、人とは必ずしも善人と置き換えられるものではない。


 孤児だから、学がないから、貧しいから。そのような理由で幾度あざ笑われたか。


 懸命に向けた笑顔や気遣いに、幾度侮蔑の目を向けられ、石を投げられたか。


「心なんてもんは、形もねえくせに簡単に壊れるんだよ。傷が付くくらいならいい方だ、砕かれちまったらそうそう元になんて戻らねえ」


「そう、ですか」


「元に戻らねえから、そのひび割れをパテみたいに埋めようとする。それは金だったり、恨みだったり、傷つける側に回ったり。永遠に埋まらねえのは分かってるのにさ」


「ない方が良いものでしょうか」


「……傷つかないなら、良いもんだと思うけどな」


 イングスはケヴィンの言葉に暫く考え込んだ。

 人として完成するために必須なものだと思っていたのに、ケヴィンはまるで無い方がマシだとでも言いたそうだ。


 もしかすると、ケヴィンも心が傷ついているのではないか。イングスなりに悩んだ結果、鞄を漁り始めた。


「傷によく効く薬を持たされています。裂傷であればさほど時間も掛からないかと」


 イングスに差し出された小瓶は、薬草として知られるものを幾つも調合したもの。

 真顔でそれを差し出すイングスに、ケヴィンは降参だと言いつつ笑った。


 傷には薬を塗ればいい。傀儡人形が一生懸命悩んだ結果と考えると、ケヴィンは怒る気にもならなかった。


「あんたには負けた。あいにく心ってもんは概念でね、目にも見えないし臓器でもない。言い換えると、あんた次第で手に入るものでもある」


「それはとても喜ばしいです。私は人になりたいのです」


「少なくとも優しさは既に身に着けてるみたいだな。師匠っつうか親父さんが出来た人だったんだろう」


 ケヴィンはイングスの胸元に軽く拳をあて、「てめーには心が良く似合うさ」と呟く。


「もう持ってんだよ、しっかり育てな。親父さんからとびきりの心を貰ったんだから」


「はい。だからこそ、私は父の心を悲しませた神を許しません」


「俺も神には文句しかねえな。まあ、信じさせる事も出来ねえって時点で、神とやらも大したことねえよ」


 イングス相手に意地を張っても、強がっても、何も意味がない。

 ケヴィンは愚痴や弱音を吐いても馬鹿にされない話し相手など、親を失って以降出会った事がなかった。


 子供相手には大人ぶり、大人には子供扱いされ、その狭間の立場で立ち向かう。


 そうやってもう何年も自分の立ち位置を守ってきたケヴィンは、この日、久しぶりに年相応の表情で楽しい時間を過ごした。

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