第3話 神
* * * * * * * * *
「神、ただいま」
「なんだ
「ただいまを学習しました」
「人間の習慣を身に着けるのは悪くない。まさかそれを披露しに来たのか」
「いえ。私は名だけでなく姓と身分も与えられます。イングス・クラクスヴィークと名乗る事が出来ます」
「ほう、
外は夕暮れ前のはずだったが、イングスが立ち寄った神殿は、薄紅色の花が咲き乱れる陽気な昼下がり。
神と呼ばれた女は、白い法衣にもドレスにも見える重そうな服を纏い優雅に座っている。人類を誕生させた文字通りの神様だ。
「神、その盤は何ですか」
「人間共に与えた娯楽だ。チェス、将棋などの呼び名で広まっている。これは縦横8列の盤目に、16の駒を置いて攻め合うものだ」
「なぜ攻めるのです、争いは不要かと」
「状況に対応する能力を養える。反撃、抵抗、奇襲……
「神への反撃などありません。無意味がある娯楽です」
「おかしな言葉を覚えたな……ふむ、反撃はあり得ぬと? 世界は駒盤よりも複雑で面白い。上手く導かねば崩れる危うさもある」
「その崩れる要因の1つに、人間からの反撃が含まれるのですか」
「さよう」
イングスは納得がいかない様子で眉間にしわを寄せる。神はその様子を面白そうに笑った。
「1つの駒の裏にある思惑と過程を見なければ、いつか拾えぬ声に討ち取られる」
神の抽象的な物言いに、イングスはいっそう眉間のしわを深める。
「せっかく綺麗に作ってやった顔が台無しだぞ、傀儡。貴様に人間の狡猾さを授けなかったのは妾だ、知識として身につけておけばよい」
「……承知しました。私は身分の獲得を報告に上がった次第です」
「人間は相手を身分と容姿と肩書きで判断する。いずれも持っておれば、人の世界で怪しまれず行動しやすい」
神はイングスの反応に逐一笑みを浮かべ、優雅に紅茶を口に含んだ。
「そうだな、貴様も妾の指示なしで動いてみればよい。フフッ……どうだ、せっかく妾が好む眉目秀麗な個体にしてやったのだから」
神がニヤリと笑みを浮かべる。
「はい?」
「女でも抱いてみればどうか。子を成す
「無意味があります、ただ人間の繁殖を手伝うべきなら、そのように」
「……ふっ、よいよい。貴様に色欲を与えなかったのは妾であったな。貴様は妾の好みに合わせた妾の傀儡、人間のお手付きは無用」
イングスは神の遠回しな言葉に首を傾げる。
何故人間には与え、自身に与えられなかったのか理解できないのだ。
「私は色欲を持たないのですか。神はお持ちでしょうか」
「妾にないものを人間が持っているとでも? ならば貴様が妾を抱いて確かめるか。妾としては貴様を抱いてやる方が好みだが……貴様を孕ませ腹が膨れては不都合よの」
「なぜでしょう、私は神の指示に従います」
神が揶揄っても、イングスは真顔で首を傾げるだけ。
イングスは神が人間の男の姿に似せて作り上げた傀儡人形に過ぎず、生物の本質は理解出来ていない。
もっとも、人間だって神が自身に似せて創造し、地上に撒いた生物なのだが。
「貴様は下界で人間の何を見ておる。人間の男の容姿をした貴様の腹が膨れては、奇異の目で見られ潜入にならぬわ」
「つまり食事を摂らない方が良いと」
「満腹の意味ではない、見た目の話だ」
「食品店を営む男は、腹が出たと嘆いております。女だったなら、おじさんと呼ぶべきではありませんでした」
「それは男が太っているだけだ」
神はため息と共に説明を加えた。
人間の体の仕組みなど教える必要はないと考えていたが、イングスは自分で勝手に調べ、もっともらしい理由で納得してしまう。
それはそれで突飛な事を言い出し、面倒な事になりそうだった。
「とにかく、潜入に不都合という話だ。貴様は妾の
「それはつまりどういう……あっ」
「なんだ、傀儡」
「私の子は人間ですか、それとも傀儡ですか」
「さあ、どちらになるだろうな。どちらであっても操れば傀儡となるだけ」
「神」
「なんだ、傀儡」
「人間も傀儡も作るのは神です。ならば傀儡の子を産み落とした者は神になるのですか」
「ぶっ……あははは! そうきたか、貴様にしてはよく考えたものだ。神が行いの1つとして人間と傀儡を作ったのであって、作ったから神になったのではない」
「……理解しました。それでは人里に戻ります」
「お前はよく出来ておる、やはり作り上げて正解だった」
イングスは一礼して退出し、薄暗い廊下を歩いていく。
「ふふふっ。せいぜい妾を楽しませてくれ」
神は口元だけ笑みを浮かべ、駒を進める。対戦相手に見立てた一方の兵駒を弾き飛ばすと、駒は黒い灰となって消えた。
「フフッ、さて何をどこまで冗談にしてやるか。まあ、奴のこれから次第としようか」
* * * * * * * * *
「お待たせしましたー。イングスさん、本当にルダ爺の跡取りになるんですね」
「はい」
「以前の記憶とか後悔とか、そういうのがないのなら……これが一番いいのかもしれませんね。じゃあ身元保証人、ルダ・クラクスヴィークさんの息子という事で、こちらが身分証です」
「イングス・クラクスヴィーク、私はイングス・クラクスヴィーク」
「誕生日は……8月30日、年齢は20歳でお間違いないですね」
「師匠がそう書いたのであれば、その通りです」
「え? あ、そう、ですか?」
裁判所と役場に書類を提出して数刻。ついにイングスは人としての身分を手に入れた。
ルダが書いてくれたのなら20歳になると決め、イングスはピシッと頭を下げてから役場を出ようとする。
「あーあの、イングスさん!」
「はい」
「あー、あの……いや、何でもないです、呼び止めてすみません」
「大丈夫、何事もいずれ済むものです」
「え? あっ」
窓口の女の複雑そうな表情の意味にも気付かず、イングスは何事もないかのように去っていく。
苗字と市民権を得たイングスは、問屋で布地を購入し、ルダの作業場で報告を終えた後、ルダの家の庭にある小屋へと帰った。
普段は人と同じように食事を摂り、人と同じように洗濯をし、人と同じように読書をし、人と同じように眠る。無駄な事は一切しないし考えない。
ただ、今日のイングスはいつもと違った。ルダの一言が気になっているのだ。
「……傀儡であってはならないと言われても、私は傀儡だ。私はあってはならないのだろうか」
ルダの一言は、イングスに考えるきっかけを与える事になった。その答えは1か月経った頃も、まだ出てはいなかった。
* * * * * * * * *
「だいぶ慣れてきたようだの」
「はい。色々と理解が及び、生活への支障は当初より減少しております。師匠が慈悲深いおかげです」
「口調の硬さは相変わらずだがの。どれ、今日はこれくらいにして釣りにでも行かんか」
「漁師になるのですね。魚を売る事で生活の足しになります」
「魚を釣るからと言って漁師ではないわい。まったく、考えたなら考えたで明後日な事を言いよって」
「明後日とは2日後の事を指す言葉ですね」
「いいからほら、つべこべ言わず行くぞ」
イングスが人の権利を手に入れてから1か月後のある日。
人形を依頼主に引き渡した日の午後、ルダは作業場を片付けながら、イングスを釣りに誘った。イングスにとって、初めての魚釣りだ。
ルダは釣り竿と仕掛け入りの鞄を持ち、小屋のすぐ裏にある桟橋へと歩き始める。イングスは荷物を持ってやる事が親切だと覚えたため、さりげなく荷物持ちを担った。
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