第34話『冷血と神連れ』

 亜久郎(あくど)の正体は『石の国』と呼ばれる魔の国が故郷の悪魔であった。鼠奈(そな)とは遠縁で、鼠奈(そな)が魔の一族を追放された際に逃亡が心細くて声を掛けた元恋人であることが判明する。

 亜久郎(あくど)も鼠奈(そな)も逮捕されることとなった。神域への侵入と神職への暴行――公務執行妨害が表向きの罪状であった。亜久郎(あくど)は監獄に送られて、鼠奈(そな)は留置場で沙汰を待つこととなった。

 香水商の一味は香水商が死亡、側近である部下も死亡――闇市の運営に携わっていた者が数名残っていて逮捕されていた。氷川の森の植物を持ち出して自社プラントで非合法に育てて営利目的の利用を企んでいた計画の全てが、白日の下に曝された。

 闇市は取り締まられ、運営に関わった者と出店者には刑事罰が科せられ、そこで買い物をした者たちには罰金を支払うよう命令が下された。罰金は闇市の発生で乱れた風紀を改めるための試みの資金に充てられる他、麻薬煙草を購入して中毒症状を示した者たちへの治療費に使われることとなった。

 痺れや嘔吐と言った症状を出した問題の煙草は麻薬成分が強い煙草で、煙草の成分の他にも人体に有害な麻薬成分が主成分として検出されていた。購入者は氷川神社で治療を受けた後、病院に移送されて治療は継続されることとなった。

 氷川の森では亜久郎(あくど)が杳夜(ようや)に制圧された瞬間に降り出した大雨で、炎の影もなくなっていた。杳夜(ようや)が神命(かみ)の力と重なって、もたらされた雨であった。神官は心と言葉が神命(かみ)と重なるための神聖な法具であり武器になる。名前の通りの現象を神命(かみ)の力はもたらせる。杳夜(ようや)は水の形状と流転を操ることに長けていて、その名前の通りに雨を降らせて悪の炎を鎮めて見せたのであった。

 本来聖域には悪魔や魔女は入らない。亜久郎(あくど)と鼠奈(そな)だけであったなら、そもそも氷川水源へは近づかなかったのである。神官も含めて神聖なものというのは本来、悪からは触れられないものになっている。悪はそういった清らかな存在や場所に障るためには、神命(かみ)に障れそうな半端者や悪が通りやすそうな人間を介入者として選んで介在させて、その人物を使って綺麗なものを汚させるのである。

 今回亜久郎(あくど)と鼠奈(そな)が氷川水源に入れたのは、法に背き悪に染まった人間がその聖域を目指していたところに同行することとなったからであった。神域に入るときに体調に異変はあったものの、気にとめることをせずに引き返さなかったのは、自分たちの悪霊を憑依させて盾に出来る人間が狭い車の中に同乗していたからである。自分たち魔の霊を分散させて、肉体が神域の力に屈さないように、周囲の人間の中身を依り代にしていたためである。

 しかし、亜久郎(あくど)と鼠奈(そな)を神域から移動させることがとても骨の折れる作業であった。その区域に入るときは見もしなかったくせに、聖域の中でそこが注連縄のある場所だと気づいてその場から出られなくなっていたのである。魔は入った先でそこに神命(かみ)を信仰していることが分かるものを認識してしまうと、自分の力でそこから出られなくなってしまうのである。鼠奈(そな)は気絶していたが、亜久郎(あくど)は此処から出たら死ぬと狂ったように騒いで、氷川神社から来てくれた他の神職たちは亜久郎(あくど)を移送させることに手を焼いた。

 氷川の森では亜久郎(あくど)たちが侵入して壊した建物や放たれた火に焼かれた植物と大地を直して癒やすために、宮大工や職人たちが入って整備を進めていた。祭りの前なので修繕を急いでいる。

 香水商を殺した魔木は伐採された。亜久郎(あくど)が沈黙して炎が雨に吹きさらされて消えてしまうと、木の内側で木霊(ドラド)が悲鳴を上げて果てた。雨が弱くしとしと降るようになった頃に静かになった魔木は、氷川神社の神職が来るのを待って杳夜(ようや)が切り倒すこととなった。魔木は小さく切り分けられて、焼却された。



 それから二日後。にれかは普通に喫茶店の仕事をしていた。あの騒動も久しぶりに神官だった頃のような戦いをしたことも、まだ二日しか過ぎていないのに遠ざかるくらい、にれかは店が忙しくて慌ただしく過ごしていた。


「にれかさん、遅いなー……」


 客がいなくなって一旦店を閉める時間を、この日にれかは作っていた。薔子は店の時計を眺めて、暇を持て余してテーブルを拭いていた。掃除は終わったので、まだにれかが戻ってこないようならば、もっといつもは出来ない細かな場所の掃除でもしようかと考え込む。

 にれかはこの時間を使って、薔子の前に連れてこないと行けない人物を迎えに行っていた。それが毒を受けたその女に提示した応急処置の条件であったからだ。


「薔子ちゃん、ただいま」

「あっ、にれかさん。お帰りなさい」


 にれかが行っていた場所は留置場だった。鼠奈(そな)を連れて、警官を二人付き添わせて店に入る。にれかが鼠奈(そな)を伴っていたので、薔子は驚きとは少し違う、嫌悪に近い感情を面上に走らせる。

 にれかは薔子に、鼠奈(そな)が魔女であることを説明した。


「この女は岩村鼠奈(そな)。氷川水源への侵入と神職への公務執行妨害と植物強奪容疑で逮捕された魔女よ」

「にれかさん、何でこの女が此処にいるんですか?」


 薔子は怒った猫のように目尻を剥いて震えた。植物病のために負った痣のことを人前で罵られたことに、もう触れられたくはなかったのである。にれかは鼠奈(そな)を此処へ連れてきた経緯を簡単に明かした。


「自分が召喚した蛇に咬まれて毒を受けていたときに、助けを求められたのよ。薔子ちゃんに謝るなら助けてもいいって言ったのよ」

「そう、だったんですか……」


 薔子はもやもやしている心の中を隠そうともせず、眉間を険しくして呟く。鼠奈(そな)に対して何か嫌な予感がすると言いたそうな表情は、鼠奈(そな)が魔女であるからまともな謝罪が期待できないことを本能的に薔子の方が理解しているからであった。

 俯いているくせに何処となく威張っているような顔の鼠奈(そな)に、薔子は話しかけたくはなかったが声を掛けた。


「あんた魔女だったんだね」

「……」

「あんたがあの男と来たあとにね、あんたのこと、魔女だったんじゃないかなって思ってたよ」

「……」

「何で黙ってんのよ」


 人間が遠い祖先に植物を持つことに対して、魔女は病原菌を含む溝鼠の一種が祖先だとされている。人間と魔女の関係性はえてして、人間と害獣のようなおのにしかならないのである。

 鼠奈(そな)はふて腐れてはいなかったが、一人になってしょげていた。亜久郎(あくど)が一緒の時に見せた威張った態度はないが、そこに存在されるだけでじっとりと嫌な感覚を背中が感じていた。


「……にれかさん、何だか背中が気持ち悪いんですけど」


 鼠奈(そな)が何も言わないので、薔子はにれかの方を向いて感じ始めた不調を訴えた。にれかはそれは薔子が正しいのだと伝えるために、説明をする。魔女はそこにいるだけで、魔ではないものに不穏な感覚を与えるのである。


「それはこの子が魔女だからよ。魔がいるとそうではない人間は肌が粟立つものよ――ほら、何をぼさっとしているの、約束が違ってよ?」


 にれかが鼠奈(そな)を小突くと、鼠奈(そな)は薔子の顔をじとっとした目をして一瞥した。自分より可愛い同性に対して陰湿な思いがある者独特の表情を噛み込んだ唇に込めている。薔子は何故そのような顔をされるのかが分からないので、身構える。にれかに促されて、我が儘な子供のように、鼠奈(そな)は渋っていた。それからややあって、申し訳程度に頭を下げる。


「……あんなこと言ってごめんなさい」

「…………」


 薔子は目をしばたたく。にれかは横目で鋭く鼠奈(そな)を観察する。薔子の口から不服のあまり感嘆が零れ、にれかは鼠奈(そな)の頬をつねった。


「痛い!」

「なにそれ、あんた謝る気あるの?」

「やり直し! ちゃんと悪いことをしたと思いながら謝りなさい」


 まるで謝罪されていない気分で、薔子は警戒している猫みたいになる。魔女が嫌いなにれかは魔女に対して乱暴にかつ鋭い切り口で訂正を求めている。鼠奈(そな)は口先では謝罪しているが、目の奥がぎらぎらしていて、少しも謝る気がない者のそれだったのだ。にれかの目は欺くことは出来ず、薔子には嘘が伝わってしまい、鼠奈(そな)は金切り声を上げて喚きだした。


「謝ったじゃん、もういいでしょ!」

「よくないわ。そこに直りなさい」


 言うなり、にれかは鼠奈(そな)の襟首を掴むと、喉の甲状腺がある部分の横を縦に二カ所、親指で押した。魔を押さえる型の簡単な技をその場で行使すると、鼠奈(そな)はへなへなと座り込んでしまう。


「ごめん、なさい……」

「もう二度と言わないか?」

「言わない……」


 薔子が呆れて尋ねた。にれかに強制してもらってはいるが、絶対そんな耗弱な意思ではすぐにそんな約束は反故にするとみたのである。


「あんたやる気あるの?」

「…………」


 鼠奈(そな)は恨めしそうに薔子の顔を見上げていた。にれかは鼠奈(そな)に初めからまともな謝罪は期待していなかったらしい。だが開き直られるとは思っていなかったので肩を怒らせて腕を組んでいる。薔子はと言うと、結局謝られてはいない気分が勝ってしまったのか、複雑そうな表情だ。憐れなものでも見ているような気分でもあり、謝られているのにこんなことを言わないといけなくて、あのとき言われたことから受けた傷がかえって痛んでしまうような気がしないでもなかった。

 そんな魔女の謝罪を割り切るために、にれかは嘆息したい気持ちを抑えて薔子に言った。


「この子は魔女だから、心から人間に詫びることは出来ないんでしょうね。それが仕方ないことではないけれど、仕方ないなんてことはあってはいけないけれど、魔というものはそういう生き物なのよ」


 脱力してしまって座ってしまった鼠奈(そな)に、今度はにれかが向き直る。しないといけない話があると思っていたのだ。この国に植物病の患者は多く、魔が後ろ指を指して歩いていい者などいないことを、にれかは伝えた。魔が相手なのだから伝わらないこと、聞いたところでそれを知って悪を働くのが魔なのであるが、にれかはそれでも、鼠奈(そな)に話をした。


「この国には二年前に魔木が大量発生する禍が起きていてね、そのときに多くの住人たちが魔木が出した環境物質が原因で身体に障害を負っているの。薔子ちゃんもその一人で、植物性斑病という病気なのよ。あなたのような魔であり思慮浅い者から、気持ちが悪いなんて言われる所以は薔子ちゃんには何もないのよ。だからもう二度とそういうことは言わないように」

「あたし、謝ったもん……」

「本当は殴りたいくらいなんだけれど……魔女は自分が受けた暴行をすぐ誰かに試したがるから、私はしないのよ」

「そうなんですか……呆れた……」

「やさしく諭すとすぐ図にも調子にも乗るし、憐れむと自分のことを惨めだと泣くのよ。だから魔女はね、『去ね』と言われるのよ。あっちに行けって言われるの。疎外と言ってね、魔を廃する本能が人間に働くのよ」


 鼠奈(そな)は警察に連れて行かれて、留置場へ戻っていった。


「にれかさん、いますか? 雨霧です」


 鼠奈(そな)がまた留置場へ連行されてしばらくすると、今度は杳夜(ようや)が尋ねてきた。準備中の看板を出しておいて、食器の用意とお茶とお菓子の準備をしていたにれかが店先に出て行く。杳夜(ようや)は仕事の合間に来てくれたのか、神職の白衣に青い袴といった出で立ちだった。後ろ手に何か持って、にれかが出てくるのを待っている。


「雨霧さん! お怪我はもう大丈夫なんですか?」

 にれかは店を出るなり、杳夜(ようや)の心配から会話を始める。

「火傷の具合はどうですか?」

「うん、にれかさんが一番に診てくれたから大丈夫。もう少ししたらガーゼも取っていいって言われてて」

「よかった」


 亜久郎(あくど)と戦ったときに負った火傷の痕か、杳夜(ようや)はまだ頬に一カ所ガーゼを貼り付けていたが、身体そのものは元気なのか、ぎこちない笑顔を見せる。にれかに用事があって来ていることを何と言っていいのか言葉を選びかねている様子であった。笑い方に隠し事があることが窺えて、にれかはきょとんと首を傾ける。

 杳夜(ようや)は後ろ手に隠し持っていたものをにれかに突き出した。持っていたのは赤い薔薇の花束だ。にれかは驚いて、長い睫毛を瞬く。


「これ! よかったら……いろいろと巻き込んだお詫び。もらってほしい」

「そんなお詫びだなんて」


 にれかは花束を受け取ってから、背の高い杳夜(ようや)を見上げた。にれかは薔薇が好きだったので、素直に喜びつつも、不思議そうにしていた。綺麗な白い薄紙の包装紙の模様が陽の光を透かして、にれかの腕の中で薔薇が輝いていた。


「嬉しいです……私、薔薇が好きなので。雨霧さんにお話ししたこと、ありましたっけ?」

「はい……以前に。植物市でも薔薇をたくさん買っているし、好きなことくらい分かりますよ」

「あはは、そうですよね」


 そこまで話して、ふとにれかは杳夜(ようや)に植物市に一緒に行ってもらった際に、体調を崩したことを思い出した。それで麗貌に翳りが差したが、にれかはせっかく薔薇をもらったのだからと作り笑いを拵える。


「飾らせていただきますね」

「にれかさん、薔薇の植え替えだったらいつでも言ってくれれば手伝いますよ」

「本当ですか? いいんですの、雨霧さんはお忙しいのに」

「にれかさんの頼みなら手伝います」

「ありがとうございます、助かります」


 杳夜(ようや)が言葉を継ごうとしたときだった。準備中の時間を狙って店に町の人々が大勢やって来たのである。にれかが香水商を殺した魔木を鎮めて、杳夜(ようや)がその木を切り倒した話がすでに広がっていたらしかった。町の人々はこぞってにれかを褒めちぎる。


「大手柄だったね、にれかちゃん」

「凄い話を聞かせてもらったよ」

「大変だっただろう? にれかちゃんも身体を大切にしてね」

「うーん、手柄だったのかしら……雨霧さんがいてくれたからできたことですよ」


 苦笑いするにれかの傍らで、杳夜(ようや)も釣られて笑った。自分が出来ていることを、杳夜(ようや)の顔を立てているのか、にれかは腰の低い対応である。杳夜(ようや)はにれかのそういうところを好ましいと思っているが、その気持ちと同じくらいには、もっとにれかに自身のことを高く評価してあげてほしいという気持ちが強かった。

 そこへ征也(ゆきや)が真千花と一緒にやってくる。薔子が二人に手を振った。


「征也(ゆきや)さん、真千花ちゃん!」

「にれかさん、お店はまだ? 私喉渇いちゃって……お茶淹れてほしいな」

「じゃあもうお店を開けましょうか」

「やった!」

「雨霧さんもよかったら、お茶でもどうぞ」

「ありがとう、それじゃあ寄ってから氷川に戻るかな」


 まだ店は閉まっている時間だが、にれかは特別に、征也(ゆきや)と真千花、杳夜(ようや)と薔子に、椿の葉とかみつれの緑茶を淹れた。征也(ゆきや)が倒れて最初ににれかが飲ませたお茶の、レシピを少し変えたものであった。

 テーブルに着くと、にれかは征也(ゆきや)に鼠奈(そな)の話をした。


「さっきまでいたのよ、あの魔女の子。薔子ちゃんに謝ってほしくて連れてきてもらっていて」

「そうだったんですか。おれ一人ではとても捕まえられなかったと思います。にれかさん、雨霧さん、ありがとうございます」

「そうそう、にれかさん。征也(ゆきや)君が埼玉に残ることになったんだよ」

「あら、そうなの? 嬉しいわ」

「はい……驚きました。氷川神社の神命(かみ)様の思し召しだそうで」


 鼠奈(そな)と亜久郎(あくど)が逮捕・連行されている頃、征也(ゆきや)は逃げていた魔女たちを全員拘束していた。鼠奈(そな)と一緒に逃げていたが、別の道を使って埼玉王国に侵入していた魔女たちは各々悪事を働いていて、植物を枯らせたり、闇市の職員をしていたりと、何人も摘発されることとなった。征也(ゆきや)は鼠奈(そな)の仲間たちを捕まえて、強奪された植物を取り返すことに注力したところ、神職の下に神託が降りた。故郷のない征也(ゆきや)に対して、この町で学び、過ごしたらどうかと言った内容であったので、征也(ゆきや)はその言葉に従うこととなったそうであった。


「これからどうするんですか? 鮫島さん」

「図書館の用務員になることが決まりました。戦闘種族はつぶしが効かない仕事なのにありがたいですよ」

「へえー、図書館の用務員かあ。素敵なお仕事」

「それで、休みの日には雨霧さんに師事させてもらって、魔のことを学ぼうと思ってて」

「雨霧さんに? まあ、厳しそう」

「にれかさん、俺ってどういう印象なの?」

「冗談ですよ、雨霧さんが先生だなんていいですね。学びが多いと思いますよ」


 自分の分のお茶も淹れて、にれかは杳夜(ようや)の隣の席に座った。杳夜(ようや)が厳しいと聞いて身構えていた征也(ゆきや)はどっと笑った。


「にれかさんって、神職の方とお仕事をされていたんですよね。それはどうしてだったんですか? にれかさんも何か神託があったんですか?」

「その通りです。私は元々植物薬剤師でしたから、神職ではありません。でも、魔木禍が鎮まるきっかけを私が作れたからか、当時雨霧さんに神託が降りられて、薬学の知識を氷川神社の医師の方々と共有させていただいたんですよ」

「そうだったんですか……」

「神職の女性がする仕事も一通り学ばせていただきました。いい経験でしたね」

「雨霧さんは厳しいんですか?」

「全然厳しくないですよ。お優しくて、私は学びが多かったことを覚えていますよ」


 杳夜(ようや)は何を思ったのか、そっぽを向いている。青みの強いお茶を啜り啜り、にれかの発言に誤解がないよう付け加える。


「征也(ゆきや)君、神命(かみ)様は何かが出来たからといって特別に取り立てるようなことはなさらないよ。神命(かみ)様方がただ征也(ゆきや)君に対してこの町にいてほしいと願われただけだからね? そこ間違えないように」


 杳夜(ようや)はその言葉はにれかにも同じことを言っているのだと言いたそうに、にれかの方を見やった。にれかは特に何かを察するわけでもなく、杳夜(ようや)の発言に対して『雨霧さんはいいことを言うな』と思っているような笑顔だった。


「ねえ征也(ゆきや)さん、あの鼠奈(そな)って女は何だったんですか? もう訊いてもいいんですよね?」


 鼠奈(そな)からの謝罪が自分の中で悶々としたものだけを残していったと言わんばかりに、薔子は征也(ゆきや)に尋ねた。にれかは自分がどうしても鼠奈(そな)に謝らせたかった気持ちが裏目に出ただろうかと、何か少し考える表情だ。征也(ゆきや)はもう説明を控えるつもりもないとみて、薔子やにれか、杳夜(ようや)たちに話をした。鼠奈(そな)が何であったのかを、開示する。


「あの女は岩村鼠奈(そな)といって、おれの故郷をめちゃくちゃにした魔の一族出身の女です。鼠奈(そな)の父親に当たる男と別の魔が組んで宗教をしていて、その宗教がおれの故郷の人々を廃人にしました」

「鼠奈(そな)は元々その宗教の中で歌ったり踊ったりすることを『お仕事』といって色魔を召喚する歌や踊りを役目にしていたのですが、婚約者がいたのに別の魔の男と淫らな関係になって婚姻が破談になり、生まれた一族を追放されています。それで埼玉王国まで逃げてきたんだと思います。一緒にいた男が元恋人だったなんておれも知りませんでした……奴らが逮捕されて初めて聞いた話も多かったです。香水商と組んで国外に逃げようとしていたなんて」


 征也(ゆきや)の故郷は現在、地図上からはなくなっていることをにれかたちは明かされた。故国の状況を慮った隣国が、国を併合してくれていて、宗教に毒された人々の治療が始まっているとのことを告げられる。鼠奈(そな)が一族を追い出された時期と、国から魔の一族が忽然と消えてしまった時期は重なっていて、征也(ゆきや)が隣国から魔女の追跡を命じられたのが旅の始まりだったと思い返していた。鼠奈(そな)と別行動をしていた魔女たちは隣国が編成した追跡の部隊の一つであった征也(ゆきや)と、薔子の協力で逮捕され、一足先に本国へ送還されている。


「宗教の魔術にかかった人たちが少しずつ幻覚から解放され始めていて、治療も始まっていることを昨日連絡を受けました。嬉しいことです」

「関わってしまった方が、早く目を醒ますといいけれどな」

「鮫島さんのご家族はいらっしゃるんですか?」

「おれに家族は、もういません。おれの家族は戦闘種族の仲間で、皆、この戦いで魔と戦って散ったと聞きました」

「お花が必要ですわね、私が花束を作りましょう」


 にれかはそう言うと、喫茶店の中の花屋のスペースに移動して、白い薔薇と白い菊、それからかみつれの花と蔓のある葉を添えて花束を作ってくれた。家族同然の仲間が亡くなったと話ながらも、征也(ゆきや)の声と言葉に湿っぽいものはなかった。そのことを杳夜(ようや)は不思議に思っていたが、戦いが生業ならば当然のことなのだろうかと自分で自分を納得させてしまう。


「ありがたいことに、多侑さんが小さい墓標を作ってくれる職人さんを見つけてくれて、それを部屋に置くことになりました。何だか、おれたちの一族の役目が一つ、終わったような気持ちです……平和な場所に戦闘種族はいらない。そう言われている気持ちがすることは、以前からもあったんですけれどね」

「どうぞ、花束、墓標の前に飾ってあげてください」

「ありがとうございます、飾らせていただきます」

「薔子ちゃん、お菓子の準備をしておいてくれる? 私は此処のテーブルを拭いたらお茶の支度をするから」

「分かりました、お客さんも来てますしね」


 薔子がぱたぱたと店の奥に消えると、真千花がお茶を飲み干して、にれかに訊いた。


「にれかさん、お茶ってサービス?」

「今回はね。また遊びに来て」


 征也(ゆきや)がお茶代を払おうとしたので、にれかはさりげなくそれを制した。すると征也(ゆきや)は、店頭で販売されているお茶を購入したいと申し出る。


「お茶、いただけますか? 家で飲みたいと思って」

「あら、気を遣わせちゃったかしら」

「この前にいただいたやつ、椿の葉っぱのブレンドでしたっけ。あれが美味かったんですよ」

「じゃあ、それを袋に詰めますね。ちょっと待ってて」


 にれかは慣れた手つきで茶葉を量ると、それを特殊な紙袋に詰めてくれた。征也(ゆきや)は礼を言って、紙幣を置いていく。


「また来ますね」

「ええ、いつでも」

「またね、にれかさん」


 征也(ゆきや)と真千花が去ると、にれかは二人の背中を見送りながら微笑んでいた。この町の一員となった征也(ゆきや)に、真千花が喜んでいる様子が窺えて、微笑みが零れたのであった。白い花の花束とお茶の袋を抱えた征也(ゆきや)を、出会ったときとは違った感慨で見つめていた。もしかしたら自分も、温かく迎えてくれた氷川の町にとって、そんなふうに見つめられていたのかもしれないと思うと、苦みの混ざった溜息も零れた。そんなにれかを一人、遠いもののように見つめながら、杳夜(ようや)は薄紙のようなカップに口を付けている。

 にれかは二人を見送った後、杳夜(ようや)からもらった赤い薔薇の花束を持って、花束に似合う花器を見繕った。


「雨霧さん、この花器に合うと思いませんか?」

「うん、綺麗綺麗」

「ちゃんと見てます?」

「見てるよ! でも俺じゃあ花器の善し悪しとか合う合わないは分かんないよ」

「赤い綺麗な薔薇だから、透明な硝子の瓶が花器として合うと思ったんですけれど」

「にれかさんがそう思うなら……いいんじゃないの?」


 薔薇を贈ったことに関してにれかから何も肚を探られることがなかったので、杳夜(ようや)はぶっきらぼうに呟いていた。何故花を贈ったのかなど、にれかはそんなことを訊いては来ない。杳夜(ようや)はにれかが花好きなこと、薔薇が好きなことは知っていたから、元々花が好きなにれかが花を贈られる理由など怪訝には思わないのであろうと嘆息して、カップを置いた。猫舌な杳夜(ようや)は、椿のお茶を冷ましながら、ちびちびと飲んでいる。

 杳夜(ようや)がまだそこにいるのに、にれかは花器に薔薇を生け始めた。店内に華やかな空気が、咲いたように広がっていった。既にテーブルに着いている客たちが、にれかに声を掛ける。


「にれかちゃん、綺麗な薔薇だね」

「綺麗に咲いてるねえ」

「そうでしょう? 雨霧さんがくださったんですよ」

「雨霧君が? へえ」


 そこで杳夜(ようや)がそっぽを向くと、客たちは何を思ったのか生暖かく微笑み始める。杳夜(ようや)はすぐその笑顔に気づいて、事務的に告げた。


「魔が出てにれかさんを戦いに巻き込んでしまったんで……お詫びの品です、お詫び」

「そうかあ、雨霧君も相変わらず頑張っているんだねえ」

「また保護者みたいに……そういうのやめてください」

「ふふふ」


 にれかは背後に暖かなやりとりを聞きながら、大輪の薔薇を生けていった。綺麗に花器に薔薇を納めると、中央のテーブルに飾っておく。


「にれかちゃんはお店が忙しそうだね」

「ええ、お陰様で」

「仕事もいいけれど、たまには羽を伸ばさないと」

「お気遣いありがとうございます」

「俺もそう思う……神官だった頃から、今も、体調崩すまで日本語の勉強ばっかりしてるんだから」

「雨霧さん、そういうことは黙っててください……」

「俺は心配なんだよ」


 客たちが明るい声で笑っていた。にれかは眉を困らせながらも、こんな日常がいつまでも続いてくれていたらと思わずにはいられなかった。杳夜(ようや)がお茶を干して財布から紙幣を出すと、にれかは今回はサービスだと伝えたが、杳夜(ようや)が支払うと言ったので、お釣りを出して杳夜(ようや)の手のひらに硬貨を置いた。にれかの繊細な、細い硝子のような指先が、そっと杳夜(ようや)の手に触れる。


「……」

「雨霧さん、お詫びだなんて言わないでくださいね? 私はあの魔女に謝らせただけで十分なんですよ?」

「……そういうわけにはいかないよ。仮にもにれかさんはもう、神官として戦う立場ではないんですから。お詫びはお詫びです」

「じゃあ……これを、どうぞ」


 にれかはレジの横に置いてあった花飾りを手に取った。にれかが水祭りのために作った紙細工の赤薔薇と白紫陽花の置物である。綺麗で線の細い、儚いが美しい仕上がりに、杳夜(ようや)は素直に感嘆の声を上げた。


「へえー、綺麗ですね。これ、紙細工?」

「はい。よかったら、お花のお礼です。持っていってください」

「ありがとう、飾らせてもらいます」


 にれかが置物を小さな箱に詰めて袋に入れると、杳夜(ようや)はその間に何か思い出したように言った。その表情は真摯そのもので、にれかに大切なことを伝えようとしている者のそれであった。杳夜(ようや)とにれかは互いに神官をしていた頃には、よく語らったものであったが、杳夜(ようや)はにれかが抱えている影のようなものを、誰よりも理解していたいと思っていた。その気持ちは伝えたいけれども、喉元で堪えながら、にれかの自分に自信がない部分に光を当てるような発言をする。


「にれかさんはちゃんとこの町に愛されているから、くれぐれも、私は駄目だなんて思わないで」

「……」

「ごめん、俺、偉そうなこと言った」

「そうだといいなって……思います」


 短い沈黙が、一陣の風となって二人の中を過ぎていった。何て言ったらいいのか、杳夜(ようや)が言葉に迷っていると、にれかが悲しそうに微笑みながら呟いた。にれかはいつ話をしても、杳夜(ようや)に対してはふと懐かしい感傷を覚えてしまうのであった。子供の頃からの知人でもあるまいに、どうしてなのかと自分でも思う。この郷愁のような感覚に、説明がつかなかった。にれかはその答えを知りたかったが、どうしてか、知るべきときが今まではないことのようにも思えていた。

 今日は祭りの前夜に当たる。杳夜(ようや)は明日は氷川神社で忙しく過ごすのであろう。


「今日はお店を早めに閉めて、部屋の飾り付けでもしようと思います」

「うん……いいと思うよ」


 にれかは改まって、杳夜(ようや)に礼を言った。


「明日、氷川神社に舞を見に行きますね」

「……ありがとう」



 杳夜(ようや)はにれかからもらった花飾りの入った袋を手に提げて、店を出た。振り返ってみると、にれかはもうすでに客のテーブルに注文を取りに行っている。杳夜(ようや)が見ていることに気づくそぶりもなくて、杳夜(ようや)はつまらなくて元来た道を踏みしめた。上手く伝えられないことばかりで、その場にあった小石を、戯れに蹴飛ばしてみる。それから空を仰ぎ見て、小さく溜息をついた。切なげな吐息に、空の遥かな青さが重なっている。

 にれかの喫茶店を出て氷川神社に向かって少し歩いていると、杳夜(ようや)はふと神命(かみ)の声を聞いた。鳥居の所にうっすらと、影のような光の揺らめきのいような佇まいが現れていたが、そこに杳夜(ようや)は気づくことなく、参道を歩いて社務所の方に向かう。

 神命(かみ)は言った。


『雨霧君、未来の妻は元気にしていたかい』

「ええ……まあ」


 杳夜(ようや)は歯切れの悪い返事をして、咳払いをした。にれかのことをあれこれと思い出しながら、表情を切り替えている。何処となく沈痛な面持ちで、自分への評価が低いところを温度の低い炎のように隠し持っているにれかのことを案ずるような言葉で、杳夜(ようや)はにれかを想っていた。


「にれかさんにはもっと……この町がにれかさんに感謝していることを知ってほしいものです」

『そうだよね、私もそう思うよ』


 参道を歩く杳夜(ようや)の隣を、背の高い揺らめきが並んで歩きながら呟いている。だけれど真面目な杳夜(ようや)に対して苦みの混ざった笑みを呈しながらも、神命(かみ)は何がそんなに喜ばしいのか、杳夜(ようや)に対して柔和に微笑んでいる様子であった。


『試されながらも楽しく過ごせているようで私は嬉しい』

『だけれど、忘れないでね。試しているのは私たち神命(かみ)ではなく、世界の方であることを』


 神命(かみ)の気配はそこで途絶えた。杳夜(ようや)はにれかのことを考えていた。いつか必ず伝えないといけないことがあった。だがそう言った気持ちに触れようとすると、いつだって涙が出てしまいそうになる。いつもいつも強がった上からの物言いになっているようで、にれかに嫌われていないかが、杳夜(ようや)にとっては怖いことであった。

 杳夜(ようや)は歩きながら袋の中身を見た。袋の中で紙製の箱を開ける。紙細工で出来た赤い薔薇と白い紫陽花の飾り。水祭りの時に飾る花を模してつくられたそれを、杳夜(ようや)はとても大切なものを抱えているかのように、大事に持って氷川の社務所に入った。今はまだ何も伝えられないけれども、伝えられるときが来たらこの手を取って貰えるように――淡いと言うには大人になりすぎた思いを心の片隅にしまって、杳夜(ようや)は社務所のデスクに向かった。



 その日の夜、にれかは宣言通りに早めに店を閉めた。明日は氷川神社で催しがあるので、店は休みになっていた。店に飾っていた杳夜(ようや)からの贈りものの薔薇をカフェ二階の自室へ運びこみ、寝室のテーブルに飾る。大輪の薔薇を見つめて、華やぎにしばらく心癒やされたあと、にれかは部屋に自分が作った花飾りを置いたり、神棚に榊の枝と御神酒を供えて、明日の祭りを迎える準備をする。

 生けた花の傍ら、にれかは椿のお茶を淹れた。征也(ゆきや)が受けた魔毒がきっかけで調合して作ったお茶であったが、最近のにれかのお気に入りのブレンドであった。杳夜(ようや)がくれた薔薇を眺めながら、にれかは肩にブランケットを羽織って温かいお茶を啜りながら、この日は何の勉強もせずに無心で薔薇に思い馳せて過ごしていた。杳夜(ようや)が何故薔薇をくれたのか、自分が薔薇が好きだと公言していたからなのだろうかと思いながらも、少し不思議に思いながら、分厚いベルベットのような花びらに触れてみる。杳夜(ようや)のことを思い出すと、決まって胸にこみ上げる悲しみに似た思いが、にれかの胸を薔薇色に染めていた。寂しいのに、何処か嬉しいような感覚に、同じことを未だかつて他の誰かや何かに想ったことがなくて分からないのだった。


(私はこの町が好き)


 ふと思い出したのは、氷川町の暖かな人々の心や声や笑顔であった。にれかが移住をしてきたとき、新しい住人だと温かく迎え入れてくれた。にれかが魔木を鎮めたときはよくやったねと家族のように褒めてくれた。にれかが神職の見習いをすることになったときは驚きながらも祝福をくれた。にれかが薬学の知識を元に喫茶店を出すと決めれば毎日のように来てくれる町の人々がいる。この町の活気はにれかを癒やしてくれる水そのもので、自分を必要としてくれる町の声に、にれかは救われていた。もう一つ故郷を得て、この土地に根付く社の子供になったのだと思った頃のにれかが遠い昔のように佇んでいる。内向的だった自分が、町の人々との交流をしていることだって、信じがたい変化であった。今では欠かさないやりとりや、欠かすことの出来ない人々で、にれかの人生は構成されていた。この町に新しく迎えられた征也(ゆきや)が、今の自分のようにいずれ、この町が好きだと想ってくれたらと、淡い期待をしながらにれかは窓辺の椅子に腰掛ける。

 特別な夜のように思えて、にれかは久々に酒を飲むことにした。にれかが故郷から輸入している酒である。お祭りの後に飲む酒にと、選んで買いに来てくれる客が多くなっているその銘柄は、上野名月という辛口のりんご酒だ。



『にれかさん、ありがとう』



 故郷で作られているりんご酒を今日は細い紙袋に入れて何度も渡した。季節の置物が一つ、また一つ売れていった。

 明日の夕方には神社で神職がついてくれたお餅が配られるので、にれかはそれを楽しみにしていた。

 明日は晴れるだろうか。神々が明日、水をお渡りになって氷川の森へお越しになる。晴れたらいいなと、にれかは思った。

 明日が晴れになるといいなんて、この町に暮らすより以前の自分では思わないであろう感情だった。この町に暮らすようになってから、心が自由になった気がする。かつての自分では心地よいと感じる余裕がなかったこと、見過ごしていた喜びに心が気づけるようになったのだ。いつであったか杳夜(ようや)が教えてくれたことがあった。自分を囚えて生きる必要はないのだと。自分にもっと、拡大することを許しなさいといった言葉であった。それが神託であったのか、にれかは知らない。

 故郷のりんご酒に口を付けて、にれかはほうっと温かい息をついた。神命(かみ)が青い朝陽を、待っている夜のこと、木霊(ドラド)の谺が聞こえない夜のことであった。



《了》

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