第33話『雨が降る』

 霧が出ていた。二年前の禍が思い出される夜であった。悪の血が干上がったときに漂う独特の生ぬるい風が何もないはずの場所から吹いてくる。

 ふと、にれかの想いの中に魔女の影が躍った。禍が来ていた二年前、当時も魔女が絡んでいたのだろうかと思ったのだ。当時は女悪魔の木霊(ドラド)が魔木に憑依をしたのか原因の一つだったと考えられていた。悪魔とは違う生き物であるが、魔女がいるとよくないことが起きるのである。魔は佳く生きている者の対極にある。対極にありながら反対ではない。魔とは存在の何処を見渡してみても分け入ってみても、魔としての存在で独立している。魔の本当の反対は、魔がいない状態のことを表す。魔はそこにいるだけで悪を呼び込む。だから魔は除けないといけないのである。日本語の魔除けは、魔を避けているわけではなく、出会わないようにすることと出会ったら退けることの意味を併せ持っている。

 にれかは鼠奈(そな)が蛇や虫を操る魔女だと見なして、攻撃のために繰り出してくる魔物を斃すよりも鼠奈(そな)本人を斃した方が早いとみた。短刀を守りの形から積極に転じ、複数の蛇を捌く。 

にれかは蛇を縦に裂くと、鼠奈(そな)の前に踏み込んだ。蛇を斬られて盾がなくなった鼠奈(そな)は、短いナイフを鞘から抜いている。ただ、鼠奈(そな)に関しては刃物による戦いの心得はないのかナイフを持つ手が震えていた。


「お前は魔女だね?」

「そうよ、だったら何?」

「お前の態度は淑女的じゃない」


 正体を問われて、鼠奈(そな)は自棄になりながら反駁する。にれかは鼠奈(そな)を窘めると、守りの型を続けていた短刀『水鏡』で、鼠奈(そな)がにれかの周りを迂回させて飛びかからせた蛇の首を斬った。斬り捨てると、地面に転がった蛇の口を短刀の先でこじ開けて、そこから更に蛇の舌を斬り落とす。舌を斬られてしまうと、蛇は再生能力を失い、そのまま長い胴体がエーテル体となって夜闇と炎の中に消えた。魔力が出なくなって、鼠奈(そな)は足下をふらつかせる。

 鼠奈(そな)の肌と肉体を襲っていたのは奪われている感覚であった。何か力強く美しい、貪婪な病の植物――そんな瑞々しい緑色から、体力も魔力も啜られている感覚が強かった。身体に力が入らない理由が分からないが、そんなことを零せるわけもなく、そのままにれかの短刀とナイフを打ち合う。

 にれかの刀は強かった。見た目はかなり華奢なにれかであったが、にれかが振るう刀の斬撃、その重みに鼠奈(そな)の腕ではついて行けない。戦いの心得がない鼠奈(そな)の腕力では、刃物の運び方を受けきれないのである。早く蛇を出して攻撃をしなくてはと鼠奈(そな)は額を汗ばませているが、肌からも魔物の気である毒が揮発してしまっていて目眩さえ覚えてしまう。

 にれかが涼しい顔なのは、これが植物病の副産物であるからだ。にれかが埼玉王国に来て患った肺、植物性造血障害は魔木からの憑依を受けてしまったときに発症したものであったが、憑依を除霊したあとには魔の力を吸収して自分の力に組み込むことが出来る植物の生命力としてにれかの力にもなっているのである。

 鼠奈(そな)は香水商がにれかに誰何して咎められていたときのことを思い出していた。鼠奈(そな)の顔は力が出せなくて歪んでいた。萎えて朽ち往く魔草のようである。

 誰何をしてはいけない人間の職業が、神官であることは知っていた。知識のみであるが。何故神官がこんなところにいるのかと零したくなる苦い顔のまま、もう後には引けなくて応戦する。鼠奈(そな)はにれかに対して防戦一方ではあるが、にれかはそれでも注意深くいるために集中力を目の奥で凝らした。例え相手が防ぐことに精一杯に見えたとしても、魔はそう言ったときに、刃物ではない突きを繰り出すのである。そうして本来の戦いとは別の場所で、戦いの風上にも置けない方法で足下を掬いにかかってくるからである。

 鼠奈(そな)のナイフが刃こぼれして、戦闘不能に陥った。


「――お前の負けだよ」


 そこでにれかは鼠奈(そな)に、無駄な抵抗をやめるように仄めかした。獲物が駄目になったから負けを認めろと告げているが、鼠奈(そな)のような魔の女が、そのようなことくらいで攻撃をやめるとは思っていない。何かしらの攻撃はあるであろうと想定しながら、にれかが構えていると、鼠奈(そな)は舌打ちして右手を高く上げた。すると、鼠奈(そな)が魔力を振り絞って出したエーテルの蛇が、背後からにれかを狙って突進する。だがにれかは蛇をひらりと除けた。にれかが攻撃を躱してしまうと、にれかの向かって正面にいた鼠奈(そな)に蛇は食らいつくこととなった。攻撃を除けたにれかと同じ軌道にいた鼠奈(そな)が蛇の一咬みを喰らうと、鼠奈(そな)はその場に倒れる。すぐに蛇毒が鼠奈(そな)の身体の中を回り始める。


「何で、神官が……こんなところに……!」


 神命(かみ)のための仕事をする神職のことを、神官という。悪がどれだけ疑問を感じて誰何し何者かを尋ねたところで、悪ではその心の深さと言葉の深淵は理解できない神職。魔に何者か訊かれたときに、応じることなく去って行く者。そして、魔に名前を訊かれたら応じずにその場を去ることの故事をつくった人間。魔が恐れる人間であった。

 鼠奈(そな)が苦鳴を上げて倒れると、にれかはすかさず、鼠奈(そな)に咬みついた蛇の首を断った。これ以上蛇がこの場所を穢さないようにするためであった。蛇の胴体は頭部を失って斃れ、頭は長い舌をでろりと垂らして転がった。蛇が完全に沈黙するまで、にれかはその場で刀を守りの型に戻して構えて立っている。

 体内に毒が回り始めて、倒れた鼠奈(そな)はにれかに縋った。


「ねえ、助けて……助けて……」


 無様に這いつくばって、鼠奈(そな)はにれかにいざり寄る。鼠奈(そな)の肌に毒素の色が見え始めていたので、にれかは少し考えてからこう呟いた。助けるには、守らせるべき条件が必要であった。


「薔子ちゃんに謝罪するなら、応急処置くらいしてもいいわ」

「しょうこ……誰それ……」

「私の店で働いている女の子。お前が人前で罵った相手だよ」


 鼠奈(そな)は必死ににれかに言い募った。


「あ、謝る、謝るから――」

「命の保証はできかねるけれど」


 鼠奈(そな)の懇願に折れたわけではない。にれかは鼠奈(そな)が薔子にしたことを許してはいなかっただけであった。此処で死なれるよりも、自分がしたことの始末くらいはさせたいと思ったのである。

 毒素の周りは早かった。それにこの場で全て対応が出来る怪我とは限らない。にれかは必ず助けられるとは言わずに、持っていた荷物から毒を吸引する器具を取り出した。鼠奈(そな)がエーテルの蛇に咬まれた部分に針を刺して毒を吸い込んでやる。

 鼠奈(そな)は意識を失いながら、にれかの仕事を見ていた。にれかのことを、綺麗なひとだと心から思った。そのことにだけ偽りはなかった。どうして自分は綺麗なひとや物に、憧れてばかりなのだろうと思いながら、鼠奈(そな)は完全に静止した。



 亜久郎(あくど)が杳夜(ようや)の刀を押して払うと、にれかの方に剣を振るった。奇妙な紫色の炎を宿した刀身から衝撃波がにれかがいる方へ飛んでいく。亜久郎(あくど)はにれかが鼠奈(そな)が受けた毒創の吸引していることは知らない。にれかが斬れる空気の音が聞こえてきたことに気づいた瞬間、杳夜(ようや)がその衝撃波に祓いを短く唱えて消し去ってしまう。不意打ちのつもりであったのか、亜久郎(あくど)は舌打ちした。

 亜久郎(あくど)は鼠奈(そな)がやられたことにすぐに気づいていた。鼠奈(そな)を置いて逃げるわけにはいかないが、自分の身が危ないので杳夜(ようや)とにれかを撒く方法を考えて思い巡らせている様子だった。或いは、邪魔な二人を殺して鼠奈(そな)を連れてこの場を離れることも考えついて、それを実行に移すにはどうするのが得策かを思案する。

 亜久郎(あくど)は斬られた身体から出てきたどろどろのタール状の液体で剣を包み込んだ。悪魔の体液は剣の刀身を意思ある別の生き物のように這って炎と合流する。形状を少し変えてみせた剣を一振りして、亜久郎(あくど)は杳夜(ようや)の瘴熱に灼けそうな顔を見据える。


「あんたみたいに頭の堅そうな男が、おれみたいに堕ちて生きていくのを見てみたいな」

「俺は卑劣にはなれない」

「はは、振られちゃった」


 杳夜(ようや)に対して、亜久郎(あくど)はひらひらと舌先を動かしながら笑った。そんな気はないが仲間にならないかと暗に仄めかしてみて、当然の反応にまたふざけた笑みを浮かべる。


「乗ってくれる奴も多いのにな。神社のおまわりさんは皆こうなのかな」


 杳夜(ようや)が地面を蹴って踏み込むと、亜久郎(あくど)は守りの体制に入った。杳夜(ようや)の刀と亜久郎(あくど)の剣、ぶつかった場所がぎらりと烈しい交錯を奏でる。


「話に乗るくらいなら俺は死ぬぞ」

「怖い怖い」


 亜久郎(あくど)はひらりと笑ったが、声は笑っていなかった。杳夜(ようや)に押されながらも、それでいて杳夜(ようや)のことは殺すつもりでいることが分かる目の奥をしている。刀と剣はぶつかり合うと紫色の燐光を何度も瞬かせた。杳夜(ようや)は目の奥に違和感を覚える。単純にこの悪魔が纏っている奇妙な光の所為だと見なしてはいたが、他にも要因を考える。悪魔は決して正々堂々とは戦わない生き物だ。自分が何かされていると仮定して考えることも忘れない。

 辺りを薄く紫色の粉が満たしていく。肉眼でも空気に仄かな色が付いて見えることが理解できるくらい、闇の中で紫の粉は細かい光を放っている。空気の匂いも強くなっていて、紫の光によって木々の表面が爛れていく香りが辺りから漂い始める。

 亜久郎(あくど)はどろどろした炎を刀身に纏わせた。杳夜(ようや)はその剣と何度も斬り合った。刃を受け止めながら、痛みを訴える目の奥の異変を悟らせまいとして瞬くことをせずにいた。目の神経に入ってくる不気味な光にかどわかされないように、なるべく外の夜闇を目の中に入れて戦った。亜久郎(あくど)は火の付いた紫色の粉で杳夜(ようや)に幻術を仕掛ける。杳夜(ようや)は空気中に水素を発生させて水の盾を作った。水の粒子で紫色の粉が持つ妙にぎらぎらした光から身を守る。

 亜久郎(あくど)は杳夜(ようや)に斬られた傷から炎を生み出した。粘ついた炎を纏う剣によって攻撃されて、杳夜(ようや)も火傷を負っていく。亜久郎(あくど)は杳夜(ようや)を挑発するように言った。


「もっと火を見ろよ」


 周りを移動している木霊(ドラド)と共鳴しながら、亜久郎(あくど)は魔木が持つ魔の力を自分に集めて供給させていた。魔木は炎の温度の樹液を噴出させる。

 その間ににれかは鼠奈(そな)の解毒を進めるために鼠奈(そな)の首を押さえていた。そのまま杳夜(ようや)に炎の温度が当たらないように、水球を空気中に作り出して火や熱された樹液の攻撃にぶつけていく。杳夜(ようや)は援護を受けて噴き出す溶岩のような樹液の線を斬って落としていった。熱された樹液と液状の炎が地に落ちて、地面が灼けていく。

 亜久郎(あくど)の動きに鈍さが出てきたところで、杳夜(ようや)は辺りに立ちこめていた水素で霧を作り出した。細かな粒の水が周りの炎の中で消えずに揺らめき、あたりに潤いをもたらす。霧で光から目を庇うと、杳夜(ようや)は気を溜める型を取っていた亜久郎(あくど)に打ち込んだ。

 杳夜(ようや)の斬撃は冷静に亜久郎(あくど)の腱を二カ所斬った。それから筋肉の一部分を細かく、合計十八カ所を斬って魔力を抑える。行使されたのは十八文字封じという魔を抑える型であった。亜久郎(あくど)が倒れると、杳夜(ようや)はすぐに傷が押さえた腱に言霊をいくつか入れて封じた。骨を斬らずに腱を断たれて亜久郎(あくど)は立ち上がろうとするが動けない。


「あれ、立てねえ」


 杳夜(ようや)は倒れた亜久郎(あくど)の顔の横に刀を突き刺した。同時に濃い霧が立ちこめると、低い黒雲からざっと音がして大雨が降り出した。



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