第32話『私が住む町の惨禍』

 大宮駅に降り立ったにれかを待っていたのは、魔に爛れた植物が空気中に放つ肺の内側に付着する粉の匂いであった。上野国から小さな荷物一つで移住してきたにれかを迎えてくれたのは、氷川町の宿で働いている綺堂真千花である。防塵のマスクは持ってきていたが、早速それを汽車を降りた駅構内で装着することとなる。


「ようこそ、荊にれかさん。此処が埼玉王国の副都市大宮です」


 にれかを駅まで迎えに来た真千花は名乗って、にれかの当面の逗留先に案内してくれた。埼玉王国からの救援要請に応えた上野国王家の命で遣わされる者の募集があり、にれかはそれに応募した。母が埼玉王国に暮らしていたこともあり、にれかはその窮状を聞いていたこともあって心を動かされた一人であった。祖父が亡くなった年で、祖母と一緒にいたら甘えてしまうと思ったから――そして、気鬱がちで生きている目標を失いがちな自分が、必要とされる場所を求めての移住であった。

 町の中は目に見えて空気が悪かった。魔木が突然大量発生し、大量の木霊(ドラド)が埼玉王国の自然に押し寄せて、憑依された樹木が異常を示していた魔木禍――マスクでは防ぎきれない、魔木から発生した毒の微粒子が、空気中に漂っていて町全体がくすんで見えた。胸が悪くなることが、すぐに覚悟できる空気の味がしていた。

 逗留先に荷物を置いて、医療が逼迫している病院を見学してから、にれかの仕事はまずは病院で始まった。神職と市民は魔木との戦闘と調伏、伐採の作業で怪我や病気をする者を大勢出していた。にれかはまず、怪我をして運び込まれてくる人々の治療に当たった。

 町の至る所では植物が自然に火を放っていた。魔木が空気の中の渇きと摩擦を起こして炎を出すのである。小規模な山火事に似ている現象であった。一日に何度も消防が出動して、魔木が出した火災を鎮火させるために稼働していた。にれかはその様子を、怪我人の手当てをしながら病院の中で毎日見ていた。

 氷川は美しい泉という意味の日本語の古語から由来する土地の名前であった。美しい水場を湛えている埼玉王国の名は、そのときにはこの国が存亡の危機にある災害にして禍の渦中にあったのである。水は毒された植物に啜られて枯れていた。いくつもの水辺が、当時一時的に干上がって姿を消していた。氷川は消えかけていた。本当に此処が、美しい水の故郷として有名な場所であるとは思えない様相を呈していた。

 住民たちは神職が中心となり魔木の調伏と伐採を続けていたが、魔木の除去と同時に今ある植物を守ることにも動いていた。氷川神社の神職と、氷川町の町長で国王の学友である木城大青が動いて、大地を守るための佳い植物を守るために植物農家が団結して、森を作れる木の苗を育てていった。残っている植物が毒に侵されないように、残っている魔木が魔に触れられないように、町人たちは植物を保護する活動に従事した。森や湿地を元に戻せるように、植物を育てて木の苗を育むことを、町を挙げて行っていた。

 当時、にれかの仕事は怪我人の治療と薬作りから始まっていた。魔毒から受けた傷や病気は、一般的な病や怪我とは治療法が違うのである。にれかは魔の病の専門家として、魔女殺しの血の渇きに引き寄せられて、埼玉王国の禍に向かって、助ける側の人間になったのかもしれなかった。

 一番の問題は、魔木が出している大気を汚す植物粉であった。これはにれかが大宮で汽車を降りたときから感じていた、空気に色さえ付けてしまうような植物性の粉で、吸い込むと胸に害悪が生じるものであった。植物粉は植物が葉や幹から出してしまう粉状の毒素で、花粉とは少し違う物質である。この粉によって胸を患っていた人々が多くいたので、にれかは肺を病んだ人たちに薬湯と粉薬を作った。植物粉による肺病や咳、喀血は、感染する病ではないことは分かっていたので、にれかは病院で薬を作って、魔毒への医療が進んでいる上野国での学びを薬に変えて患者たちに提供した。


「伐採された魔木の一部をいただけませんか?」

「そんなもの、何に使うんですか?」


 神職たちの魔木の調伏と伐採が進んでいる話を聞くようになると、にれかは病院の医局で立場が上の医師に提案した。調伏の後に伐採された魔木は、粉にされて煙が出ないように廃棄処分されていた。にれかがしようとしていたことは、魔木の薬用成分を抽出して、魔毒への薬を作り出そうとする試みであった。説明をすると、埼玉王国には魔物の毒に応じられる病院医師がいなくて、なかなか試みとしての気持ちの疎通が難しかった。


「魔木を薬用化できるんです、前例はあります」


 当時埼玉王国に大量発生していた魔木は何種類か存在していたが、にれかはその中の一種、一番最初に神職が調伏を行って成功したという樹木『月木(つきのき)』に注目した。上野国では月木を薬品に加工できる魔木であるという認識が強く、実際に医療の現場で使われているので、にれかは神職に協力を求めた。月木を小さく切ったものを持ってきてもらうと、その樹皮を煎じて薬用成分を粉にする。

 魔木の成分には薬になる有効成分も存在する。にれかが前例を知っていた種類の魔木は月木だけであったが、にれかはその他の調伏が済んだ魔木の成分も抽出して、水薬や粉薬に魔木の姿を変えさせていった。月木は上野国では薬以外にも生活用の薪としても使われていて、生活の中に組み込まれていることを患者たちには説明した。薬は魔毒を受けた患者に摂取されて、喀血まで症状が出てしまっていた患者の容態が快方へ向かうこともあった。薬の効果で肺の中の毒の湿潤と膿による汚れが消えて咳も治まっていく。にれかは治療効果と実績があることを伝えて理解を得ながら薬湯や薬の調合と生成を続けていく毎日であった。


「荊さん、魔木を調伏して倒れた神職の方が運ばれてきます、担当をお願いします!」

「承知しました! すぐに向かいます」


 にれかは病院の中を、救急の患者が担ぎ込まれてくると聞いて駆け抜けて迎えていた。担架を迎えると、運び込んできた救急の担当者から患者の詳細を容態を聞かされる。移動式の寝台に乗せられたその人は、青い袴を穿いていた。上に纏っているのは血に汚れた白衣である。一目で神職だと分かる格好であったので、にれかは救急の担当者と寝台を処置室へと移動させながら声を掛けた。神職に意識はなかった。呼びかけても返事はない。


「名前は雨霧杳夜(ようや)。氷川神社の神職です。巨大な月木との交戦と調伏を経て倒れて、意識が戻りません」

「雨霧さん、聞こえますか? 雨霧さん――駄目ね、返事がない」


 杳夜(ようや)の身体には、魔木からの攻撃で受けた裂傷からの出血と、体内では瘴熱が立ちこめていて熱が体外に出ていかずに呻いていたところ、意識が途切れて倒れたそうであった。

 処置室に入ると、にれかは傷の消毒から始めた。魔毒を拭き取るための特別な薬剤を消毒液で拭いてから肌と傷に触れさせると、都度杳夜(ようや)が痛みで目を覚まさないかを確認する。


(熱が酷い……解熱剤と薬湯を飲ませなきゃ。でも点滴の方がいいな)


 裂傷の処置を手早く行うと、にれかは杳夜(ようや)の腕にガーゼを貼って包帯を巻いた。それから血管を確認して点滴の針を刺す。薬を入れて様子見をしながら、額には冷たく冷やした布で保冷剤を巻き、乗せておく。頭の下にも氷枕を敷いて、時折水差しで薬を溶かした水を飲ませてやった。瘴毒に浮かされて酷い熱であった。首や脇の太い血管を保冷剤で冷やしながら、にれかは杳夜(ようや)の傍にいた。その数日の間で、一番酷い状態の患者であった。

 冷たく冷やしたパイル地の布で、瘴熱で汗ばんだ首を、にれかは時々拭いてあげていた。杳夜(ようや)は熱に魘されていたが、にれかが水差しで水を飲ませると、少しずつ水分を受け付けるようになった。男性の看護師と交代で、にれかはその日の夜、杳夜(ようや)の傍に付き添った。看護師が杳夜(ようや)の服を着替えさせてくれていたので、にれかは新しいパイル地の布を畳んで、病室に運んだ。夜の向こうから、炎が上がっているのがちらちらと見えた。また火事が起きたのだろうか。奇妙な霊の叫ぶ声がした。にれかは埼玉王国に来てからは、上野では聞いたことがないくらいの木霊(ドラド)の声を聞いていた。国の何処かに悪魔が出たから国に木霊(ドラド)が押し寄せた――魔木禍の真相は、神命(かみ)も知らない。魔が何処からやって来るのか、神命(かみ)さえ、魔がそこにいたことからしか気づけることがないのである。神命(かみ)も人間のために、人間と共に考えることをしているのだとにれかが教わるのはこのあとであった。にれかは人肌に温くして冷ました薬湯を、水差しに入れて運んでいた。杳夜(ようや)の乾いた唇に水差しの先端を運んで、薬湯を含ませる。


(このひとが目を醒まされたら……何て声を掛けようかしら……)


 にれかはカーテンを少しだけ開けて、窓の外を見てから杳夜(ようや)の傍らへ戻った。明らかに魔から受けた瘴気が抜けていっている杳夜(ようや)の端正な面差しを注意深く経過を見ながら、眉尻を下げている。ふと、このままこのひとが目を醒まさなかったらどうしようと、不思議な心配が頭を過る。

 杳夜(ようや)の頬に冷たい布が触れたときであった。短い睫毛をゆっくりと震わせて、杳夜(ようや)が目を醒ました。ぼうっと天井を見上げていたが、それは目がよく見えていないからのようであった。しばらくすると何度か目を瞬いて、視界の端に映っていたにれかの美貌を認める。杳夜(ようや)の瞳から靄のような揺らめきが消える。にれかがタオルを持っていた手を引っ込めると、杳夜(ようや)は悲しそうに目を見張った。にれかは伏しがちの長い睫毛をぱちくりさせた。言葉はなかった。安堵ともなんとも言えない空気が、風も音もなく通り過ぎる。

 杳夜(ようや)は緊張の糸がふっつりと切れたかのように、溜息に似た吐息を零した。まだ身体にあってはならない毒の熱がある者の温度をした呼吸であった。消えてしまいそうな切なさが呼吸になって消える。にれかの姿を見て、とても美しいものを目撃したかのように硬直していた。

 思わず涙が出て、にれかは涙ぐんでしまった自分に気づくと、手の甲で綺麗な涙を拭った。助けられなかった者だって、一人や二人ではなかったのである。目を醒ましてくれたことが嬉しくて、なのに嬉しいというわけにはいかなくて、もどかしい気持ちで一度杳夜(ようや)から目をそらす。

 杳夜(ようや)はにれかの装いと、傍にいてくれたことから何か悟ったようであった。自分が魔木の討伐で魔の植物と相討ちになって倒れたことをゆるゆると思い出し、手当をされている自分の身体を顧みる。それから今一度にれかの方を見て、光を見ている悲しげな瞳に活力の熾火を見せる。


「あの……あなたは」


 にれかは杳夜(ようや)が意識を取り戻したので、自分の名前を言えるかどうか確認をした。


「目が醒めたみたいでよかったです。お名前は言えますか?」

「雨霧、杳夜(ようや)、です」


 ほっと息をついて、にれかはぎこちなく微笑んでみせる。


「私は、植物薬剤師の荊にれかです。初めまして」


 にれかがこの町の病院に来てから、運び込まれてきて最初に目を醒ましてくれた患者が杳夜(ようや)であった。にれかはこの日のことを忘れてはいけないと思っているし、努めて覚えていないといけないと思っていた。出来ることとして学んできたことはあっても、何からやっていいものか分からない日々。認識が上野国とは違っていて上手く進められない魔木の薬用化。運び込まれてきた患者たちの魔毒による病死。悲しんではいられない窮状。そんな出来事の連続の中で、にれかが初めて、この国に来て自分の仕事でひとをやっと一人守ることが出来たと感じられた瞬間であった。

 自分がいなくても、世界は何も気にしない――そんな寂しく冷たい影が、にれかからそっと離れた感覚があった。自分が必要とされることに飢えていた悲しみが、ほどけていく。その想いが氷解していくことに気づけないまま、にれかは杳夜(ようや)に名前を言っていた。

 あの頃の自分に、消えてしまいたいと思うことが必ずしも悪だとは言わない。あの頃の自分は、気鬱の心を抱えながら、自分の仕事を必要としてくれる何かや誰かを探して無理をしてでも励むことで心の冷えた場所を癒やしていたのだ。そう思っていた自分もまた、当時の大切な自分なのだと、変えることが出来なかった悲しい心を抱きしめて生きていた立派な自分であったのだと、にれかは信じることにしていた。

 消えるように死ぬことが出来たらよかったのに。それは今でも、時々思うことである。だけれどそれでも今この町には、にれかに何かがあるというだけで日常を非日常にしてしまうひとたちが大勢いる。荊にれかという自分を亡くしたら、失ってしまうものがたくさんある人々が、この町には暮らしているのだ。

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