第31話『神命の柱』
にれかは祓いの言葉を唱えた。神官としての力を使うべく、神命(かみ)の柱になる強い集中力で自らの芯の一点に光を宿す。荊鞭を巻いて腰に着けると、今度は短刀を鞘から抜いた。刃こそ抜き放ったが、にれかは両手で柄を握りしめて、その場に強集中の構えで屹立するだけの佇まいであった。伏しがちな長い睫毛の細部にまで、にれかの内側の植物が水に宿る麗しい霊力を湛えさせて瞬きもしない。鼠奈(そな)は動けない。にれかの内側から、神命(かみ)に信じられている者が持つ独特の気迫が覇気となって迸る。闇の中に掛かる注連縄が、魔の訪れで焼き切れていた部分が、自己再生を始めている。
空は変わらず重かった。低い黒雲は厚みを増している。炎の匂いの狭間に、にれかの鼻先が恵まれたひとしずくの潤いを感じ取る。
「私たちは、私たちに感謝することよりも、私たちを嘆かせないことを、強いて言うなら強いてみたいものなのよ――」
にれかの内側の芯に、光が一直線に落ちて拡散した。にれかの唇から渇きを奪ったその言葉に、鼠奈(そな)は身体の中身が瘧のように震えるのを感じる。足が竦む。意思に反して震え出す。膝が笑っている。にれかの言葉でありながら彼女の言葉ではない重なった心の光に、鼠奈(そな)は灼かれなくてはならなかった。理解しているのは、何が起きたのかを自分が分かっていないことだけであった。知りたくなくて意識が痙攣していた。神命(かみ)を知ったら魔は死なないといけないのだ。変わらなくてはならなくなるのだ。仲間を裏切らなければならなくなるのだ。身体の内側から、自分が乾いていく感覚を強く感じて鼠奈(そな)は自分の喉を絞めた。影を持たない神命(かみ)が渡すものは受け取る者の姿でその様相を変えてしまう。にれかの唇を鮮やかにした潤いは、鼠奈(そな)にとっては甘露とはならなかったのである。
にれかは短刀を構えたまま、守りの型を貫いていた。そのまま魔木との交信・意思疎通を図る。魔木の中の泣いている植物と心を出会わせる。この場所の魔木には、神木を守るための仕事があるのである。魔が聖域に入れた木霊(ドラド)を受け込んでしまい、魔物に転じてはいるが、歔欷の気配がある。
鼠奈(そな)はにれかの気迫に怯えながら、自分で自分の首を絞めて嘔吐(えず)いていた。自分の行為の理由も分からず、真正面から光を受けてしまって意識の死を迎えてしまっていた。にれかは鼠奈(そな)の状態を目の端には置きながら、魔木とのやりとりの方に心を傾けた。
香水商は事切れていた。魔木に身体の中身を全て啜り取られて、白かった顔は次第に青ざめている。香水商の肉体そのものは沈黙して空しかったが、香水商の意識体は魔木の呻きを借りてにれかに誰何した。にれかは魔木に移り込んだ香水商の意識を探るため、魔木と交信を続けて集中を黒い目の奥に青く瞬かせた。
「お前は、誰――何者、か? 助けて、くれ――」
魔木が呻きを声にした。香水商はにれかに助けを求めているようであったが、にれかはもう遅いと言わんばかりににべなく呟いている。
「分からないの? 私は、正体を尋ねることが禁じられている存在なのよ」
「誰何をしたらいけない相手のことを、教わったことがないのかしら」
亜久郎(あくど)の尖った耳が剣を押している最中にぴくりと震えた。にれかが問い返すと、魔木の中で香水商の意識は痙攣していてほどけそうであった。にれかの声音に気迫を感じていることが、にれか自身にも肌に伝わるものを感じて認識していた。同時に、杳夜(ようや)の目の奥が、亜久郎(あくど)の内側に何も通っていない道を見つける。虚ろではない、亜久郎(あくど)の魔という概念化に於ける存在の、杳夜(ようや)の刀が通過できる小径を見出して、杳夜(ようや)は袈裟斬りに刀を振るった。
杳夜(ようや)が見切っていたのは亜久郎(あくど)に出来ていた空虚であった。攻撃を受け止めることが出来ない姿勢になり、剣を持った手をもつれさせる。亜久郎(あくど)の傷から黒い金属質の液体が流れる。その黒さと有毒の金属を含有する流れを見て、杳夜(ようや)は目を細めた。亜久郎(あくど)が魔であることは分かっていたが、その正体を見つける。杳夜(ようや)は額の汗を拭った。自分の吐息が熱くて、美味く呼吸が出来なかった。
「お前、悪魔だな」
「へへへ……中身、出ちゃった……」
周囲の魔木に憑依していた木霊(ドラド)の意識が亜久郎(あくど)に向かって集まっていく。傷を負って出血した亜久郎(あくど)が、何かはじめたとみて、杳夜(ようや)は再び構えた。何か隠し手のようなものを持っているかもしれないと想定して、乾いた唇を舐める。魔は正当な方法で戦おうとすることは殆どないからである。足下を掬われるのは、いつだって人間の方なのである。
亜久郎(あくど)は木霊(ドラド)の意識を探って、木霊(ドラド)たちと同じ意識の周波数に自身を変化させながら、魂の闇で共鳴を始めていた。木霊(ドラド)を利用して、魔の力を集めているようである。斬られた蛇の身体が地面に接触して作った毒の沼からも力を集めている様子であった。その毒を使って、身体の出血を抑え込もうとしていた。
「にれかさん!」
杳夜(ようや)はにれかを振り返らずに名前を呼んだ。同時に、にれかの心に杳夜(ようや)が願ったことが届く。信頼よりも強い、神命(かみ)が信じ神命(かみ)を信じる二人だからこそ出来る意思の疎通であった。
「はい!」
杳夜(ようや)の心はこうである――この祠の聖域に広がった毒素を清めてほしい――にれかは短く返事だけをすると、辺りを清浄してしまう水素を風の中に生み出していた。炎や燐光、死んだ蛇の血から出来た毒で汚れていた場所が、空気中の目に見えない水気に触れて透明に拡散して綺麗な霧に姿を変える。毒が消えるときに無害で清らかな水が発生し、辺りに温い風が吹き付けた。結露した月草が、夜闇の中で燐光に雫を艶めかせていた。
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