第29話『魔木たちの夜』

『にれかはたくさんのひとに、必要とされているんだからね』


 お守りのような言葉は、にれかが心配になっているときに心の中で思い起こす言葉であった。上野国の実家を、送り出してくれた祖母からの言葉であった。

 にれかは何故か、夜の下で、上野国から引っ越しをし埼玉王国への移住を決めた時のことを思い出していた。魔木禍――国内に魔木が大量発生してしまうと言う異常現象が発生し、魔木の異常生育と疫病の流行をこの土地が経験していた頃の話である。女の悪魔が出て、取り憑かれた植物が魔木となり、恐ろしい病毒を放ってひとに襲いかかり喰らうようになって害を出した。


「大丈夫、神命(かみ)様方が俺たちを見守ってくださっているから」


 にれかが車から降り、次いで杳夜(ようや)も車から降りる。杳夜(ようや)は手袋をして腰に剣を佩くと、にれかに心配をしないでほしいのか、そんなことを気遣って言ってくれた。

 気鬱がちでままならない心と少しだけの勇気を持って、にれかは埼玉にやって来た。ひとがたくさん死んでしまうところに行けば、気鬱な心はなくなると思っていたあの頃。上野国から植物薬剤師として採用されてこの土地に入った日を何となしに思い出す。

 町は当時、魔木から出る粉で汚れていて、にれかも肺を喉や痛めながら来る日も来る日も薬剤や薬草で魔木に爛れて病気になった人々のために薬を作っていた。当時杳夜(ようや)が調伏をして刈り取ることができた魔木を原材料にして薬を作ることに成功して喜ばれたこともあったと思い出す。神職に従って氷川の森にも入ったが、にれかが氷川神社に奉職して以来の氷川水源となる。

 魔木から薬を作れた喜びや、重病人が自分の作った薬で回復してくれたときの嬉しさ、清水瀧ノ神命(かみ)の妻の言葉が自分を通って響き渡った時を思い出して、にれかはきゅっと唇を噛み込んだ。私なんていなくても、世界は何も変わらないと思っていた。そう思うことで心を守っていた自分の影は、今のにれかに音もなく影もなく寄り添っていた。ただ、そう思っていた頃と違った横顔をして、いつだって自分の背後を守ってくれている自分の姿をした影であった。自信はなかなかついてこない。それでも気がついたときに積み上げていた日々の歩みが、にれかをこの町の危機の時に戦えるひとに、誰かのために動ける存在に変えてくれていた。重ねた日々に、にれかの心を巣喰っていた無価値な自分を強く感じる感受性は希薄になっている。

 杳夜(ようや)は耳に掛けてある無線機をぱちんと弾いた。神社にいる仲間からの通信が終わったようであった。車を停めた場所から、鳥居をくぐって氷川水源への道を踏みしめる。にれかは手にマッチを擦って、角灯二つに灯りを入れた。炎は大きく荒ぶってから、ゆらりと揺らめいて、それから硝子の中で外からの風を受けてどろどろと燃えて光源になる。温い風が重たい雲をした空の下を、水源の奥の方から移動している。にれかと杳夜(ようや)が少し先に進むと、大きなワゴン車が無造作に停めてあった。


「誰かいるな」

「急ぎましょう」


 杳夜(ようや)が先頭になって、にれかがその後に続いて鳥居の先へ進む。辺りの闇を透かしながら、石造りの道を静かに、しかし急いで歩く。


「闇市の主催だった件の香水商は香水以外にも煙草や芳香剤を仕事で生産していて、国外に薬局も持っている男だった。不味い話だと思わない?」

「薬局をですか? それで魔木を買い付けていたとしたら危ないですね。薬品卸の仕事などで魔木から取った成分が使えないか企んでいたとしたら……」


 森の北には強い魔木と一緒に、役割を共有して敢えて神木が植えられて共存している場所と区画がある。氷川水源はそこに大きな水辺を持つ。大きな山肌が壁となり、瀧と湧き水が町へ清流を流している。

 水祭りの期間なのに、神命(かみ)に申し訳ないと言いたそうな顔をして杳夜(ようや)は頭上にいくつもある注連縄を見上げた。夜は落ちてきそうなくらい、どんよりと曇っていた。雷の音は聞こえないが、低い黒雲がゆらゆらと不穏に漂っている。

 森の奥まで入ると、魔木と木霊(ドラド)の声がした。風のざわめきに混ざって、入ってきたにれかと杳夜(ようや)に金切り声に似た揺らめきが肌にまとわりつく。


「引き返せ」「引き返せ」


 普段、魔木はこのように言葉を発さない。杳夜(ようや)とにれかは魔木が木霊(ドラド)に憑依されてしまう現象が少なからず起きているとみて先へ進んだ。悪魔や魔女がいると、木霊(ドラド)は何処からかやって来て、魔木に悪いことをする。鼻先を藁が摩擦熱で燃える匂いが掠めていく。燃え残った注連縄の匂いに、杳夜(ようや)は魔の気配を感じて、周囲に気を張って哨戒した。にれかは反対に、今歩いてきた道に結界を張って道を残しておいた。

 やがて森の開けたところに来ると、まだ奥に瀧場と湧き水の出る水源を控えた祠の在る場所に、にれかと杳夜(ようや)は死者を見た。倒れている男たちは皆、香水商の部下たちだった。


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