第28話『信号無視』
征也(ゆきや)と薔子は氷川の森に沿って車を走らせていた。目的地は浦和方面、まずは隠された下道を通って浦和へ抜けることが二人の目標であった。同じ道を通ってくるであろう征也(ゆきや)の探し人と香水商の仲間を捕らえるためであった。香水商とその仲間、征也(ゆきや)の追っている人物が同じ道を通じて浦和へ向かっているため、征也(ゆきや)が運転役を買って出たのであった。
森に沿って作られた街灯のない道路を進んでいると、森の淵に沿って咲いている満月露草の葉の中に溜まった水が月明かりを映し出してきらきらと光っていた。まるで灯りが灯っているような小さな輝きの乱反射に、征也(ゆきや)は何か導きのようなものを感じずにはいられなかった。光の実情は満月露草の露が月光を撥ねているだけだというのに、心の中に使命感が俄に燃え上がる。神命(かみ)が自分のことを、見ていてくれているような感覚であった。だが征也(ゆきや)は、神命(かみ)が自分を見ていようといまいと、関係なかったであろう。
満月露草の光を辿って道沿いに森の淵へ向かう。この日は電灯かと幻視しそうな強い月光で、夜全体が明るかった。薔子と征也(ゆきや)がいる場所は、にれかと杳夜(ようや)が進んでいる場所とはまるで違っていた。向かう先まで明るいような、奇蹟の導きみたいな夜を感じる。満月露草の灯りが、月光の元でしゃらしゃらと風に揺蕩うていた。光は美しく、力強く二人を導いていた。
前方に小型のトラックが走っていた。荷台には植木が積まれていた。
「薔子さん、この先って道はどうなってますか?」
「もう少し先に行ったら、T字路があって、そこにちょっと長い信号があります。そこを右に曲がります」
前の車の助手席に乗っていた影が此方を振り返る。その影は隣に乗っている影に何か言っていた。すると、前の車は速度を上げ始めた。不審に思った薔子が助手席から征也(ゆきや)を見ると、征也(ゆきや)も変に感じたのか、自然と速度を上げながら、薔子に尋ねる。
「災害用の道路って、その路地からどれくらいですか」
「すぐですよ、小さなトンネルがあって、そこを出るとその道路です」
「何だろう、前のトラック……距離を開けられたな」
「それにしても、前の車、その道を通るのかしら……そうだとしたら」
「怪しいな!」
征也(ゆきや)はアクセルを踏み込んだ。前のトラックに接近する。夜の中で目を凝らし、征也(ゆきや)はトラックの座席部分が見える窓を睨んだ。同時にクラクションを鳴らす。前方で助手席に座っていたのは女であった。征也(ゆきや)は弾かれたように表情を変える。思いも寄らないところで知っている誰かを目撃した者のそれである。
「鮫島さん? 知ってるひとですか?」
「魔女です。おれが追っている女が使っていた部下だ」
前のトラックは加速して細くなった道を突き進んだ。神命(かみ)々々がお渡りになる水路があるのも拘わらずけたたましく速度を上げていく音が響く。
「追えるか……?」
T字路にさしかかった。目の前の信号が赤に切り替わる。だが先を行くトラックは赤信号を無視して止まらずに進んでしまった。これが前方の車に乗る人物が薔子と征也(ゆきや)から逃げていることを物語っていた。
「くそっ、信号が」
征也(ゆきや)は口惜しげに奥歯を噛んだ。止まらざるを得ない赤信号に急ブレーキをかけて、ハンドルを強く握り込む。このままでは魔女の車を逃がしてしまうが、信号無視はいけない――薔子が征也(ゆきや)の横顔を見ておろおろしたときであった。
征也(ゆきや)と薔子の前方、T字路の左側の闇の中から、突如大型車が現れた。かろうじて大型車であることを目が捉えられる速度で光のように瞬きの狭間に現れると、そのままもの凄い速度で前進、赤信号を無視して曲ったばかりのトラックに追突した。トラックは横転して、荷台に載せていた荷物の植木が道路に散乱する。青信号で直進してきた光のような車は、そのまま浦和方面の道に吸い込まれるように消えて、トンネルの中に見えなくなった。
トラックは横転して動くのをやめた。その頃合いで信号が青に変わり、征也(ゆきや)は車を発進、転がってしまったトラックの近くに車を寄せた。急いで車を降りて、トラックの周りを警戒する。
「植物市で買ったものかな……」
薔子も助手席を降りて壊れた植木鉢の植物を確認しては、倒れていた状態から元に戻していく。それが済むと、薔子はトラックの助手席の扉を開けてみた。女が一人、呻いていた。頭と身体を打ったようで、動けない様子であった。運転席側の扉は道路に接してしまっているので、征也(ゆきや)も開けられる方の扉に近づく。
助手席の扉を開けると、薔子の肌が粟立った。薔子の植物性斑病が反応を示していたのだ。毒が近くにあると、薔子の肌は異変を見せる。原因は開けた扉の向こうにいた魔女であった。半ば拒絶反応的に、薔子の顔の皮膚にぼんやりと痣状の染みが出る。魔女は人間にとっては、黴菌のようなものなのである。あらゆる病を連れてくる、不衛生と言う意味で卑猥な概念であった。
魔女は目眩が去ると、薔子が扉を開けていることに気づいてぎょっとした顔になる。だが、魔女が驚きの声を上げたのは、夜だったから手袋をしていなかった薔子の手にできていた痣を見てのことだった。魔女はあらゆる方法と表現で人間の真逆であり、ひとを傷つけることを本能的に常に考えているのである。
「何この手、気持ち悪っ!」
聞き覚えのある侮辱の仕方に薔子は目を瞬いた。魔はいつだって、人間が本人の努力や頑張りではどうにも変えられないことを槍玉に挙げて笑ったり責めたりするのだ。征也(ゆきや)が無言で魔女の襟首を掴み、車内から引きずり出した。その剣幕は薔子への侮辱に滴る怒りで濡れている。魔女の本能など征也(ゆきや)は知らないが、何故こうも障ることばかり考えているみたいなことしか言えないのかと噛み込んだ唇が震えていた。征也(ゆきや)は魔女を地面に叩きつけた。運転手の方は気絶している。
征也(ゆきや)は手早く魔女を拘束する用意をしながら、同時に尋ねていた。
「この植物を運んでいるのはどうしてだ」
魔女は口汚く、畜生と呟いただけであった。征也(ゆきや)は蔑むような眼差しで、魔女を見下ろした。
「理由はたくさん、訊かせてもらうからな」
「征也(ゆきや)さん……以前、にれかさんのお店に、私の痣を見てこの魔女と同じことを言った女がいたんです」
「何ですって? 魔女だな、そいつ」
薔子はにれかの店で言われたことを思い出して震えていた。鼠奈(そな)のことを思い出したのだ。
「絶対魔女だわ……捕まえなきゃ……」
一緒にいた男も悪い男に違いない――薔子はそう感じて、町の方向を見つめた。
征也(ゆきや)は魔女の手足を縛ると、闇から出てきた車が吸い込まれるようにして消えてしまったトンネルの方を見つめた。目の前で起きたのは接触事故だったのに、征也(ゆきや)も薔子も、青信号で突っ込んできた車のことは考えなくていいと諭されていたのであった。少なくとも、征也(ゆきや)と薔子は赤信号を守ったのである。
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