第22話『淡い夢』

 にれかは自宅で眠っていた。植物市の日、この日は店を休みにしていた。時間になったら杳夜(ようや)と待ち合わせて、ほしかった植物や樹木、薬草の苗や香草の種、樹皮の乾燥したものなどを大量に入手したあとだった。店を開ける予定はなかったので、にれかはベッドの中にいた。薬湯を飲んで、横になっていた。

 体調を崩して、眠りの大切さを感じながら、今の自分が甘えて過ごしている感覚からかなり解放されたような気分で眠りの世界の住人になっていた。夢の世界でにれかは、母国にして母の故郷である上野国の山の奥にある母の実家にいた。にれかの両親が離婚をしてから、にれかが父親から離れるために暮らしていた、母の実家の景色の中で、にれかはこれが夢だとは気づかずに過ごしていた。

 にれかは古びた家、板を切り貼りしてつくったような平屋の一軒屋、その居間に作られた掘り炬燵(ごたつ)にあたりながら勉強をしていた。時間だけは余るほどあった当時、にれかは父親の母に対する暴言で心を病ませてしまって、何もせずに祖母の元で療養をしていた期間があった。

 母親とはあまり一緒に過ごさず、にれかはそこで祖父母と三人で暮らしていた。日本語教師だった母から譲られた日本語の教本を、日がな一日読みふけっては、練習問題に取り組んでいた。当時は何にも役に立つことはないと思われていた教本と、書くことに耽っていた時間。

 時を経てにれかは、神職と共に一年間修行をすることとなる。そのときに、日本語に正しい知識と発音と文法を求められて日本語の学習が役になったときのことは、にれかにとって大切な想い出であった。自分が無意識に取り組んでいたことが光を突如浴びたかのように喜ばれたことがこそばゆく、人生に無駄なことなんて何もないようになっているんだと思った瞬間であった。

 埼玉王国は元々、にれかの母の引っ越し先だった。にれかは母が暮らしている国の窮状を知り、志願兵になるような気持ちで魔木禍のもとにある埼玉に移住をした。自信なんてなかった自分の姿にだけ、自信があった。心許なく足下さえ覚束ないような自分に、居場所になってくれる土地はないように思えて、これからの人生をどうしたらいいのだろうかと途方に暮れながら静かに藻掻き、水に沈んでいたような期間を終わらせてくれた決意だけがにれかを変えてくれたのだと顧みていた。

 時間が過ぎて時も流れて、当時のことをそう思い出せるようになったにれかのことを、夢の中のにれかは忘れていた。行き先のない自分に、見えない未来を重ねて悲観する気持ちを涙と共に飲み込んでいた。

 教本の綴りをなぞり、文法の構造をノートに書くことに手が疲れて作業をの手を止めたときだった。ふと、顔を上げると、掘り炬燵の向かいの席――いつもは祖父が座っている――その席に美しい女性が座っていた。面識のない女性であったが、ずっと昔から知っているような感覚をふと覚えた。懐かしさとは違っていたが、日頃から親しみを知っているはずの相手である。にれかはきょとんとして、その女性を見つめた。吸い込まれそうな瞳をした美女は、勉強で不安を誤魔化しているにれかにやさしく微笑みかけたのだった。


『にれちゃん』


 呼びかけられて、にれかは喉元からさえ言葉をなくしていた。何か感嘆の言葉ひとひらさえ、無粋なように思えたのだった。その女性に魅入られるままに、にれかはぼうっとしていた。


『にれちゃん、お勉強、えらいね』

『にれちゃんは、この国の星なのよ。いつまでも、いつまでも』

『いずれあなたがこの国のために泣くときに、皆があなたを想って泣くでしょう』


 ――何か返事をしたような気がしたが、聞こえる言葉にはならなかった。だがその女性にはにれかが言おうとしていたことは伝わっていたらしかった。何も言えないままの沈黙を埋めるように、庭先の杏子の木が風に躍って、ざわざわと音を立てる。


『その時に、会いましょうね、きっと、必ずですよ』


 話が終わりそうになって、にれかは指先を開いて伸ばそうとした。目の前のよく知った筈の面識ない美しいひとが消えてしまうと思ったのである。風に揺られて杏子の実が一粒地面に落ちて傷を負って汚れていた。風のざわめきの中に、休んでいる日常が消えていく。

 にれかがいつも、祖母の家に居るときに座っている特等席の後ろで電話が鳴っていた。電話の音が聞こえたのか、美しいひとは電話に出るようににれかに促した。


『にれちゃん、きっと、雨霧君だから……電話、出てあげてね……』



 ――胸の中の熱が、すうっと引いていった。にれかがはたと目を醒ましたとき、電話が鳴っていた。慌ててかぶっていた毛布を剥ぐと、受話器を持ち上げる。けたたましく電話が鳴っていて、夢にみていたことは一瞬で蒸発してしまっていたが、にれかが電話を取ると、受話器の向こう側に居たのは杳夜(ようや)だった。時計を見ると、先程杳夜(ようや)と別れて眠り始めてから、随分時間が過ぎている。


「もしもし、にれかさんですか? 雨霧です」

「雨霧さん? どうかされましたか?」


 にれかはゆるゆると、夢で見ていた景色を思い出しながら杳夜(ようや)に応じた。何かがあったのだろうかと、急いでいそうな声音の杳夜(ようや)に尋ねる。


「何かありました?」

「実は、植物市で煙草を買って吸ったひとが何人も昏倒してて、神社で診ている処なんですよ」

「植物市の商品でですか? 昏倒って……」


 にれかが声を詰まらせると、杳夜(ようや)は説明を続けた。


「煙草に使われている植物に、煙草の原材料以外の魔草が混入している可能性があって。にれかさんにも来てほしいんです。治療活動のために」

「はい、すぐに向かいます……煙草ですよね、解毒剤がありますから持っていきますね」

「体調悪いところすみません、社に来たら声かけてください。今神社に居るんで」

「承知しました」


 電話の主が杳夜(ようや)であったことを不思議に思う暇もないまま、にれかは支度を始めた。髪を解いて横になっていたので、急いで髪を手櫛で纏めると、ささっと結い上げて一階に下りる。


(煙草、煙草の毒なら……)


 にれかは薬剤をしまっている植物薬剤師の業務に当たっているときに使用している部屋に入ると、棚の中から薬品を漁った。子供が煙草を誤飲したときの処置に使う薬なども用意する。煙草を吸って昏倒とはどういうことなのか、にれかにはよく分からなかったので、煙草の誤飲事故が発生したときの手当に使えるものは鞄に詰め込んでおいた。それから簡単にその場で飲める薬湯を作れる薬草の乾燥したものを薬箱に詰めて、それを背負うと、にれかは家を出た。

 煙草に変な材料が使われているのなら解毒が必要だが、何の魔草が混入しているか分からない状況なので、そこは神社の医師の解析を待ちながらの処置になるだろうかと思考を巡らせながら氷川神社の参道を自転車で進んでいく。社務所のところで自転車を降りると、にれかは杳夜(ようや)と合流した。杳夜(ようや)が入口の鳥居のところで、にれかを待っていてくれていた。

 杳夜(ようや)は申し訳なさそうに頭を下げる。にれかが体調不良だったことは知っていたので、呼ぶのは忍びないと思っていたようであった。


「休んでいたところにすみません」

「いいえ、何があったんですか」

「あっ、にれかさんが来た!」


 社務所の中に入ると、多侑や真千花が歩けない人々の介抱を手伝っている様子が見受けられた。多侑が表情を曇らせながら、にれかに伝える。


「植物市で煙草を買ったひとが次々に倒れたり、胸の苦しみを訴えるようになったんです。元々、最初は、南銀座商店街の裏でやっていた闇市で煙草を買ったっていう客が昏倒して騒ぎになったことがきっかけでした」

「や、闇市ですって?」


 闇市という言葉に、にれかはそんなものが大宮に出ていたのかと声をうわずらせた。口を驚きに開いた形のまま、しばらく呆れたように沈黙する。

 南銀座商店街の裏に出ていた闇市で露天が出ていた煙草屋の煙草を吸った者が、突然倒れるという体調不良に見舞われたあと、表の通常の植物市で煙草を買った人々にも同じ症状が見受けられるとのことだった。


「煙草の成分分析はどうなっていますか?」


 にれかは背負ってきた薬箱を置くと、持ってきていた植物原料の解析をするための機械を出した。問題の煙草を買った者から押収していた神職が煙草を一本持ってきてくれたので、それを解析にかける。すぐに数値は魔草の反応を示し、にれかは毒の成分が分からない中、表れた数字のみをみて解毒剤の材料を判断していた。


「倒れた方は同じお店で煙草を買っていたんですか?」

「複数の店で購入されてます。闇市の方では一軒の同じ店だそうです」


 違う市で扱っている商品から同じような症状の健康被害が出て、にれかはおかしいと思いながら解毒剤を調合していた。神社の医師や看護師は、倒れた人々に点滴をしてやったり、にれかが調合した解毒剤を薬湯に溶かして患者たちに配っていた。

 そこで名前が出たのは件の香水商だった。闇市の方は出店者不明だったが、通常の植物市の方で煙草を売る店を出していたのは、香水商の大村であった。店舗は複数あったが、元締めがその香水商であったのである。大規模な出店で、いくつかの店舗を纏めていたようであった。

 煙草の購入者に痺れや嘔吐のような症状もみられて、急ぎ解毒剤を作りながら患者たちに飲ませて回った。治療後に話を聞くほかないとみて、にれかは今夜一晩は氷川神社に泊まり込みになることを覚悟しておいた。

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