第21話『神の最果て』
神命(かみ)のお渡りが近づいているためか、町は慌ただしくなっていた。家の玄関に白い紫陽花と赤い薔薇を飾る習わしにいそしむ人々を見て、鼠奈(そな)は不思議そうな顔をマントのフードに隠しながら亜久郎(あくど)の待つ南銀座の喫茶店の前に戻ってくる。鼠奈(そな)が待ち合わせの場所に戻ってきたときには、亜久郎(あくど)の姿はまだなかった。少し待ち惚けをしていると、のっそりと歩く亜久郎(あくど)の姿が目に入る。亜久郎(あくど)は神命(かみ)の話をしている町の人々にうんざりしているようだった。その横顔だけで、この国・この町にとって亜久郎(あくど)と鼠奈(そな)がよそ者だと言うこと以外の意味を雄弁に語っている。
「そんなに神様っていいものなの?」
「あたしは知らないわよ」
「知ってたところで嫌いだけどな」
もうすぐ氷川神社で神職が餅つきをする話や、この国の主神の好物が餅だとか、無病息災を祈念して縁起物の餅を食べるとか、聞きかじった話を鼠奈(そな)に吐き捨てて神命(かみ)を汚しながら亜久郎(あくど)は溜息をついた。
「おれ、餅って苦手。喉に詰まりそうでさ、めっちゃ怖い」
もし神職の杳夜(ようや)が居たならば、それはお前に餅が死ねと言っているんだと言ったところだったが、町の人々の気持ちなど何のそのと言った風情で大切な縁起物に悪口を言う。餅が怖いという話を始めた亜久郎(あくど)に鼠奈(そな)が吹き出すと、亜久郎(あくど)は続けた。
「みーんな、神様の話してて息が詰まる。何で人間は神命(かみ)様のことをそんなに信じているんだろう」
「昔族長が言っていたんだけどね」
「お前のこと追い出した奴らかよ」
「それは今はいいんだってば……そうじゃなくて」
話の腰を折られて、鼠奈(そな)は仕切り直した。思い出して亜久郎(あくど)に語って聞かせたのは、鼠奈(そな)が昔所属していた家族ぐるみで宗教をしていた悪魔の群れの、長がしていた話だった。
「人間なんて、病を治す奇蹟を見せてあげれば神様を捨てる奴なんていくらでもいるんだって」
「そうなんだ?」
「宗教をやれば神命(かみ)様を信じなくなるんだって」
「でもさ、宗教? って神様を崇めているじゃん。矛盾してない?」
「宗教に神様っていないんだよ。神様が願いを叶えてくれるっていう態でひとを集めてるだけ。来たひとを奇蹟を売り物に心酔させて、そこにいる悪魔が出入りする人間――教祖や会長(かいおさ)を崇めさせるの。実際は人間の願いを生前に叶えてあげて死後にその人間の魂を自分のものにしたい悪魔霊が仕事してるだけ。尤もあたしは、奇蹟で病気を治す方法は知らないけど」
「あたし、神様の何がいいのか分からない。神様は酷い生き物だもん。だけど、宗教は神様より酷いと思う。騙してるんだもん」
「何お前、追放されたから悪口? そう言う意味じゃなくて?」
「悪口ではないと、思う。追放されて、実情を知ったって言うか」
神命(かみ)というものは、此処が好きというものではなく、人間ならば本来生まれたときからその存在と概念を慕う心を持っているものなのである。人間という植物は、神命(かみ)という神聖な大樹があってこそ、世界という自然、森と草原に暮らしていくことが出来る。灼けて剥き出しの石と岩と砂しかない魔の国に生きている者とは違って、人間は水が通る器官を持っている。地上に神命(かみ)が現れる度、それを慕う人間の人生と肉体には恩恵がある。だから人間は神命(かみ)を敬い、神命(かみ)は人間を自分の友や子のように大切にしている。
「神様って、信じてていいこととかあるのかな」
信じる信じないというものに成り下げて語ることが既に貶めていることとも知らないで、汚すことばかり生きているとしでかす鼠奈(そな)は首をかしげた。少なくとも、亜久郎(あくど)と鼠奈(そな)がこの話題を続けていてまともな答えは導けそうにない。
「族長は、神に救われなかった者をでっち上げて背信を促すこともしてたらしいのよ。本当は神様を慕っているひとを悪に引き込んで、奪ってやったって言いたいだけなんだって」
「神様は、人間のことしか救わないし」
「何お前、救われたいの?」
「あたしだって人並には人生楽したい」
話をしながら、亜久郎(あくど)と鼠奈(そな)は闇市を徘徊していた。表の植物市で大量に香料を買い込んでいた香水商の大村が、闇市の店に姿を見せていた。香水店の前で、香水の効力を検めている様子だった。大宮駅前に出来ていた自分の好きな香りを自分好みに調合できる香水店の店員が、別名で出していた店だった。そんな事情は知らない亜久郎(あくど)と鼠奈(そな)は、鼠奈(そな)を歌手に仕立てて歌わせたり、いんちき占いの屋台を出すための場所探しをしていた。
「――少なくとも、氷川の水を奇蹟の水呼ばわりしてくる者には使わせたくない。それが回答だった」
香水商は此処でも、氷川の清流を商用利用したくて申請をしたが通らずに却下された話を恨めしそうにしていた。亜久郎(あくど)がその話に聞き耳を立てる。香水商は、許可が取れないのならば水を採取して持ち帰り、水の産地を誤魔化せばいいと部下とこそりと話をしている。歌を歌える場所を探している鼠奈(そな)はきょろきょろしていたが、亜久郎(あくど)が鼠奈(そな)の腕を引っ張った。小声で示したのは、香水の露店の前で話をしている香水商とその部下である。会話の内容が、不穏な色を呈し始めていて、水祭りの期間中で一般道からは出られないが、水を採取して別の道から国外に出てしまう話も聞こえてきていた。
「あいつ、利用できないかな」
「あの商人凄いね、この国の水って、神様が所有していることになっているんでしょ? あんな堂々と持って帰る話してる」
「ちょっと話しかけてくる」
亜久郎(あくど)はそう言って、鼠奈(そな)の元を離れた。香水商が話をしている香水の露天に近づいて、香り付きの煙草を求める。
「煙草ひと箱くれよ、バニラの香りのやつ」
「どうぞ、七百円です」
「高いな、安くしてよ」
「無理です、そういう店だから」
亜久郎(あくど)は闇値で煙草を買うと、持っていた安いライターで先端に火を付けた。そのままその場で煙草をふかしながら、香水商に話しかける。
「どうも。この店のひと?」
「ああ、駅前に新しい事業の店を出していてね」
「へえ、儲かってるんだ」
「何か私に用事かな?」
「ちょっと訊きたいんだけどさ、浦和経由で国外に出られる道ってないかな? ほら、今、道が神様のお祭りで封鎖されてるじゃん?」
「……植物市の時期が終わる頃までは、出られないだろうな」
香水商は何処となく硬い話し言葉で亜久郎(あくど)に応じた。何かを答えないようにしているような風情であった。話を聞かれていたとは知らない香水商は、この時期に町を出てしまうことの禁忌に触れた会話をしていたことを隠している。亜久郎(あくど)は肚の内で出た笑いを噛み殺すことに努力を要した。何も知られていないと思われているようで愉快だった。亜久郎(あくど)はもったいぶったような口調で、先程までのやりとりは何処へ行ったと言わんばかりに問いを重ねる。
「さっき、国外に出る話をしてたからさ。こんな時期なのに」
「…………あなたはこの町の方? ではなさそうだな?」
香水商は高圧的な口調でじろりと目線を滑らせた。亜久郎(あくど)を見つめて目を細める。聞かれたら都合の悪い話を聞かれていたことを悟りながら、亜久郎(あくど)の格好を見定める。亜久郎(あくど)は質問には否定して、運が悪い自分を演じていた。
「この町の人間じゃないよ。紛れ込んだ時期が悪くてさ」
出られなくなったと笑うと、香水商は部下の男と顔を見合わせた。亜久郎(あくど)に対しての警戒がわずかに解かれたようではあった。亜久郎(あくど)は自分が理解していないところでひとの心を揺さぶる何処か魔術的な態度の取り方をしていることには気づいていない。そのまま亜久郎(あくど)は話を続けた。
「ちょっと連れが追われててさ。できるだけ早くにこの町を、いや、この国を出たいんだよ」
香水商とその部下の視線が鼠奈(そな)の方に滑った。鼠奈(そな)を見て、雰囲気が何処となく明るいものに欠けてがいるが、芯の部分に熾火のようなものを感じる佇まいに間違った明るさを感じ取っているようである。鼠奈(そな)は亜久郎(あくど)が何を言い出そうとしているのかが分からなくて、じろりと此方を見定めた香水商の視線に身構えている。
「おれのことを、用心棒として雇わない? 国外まで守るよ」
「……話を聞かれていたか」
「まあ、ざっくり言うとそんなところ。国外に出るんでしょ? この時期のしきたりとやらをかいくぐって」
「いいだろう、雇ってやる。ただし、このことは他言無用だ」
「いいよ、言わない。じゃあ契約成立ね」
香水商は鞄の中から財布を取り出すと、紙幣を何枚か抜き取って亜久郎(あくど)にそのまま手渡した。裸の紙幣に、折り目は一つもなかった。
「前金だ、受け取れ」
「どうも。おれ、目的は金じゃないからな、早くこの国から出られればいいんだけどさ」
あとで用心棒代ももらおうと呟きながら、亜久郎(あくど)は香水商と話を続けた。
「神様の水、商売に使いたいんだ?」
「何処から話を聞かれていたか、そこを訊くべきかな」
「ん、ついさっきだよ。その前は知らない」
「許可が下りなくてね。けちだと思うが外国人には使わせないようにしているらしい」
「そもそも商売に使っていいの? 神様ってそういうの、怒るんでしょ」
「神様のことは信じているから使っていいと思う」
「悪い回答だな、それ。絶対怒られるやつ」
亜久郎(あくど)は煙草をぷかぷかさせながら大笑いした。香水商のことを、てっきり自分と同じで神様を信じていないから水道水のように神命(かみ)から賜った水を使いたいと思っているものかと思っていたのである。信用しているから商用利用しても咎められないだろうという回答には、傍で話を聞いているだけの鼠奈(そな)も悪辣な感覚を感じとるを得なかった。
香水商は自分の事業のことを亜久郎(あくど)とその連れの鼠奈(そな)に説明した。
「私は隣国で香料などの事業を営んでいる大村と言ってね、香水や香料を作っているんだ」
「香水商ってっこと?」
「一応ね、薬品も一部扱ってはいるけれど、香水が主な事業だよ。香水に興味はあるか?」
「うーん、ないなー。鼠奈(そな)は?」
「あ、あたし? あたしは好き……詳しくないけど」
「香水を作るための水やアルコールを、この町の水から作りたくてね。商用利用は断られたが、また粘ってみるつもりだよ」
「断られたから神様なんて信じないって思わないの?」
亜久郎(あくど)が何かを確かめるように、今一度神命(かみ)への信仰を問うような質問をした。香水商は、にたりと笑っただけであった。神命(かみ)を信じているような風情ではあったが、その面上に掠めた思いには、邪なものを感じることしかできなかった。
「神様のことはほどほどに信じてはいるよ。信じていないと生きていけないからね」
「絶対信じてないでしょ?」
「まあそう言うな。信じる信じないで語ればどうとでも言える。実際に何も思っていなくてもな」
貶める語り方を、光から遠い者は神命(かみ)に関してはよくやりがちなのである。勿論そんなことには気づけないから、神職などは自分がその光の中にいるか、光から自分を遠ざけたいと悪しき願いを持つ者を除けることに気を配る。そうではない者は光から遠いほど邪なのである。神命(かみ)を慕う心がある者は、神命(かみ)はひとの願いを叶えてくれる、などという甘言を知らない者である。神命(かみ)はもともとそんなものの為に人間と共生をしているわけではないのである。神命(かみ)はいつだって、自分の心のかなしみを傷つけた者の名前と顔は覚えているのだった。それでいて反対に、願いを叶えてほしいとだけしか思っていない人間の個体のことは記憶しない。
何処かでふと、鎖された誰かの睫毛の先がふと開いて、空よりも青い瞳が二人が放つ電磁波に似た毒を悟ってその名前を知っていた。
「今夜、龍神の水とやらを見に行くつもりでね」
煙草をふかしている亜久郎(あくど)に対して、香水商は目の奥に暗く鋭い光を消さないまま話をした。亜久郎(あくど)の内にまだ何か、探しているような気配があった。亜久郎(あくど)が買った煙草の中には特別な物質が入っているのであるが、その煙草を吸っても身体に何の変化も起こさない亜久郎(あくど)に対して、用心棒として雇ったのに用心しているようであった。
「龍? 龍っているの?」
信仰心が曖昧な人物を前にすると、つい疑っても居ないことを鎌を掛けて居るみたいな言葉が出てしまう――訊いた後にふとそう思って、亜久郎(あくど)は頬を掻いた。だが香水商は、亜久郎(あくど)のあまりにも目に余る信仰心の無さが垣間見える台詞に対して何か思うそぶりもない。
「この国の水には龍神伝説があってね。水に付加価値を付けるにはちょうどいいだろうと思ってな」
「ただの水じゃないの、そんなの」
亜久郎(あくど)は香水商が自分をまだ何かしら疑っていることには気づいていた。少し踏み込んで、国を出る支度があることと水を持ち去ろうとしていることに関して口外はしないと伝えるために、何か考える顔をする。香水商は硬い口調で、亜久郎(あくど)がでまかせのようにぺらぺらしている神命(かみ)を信じていない者特有の言葉を聞いている。
亜久郎(あくど)は此処ではっきりと、自分の心が神命(かみ)に信仰はないことを言葉にした。
「おれは神様って言うのを信じていないよ。協力者にはうってつけじゃないかな」
連れている鼠奈(そな)のことを指して、鼠奈(そな)も信仰はないと説明を付け加える。香水商は全く神命(かみ)を信じていないわけではなかったので、亜久郎(あくど)の発言の意図を分かりかねて尋ねた。香水商も神命(かみ)のことはいないものとまではしていないのである。
「信じていない? どういうことだ?」
亜久郎(あくど)はもったいぶったように一度言葉を句切った。
「だって、神様はさ」
亜久郎(あくど)の言葉は意味深に、あたりの言葉ない雑踏に響いて果てた。
「おれを憐れんでくれないんだもん」
それから亜久郎(あくど)は、氷川はさておき川は好きだよと言って戯(おど)けてみせた。
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