第17話『壊れたものは戻らない』

「壊れたものは戻らない――この国はただ、神命(かみ)様方のご慈悲のお心に皆の努力が触れて再建への道を歩んでいるだけなんですよね」


 杳夜(ようや)とにれかは魔木禍から二年が過ぎて、目まぐるしく再生を果たしていく王国と氷川町について思い馳せながら話をしていた。杳夜(ようや)が神職としてこの町の再建具合について思うところを言葉にすると、にれかは悲しそうに頷いただけだった。


「壊れたものは、戻らない……ですか。そうですよね、私たちは同じ景色をもう見ないためにだけ励んでいますものね」

「どうも悪って言うものは、壊れたものが何度でも元に戻ると思っているらしくてね。腹が立つよ」


 嫌悪がかかる言葉ににれかは柳眉を開いた。杳夜(ようや)の悪に対して強い、守り除けることを生業とする者の言葉に安堵と哲学を感じて、にれかは唇をきゅっと結んでいた。

 植物市では町の別の場所に拠点がある店などにそれぞれが買い物をして入手した植物を常に運び込むために車輪のついた押し車やリヤカーが往来している。大宮駅付近に出来たばかりのオリジナル香水店の屋号が書かれた押し車がにれかと杳夜(ようや)の脇を通り過ぎる。植木が満載されたそれが運び出されていく。

 次の目的の店まで来ると、にれかはハーブの苗を見定めていた。杳夜(ようや)がにれかに選び方のこつを訊いている横で、件の香水店『玄花』の主人・大村が買い物をしていた。


「にれかさん、こういう苗ってどれがいいんですか? さっぱり分からん」

「ハーブの苗は、葉っぱの裏とかをよく見てあげて瑞々しい子を選びます」

「ペパーミントの苗は全部でいくつありますか?」

「五十ありますよ」

「じゃあそれ、全部ください」

「かしこまりました」


 苗を選んでいる傍らで、香水商が大量にペパーミントの苗を買って行かれるところに遭遇し、にれかと杳夜(ようや)は唖然としてそちらを見てしまう。香水商は分厚い財布から紙幣を取り出しながら、傍にいた部下とおぼしき男と話をしていた。派手で豪快な量の買い物に、にれかと杳夜(ようや)は香水商に注目したままでいる。


「ところで奇蹟の水はどうなってる? 却下か?」

「はい、許可下りませんでした」

「そんなに駄目そう?」


 奇蹟の水を香水を作るのに使いたい――そんなぼやきが聞こえてくる。


「はい、冷たくあしらわれました」


 にれかと杳夜(ようや)は顔を見合わせる。奇蹟の水とは何のことだろうと、目線だけで何の話か確認し合って、聞いたことがないと怪訝そうに頷く。そのまま苗を物色している振りをして聞き耳を立てていると、香水商が言っている奇蹟の水という言葉が指すものが氷川の清流の水のことだとすぐに分かった。奇蹟とは何か、氷川の水のことを話している、そんな具合で後から理解していく。


「どうにかして許可が取れないかな」

「もうこれ以上申請は困難かと……」

「けちなものだな」


 香水商の話を聞いたところ、氷川町の清流の使用許可が下りないか申請していることがあったらしい。粘って許可を取ろうと試みていたらしいが、上手くいかなかったとの話をしていた。

 氷川神社の近くには大宮公園があり、その奥と神社公園の敷地を取り囲むようにして大きな広い森――氷川の森が位置している。そこにはいくつかの池や水場が点在していて、神社の敷地内にある蛇の池同様に水が湧いている。氷川の土地に神命(かみ)がもたらせた清流である。氷川の地下水脈から生まれた水は、冷たく清く青い。

 にれかの喫茶店では、氷川の湧き水をお茶を淹れるのに許可を取って使用させてもらっている。氷川の水は権限のない者には商用利用が出来ないことになっている。氷川の水辺の水は神命(かみ)とつながりのある王家から下賜されているものとして扱われており、利用の許可が下りている店はいくつかあるが(にれかの知る限りでは近所の豆腐屋さんなどがそれに当たる)限られた昔からある飲食店と、新しい店は元神職のにれかの店のみである。そのほかには、氷川神社が社務所の内部で利用しているくらいである。

 香水商とその部下は、国王も大宮市長も水の使用を認めてくれなかったとぼそぼそと悪態をついていた。ぶつくさ言っている姿を見て、杳夜(ようや)がはたと何かを思い出し、呟いていた。


「そう言えば……水を使いたくて許可を取りに来たと言っていたな、この前」

「あの香水商がですか?」

「うん、王家とか、いろいろなところに掛け合っていたらしい」


 杳夜(ようや)が神社にいたときに、他の神職が応対して帰ってもらった話をする。魔木禍が終結してから、外国人の出入りが戻ってからと言うもの、商売目的で氷川の水源の水を使いたいと申し出てくる外国人が多いという。


「氷川の大切さを分かっていない者に、水は下賜されない。当然のことですよ」

「神命(かみ)様からいただいているものですからね」


 営利目的の水の利用について、にれかが神職をしていた頃はあまりなかった動きだったので、にれかは神妙に頷いた。



 買い出しもそこそこ終わった頃であった。買うもの一覧を書き込んだ紙をぺらりとさせて、手元のペンで買ったものの項目に印を付けているにれかの身体に異変が起こった。ふと顔色が悪くなったと思うと、軽く咳き込む。ハンカチを口に当ててにれかが咳をし始めたので、杳夜(ようや)はにれかに寄り添った。


「大丈夫ですか?」

「ごめんなさい、何だか吸い込んだ空気がざらざらしてて」


 咳が止まる頃、にれかの喉の奥はうっすらと上気していた。胸の内側に嫌な熱が籠もっている感覚がある。咳き込んだ際に口元を抑えたハンカチを見ると、薄く血が付着していた。心なしか、吸い込んだ空気にざらついたものを感じていて、にれかは目眩を覚えた。

 杳夜(ようや)が鞄から、水の入った水筒を出した。


「どうぞ、飲んでください。落ち着くのを待ちましょう」

「すみません」


 持っていた水をにれかに渡すと、杳夜(ようや)はにれかをさりげなく誘導して、ひと通りのない通路の端の方に移動する。水を飲んでいるにれかの手はかすかに震えていた。にれかの咳が落ち着くまで待ちながら、杳夜(ようや)はにれかに尋ねた。


「常備薬は何かありますか?」

「はい、持ってます。もう少しお水、もらってもいいですか?」

「勿論です、頓服薬を飲みましょう」


 杳夜(ようや)はにれかの具合を心配して、手持ちの薬を飲むように促した。にれかは申し訳なさそうに頷いて、鞄の中から薬が入っているポーチを取り出す。

 にれかは植物性自己免疫性肺障害を患っている。魔木禍での救護活動に当たっていた環境下で突然発生した肺障害であった。自己免疫系の植物病なので感染する病ではないが、咳が出るので誤解されやすい病だった。


「少し、胸が痛かったのを放って置いたからかもしれません」

「本当? 言ってくれたらよかったのに」

「大丈夫だと思ったんです」


 にれかは目に見えない空気に何かを見咎めたかのように、辺りに目を凝らした。まだ小さく咳き込みながら、薬を飲む。風と匂いに敏感になっている――これは胸が悪いときの典型的な自覚症状である。


「空気に少し、変な匂いが混ざっているような気がします」

「変な匂い……俺には分からないな……」


 周りの空気を哨戒してくれたが、杳夜(ようや)には変化は分からないようだった。首をかしげたが、にれかの匂いに敏くなっている感覚を優先する。


「空気が何だか、鉄っぽい匂いがするんですよね」


 薬を飲み込んで、にれかは水に濡れた唇をハンカチで拭いた。

 杳夜(ようや)はにれかの患う植物病のことは知っていた。他にも、にれかが上野国にいた頃に気鬱がちだったことも杳夜(ようや)は知っている。知っているので取り乱すことはなかった。少量の喀血は、時々あることだった。


「一旦、車に戻ろう」

「はい、ありがとうございます」


 杳夜(ようや)はにれかを人混みから庇うようにして車を停めてある場所へと戻った。にれかも杳夜(ようや)に従ってゆっくり歩く。

 車の椅子に腰掛けると、杳夜(ようや)は用意して置いた別のお茶が入っている水筒をにれかに渡した。


「飲む?」

「いいんですか?」

「飲みな、冷たいし、落ち着くよ」

「ありがとうございます」

「そういや最近は、にれかさんが神社に診察に来てても話すことなかったよね……最近、具合どうなの?」

「……体調がいまいちなのに夜遅くまで日本語の勉強をしていたから寝不足だったりするんです」


 日本語の勉強というくだりに、杳夜(ようや)は苦笑いした。


「にれかさん、神職やめたのにまだ日本語の勉強してるんだ……頭が下がるな」

「雨霧さんはお勉強されてます?」

「最近休み気味……やらないとだよ」


 にれかと杳夜(ようや)は日本語の勉強の話をしていた。神職には強く正しい言霊が、音調と発音が要求されるので神職は皆、日本語の勉強を欠かさないのである。にれかが神職の仕事を離れてから一年が経つが、にれかは薬学の勉強の時間に合わせて、日本語学習の時間も確保しようと努力しているのである。杳夜(ようや)は感心半分呆れ半分と言った風情で、にれかに注意した。


「あまり勉強ばかりしていないで休んでください、休みなさい」

「はーい」


 にれかは絶対に休まなそうな返事をして置いて、また軽く咳き込んだ。熱の籠もった咳だった。

 杳夜(ようや)が氷川神社に車を出してくれるとのことになり、にれかは帰りに祈祷室の奥で診察してもらうこととなった。

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