第10話『魔物を待ちながら』
翌日、征也(ゆきや)の姿が氷川神社の傍にあった。先日参拝した社が参道の遠い向こうに位置する大きな鳥居を見上げて、征也(ゆきや)は道を変えている。宿から向かった先はにれかの喫茶店だった。追っている人物のことを考えていたら、探しに出られないことで気が滅入ってしまったのだ。埼玉王国に標的を追って入ったのが閉鎖期間に入る直前、杳夜(ようや)が言うように、相手もこの町・この国の何処かで足止めを喰らっているはずだから休める期間でもあった。宿で借りた電話で諜報として動いてくれている同じ班の仲間と連携を取りながら、敵を追い詰める算段を立てていたのだった。
にれかの店を訪ねると、客が何人かいて、楽しそうに笑いさざめいていた。昨日は店舗の様子や作りをよく観察しているゆとりがなかったので見ていなかったが、小さく花屋として機能しているスペースもあって、硝子張りのケースの中に白い紫陽花と赤い薔薇がいっぱいあった。店の客は女性ばかりだったので、征也(ゆきや)は遠慮がちに店内を覗き込んだ。
真千花がにれかと、何か話し込んでいた。
「にれかさん、新しくできた香水のお店知ってます?」
「香水のお店? ……初めて聞いたわ。何処にあるの?」
「駅前の商店街を出たところに新しくできたんですよ」
「商店街を出たところ……ああ、新しくおうちが出来たところね。あそこ香水屋さんになったんだ?」
「そうなんですよ、最近専門店が多いですよね」
「そうね……苺のお菓子の専門店も出来たものね」
「そこ、オリジナルの香水が作れるんですよ」
「香水が?」
にれかは驚いた顔をして続けた。
「香水って自分で? どうするの?」
「自分の好きな香りを選んで調合させて貰えるんですよ。にれかさん、今度一緒に作ってもらいに行きましょうよ」
真千花はにれかをその話題の香水店に誘いたかっただけのようだった。にれかは苦笑いをして、にべなく断る。そんなにれかを包んでいる空気の中には、彼女にとってこだわりのある香りだった。
「私はいいかな。香水は長く愛用しているものがあるの」
「なーんだ、つまんない」
「ごめんね、真千花ちゃん」
「でもにれかさんっていつもいい匂いですよね、香水何使っているんですか?」
「デュラフォワっていう会社の【ルテティアの淑女】っていう銘柄」
「なんかお姉さんっぽい」
「何それ」
使っている香水の名前に対して不思議な感想を言った真千花に、にれかはどっと笑った。話の片手間に、挿し木で増やしている薔薇を植えてある植木鉢やプランターに水をやりながら、客に話しかけられるとにれかはそれに応じていた。
「にれかさん、こんにちはー」
「あら、いらっしゃいませ」
「お花がほしいんだけど、白い紫陽花と赤い薔薇」
「いっぱいありますよ。見ていってください」
硝子のケースの中とは別に、店舗の一部のスペースに飾ってある白い紫陽花と赤い薔薇の飾りを見て、客が明るい声で言った。
「わあ、可愛いねえ。これは売り物なの?」
「はい、私が作ったお祭り用の飾りです。紙細工で、紙と針金とレジンで作ってます。よかったらお迎えしてあげてください」
「じゃあ花と一緒にこれも買うよ。飾らせてもらうね」
「ありがとうございます」
店にはお茶を飲みに来る客とは別に、花を買い求めに来る客もいるようだった。にれかは紙細工の花飾りを傷つかないように紙と詰めて箱にしまいながら言った。
「お祭り用の花飾り、人気みたいで嬉しいです」
「花と一緒に飾るね、ありがとう」
にれかが花の茎の長さを揃えて切って紙に巻く作業を終えたところを見計らって、征也(ゆきや)は店に入った。にれかに声を掛ける。
「荊さん」
「! あら、鮫島さん」
にれかは凜とした目の端に微笑みを乗せて征也(ゆきや)を迎えた。
「いらっしゃいませ」
「お茶をください、何かおすすめをお願いします」
「おすすめ……それじゃあ椿とかみつれのブレンドティーにしましょうか」
「征也(ゆきや)さん、いらっしゃいませ」
「薔子さん、こんにちは」
征也(ゆきや)は空いているテーブル席に着いた。昨日の礼も兼ねての来店で、無料で飲み物をもらったので今日は客としていただこうと思ったわけである。他の客のところからやって来た薔子が、お茶の用意をしているにれかに代わって尋ねた。
「怪我の具合はどうですか?」
「はい、痛みがかなりとれました。渡してもらっていた薬を服用して一晩眠ったんですが、傷の痛みは引いたし、昨日はよく眠れたんです」
「そうだったんですか、よかった」
「ありがとうございます、その、お手数をおかけしてしまって」
「いいんですよ、征也(ゆきや)さんが無事でよかったです」
「椿とかみつれのブレンドティーです。おすすめをと言われたのに、メニューにないお茶ですけれど」
「メニューにないんですか?」
「ええ、大変そうなお客さんが来たときにお出ししてあげたりするそれだけのメニューなんです。これ、魔毒に効くんですよ。すっきりして温まりますよ」
「ありがとうございます……美味しそう……」
さっぱりとした青みのある香気が征也(ゆきや)の鼻先をかすめていった。一口飲んでみると、爽やかでいながら強い甘みが後味にくるやさしい風味のお茶であった。
「美味しい」
「よかった」
征也(ゆきや)は出されたブレンドティーをちびちび飲みながら、にれかに尋ねた。にれかはと言うと、客の相手もそこそこに、征也(ゆきや)の席に来てくれている。
「荊さんって、本当にただのお茶屋さんなんですか?」
「面白い質問ですこと」
にれかは苦笑いして、自分が喫茶店を始めた経緯などを征也(ゆきや)に話した。そんなに遠い昔でもない過去を顧みながら、しみじみと語る。
「喫茶店は去年始めたばかりなんですよ。ずっと興味があったお茶や薬草茶を提供するお店を、町の皆の憩いの場になるようにって思って始めました」
「町の?」
「ええ、この町は、私を迎えてくれたもう一つの故郷のようなものなんです……その氷川町に、伝えたい感謝があったから、かな」
にれかは店のことを簡単に説明してくれた。基本はお茶とお菓子だけなのだが、昼だけはおむすび二つと惣菜を三種類乗せたランチプレートをやっているそうだった。
「おむすび……いいなあ、美味しそう」
「よかったらまた来てくださいね。お昼だったらランチプレート営業してますから」
「薬草茶って、植物薬剤師だからなんですか?」
「まあ、その知識を応用して……という感じですね」
征也(ゆきや)はにれかのただならぬ雰囲気を考えて、神職の手伝いという言葉が示す手伝いの内容がどの程度のことなのか気にしながら尋ねていた。
「なんて言うか、荊さんは雰囲気がただのカフェ店員じゃないっていうか。治療のやり方とか、戦いの心得があるひとのように感じられて気になったんです」
「神職の手伝いで学んだことばかりですけれどね。氷川神社に務めていたんですけれど、お店の開店を機に辞めました。でも、植物薬剤師としてのお仕事は、今でもたまに神社からいただくんですよ」
「そうなんだ、すごいなあ」
「今も続けられているのは、氷川の神職の方々のおかげなんですよ。近くだし、たまにお昼食べにだったりお茶とかにも来てくれてて」
後味の甘いブレンドティーを飲みながら、征也(ゆきや)はにれかに報告した。
「怪我が治り次第、調子が戻ったらこの町を発ちます」
「そうですか、寂しくなっちゃいますね」
「水祭りの期間は関所が閉まると宿で聞きました。移動できるまで養生しようと思ってます」
「早く任務に障らない状態になるといいですね」
「ありがとうございます……敵も足止めを食っているだろうから、何とか距離を縮められるようにはと思っています」
神職の潔斎の期間が過ぎるくらいまで征也(ゆきや)は町に留まることとなっていた。追っている標的の動向も気になるところだが、今は怪我を治すことと、形成を立て直すことを考えることに集中していたい旨を伝える。
「そう言えば、昨日大宮駅まで行ったんですよ」
「大宮に? 何かありましたか?」
「駅の状況を見ておきたかったんです。でも、ひとがいなくて驚きました」
「そうでしょうね。この時期は駅も、汽車がそもそも来ませんから」
征也(ゆきや)が大宮駅を見に行った話をすると、にれかはあっけらかんとした風情で、駅にひとがいないことを当たり前だと言った。
「大宮駅は他国に向かって鉄道が伸びている駅ですけれど、この時期はいつもこうですよ。知っていて大宮に来る旅人は皆、宿場に宿を取って長く滞在しますから」
いつもは各地からの旅人で賑わう大宮駅も、この時期は利用者がいなくなる時期だとにれかは話す。
「汽車は南浦和までで止まって大宮まで引き返すようになっていますしね」
「水祭りって、どんな祭りなんですか?」
征也(ゆきや)は埼玉王国の大祭について、にれかに質問をしてみた。にれかは嬉しそうに説明を始める。
「水祭りというのは、埼玉王国の建国記念日に行われるお祭りです。この王国の主神である清水瀧ノ神命(しみずたきのかみみこと)様のご昇天、ご帰還の日に合わせて氷川神社で神事が行われて、一般の者は神職の潔斎の期間に氷川神社へお参りに行き、白い紫陽花と赤い薔薇をおうちに飾ります。王国の健やかな未来と国王ご一家の繁栄を祈り、祈念させていただく大祭なんです」
水祭りは埼玉王国の建国記念日に相当する国の主神・清水瀧ノ神命(かみ)が天界へと昇天し帰還したとされる日を中心に行われる。神命(かみ)の帰還の日に合わせて氷川神社では神職が神事を行う。大宮氷川町にある大社氷川神社に都浦和にある護国氷川神社からも神職がやってくる。神命(かみ)の『お渡り』に合わせて儀式を行うのである。神命(かみ)が鎮めた大昔の魔木の力を除けるための神事である。
神職の過ごし方に対して、一般の者は、この期間に氷川神社にお参りに行く。それから白い紫陽花と赤い薔薇を自宅に飾る。これは色蛇と蝮を除けるための習わしで、健康を祈願してお餅を食べるのである。お餅は主神の好物と言われていて、神命(かみ)の力にあやかるために縁起物としていただくことになっている。
水祭りの期間には移動制限が埼玉王国の各地で発生する。大宮に至っては鉄道の町と呼ばれているのにも拘わらず、この期間にだけは旅人はいない。駅に関しては駅員が巡回をしているだけになる。
何故水祭りの期間に移動制限がかかるようになるのか、理由は水辺の水位の上昇である。これは神命(かみ)が移動をされるという時期に合わせた水の動きをしており、神々がその水で出来た道を渡るためでもある。お渡りと呼ばれる神命(かみ)々々の世界の動きになるが、そういった神命(かみ)たちの移動の邪魔をしないようにするためにひとの出入りに関しては厳しくなる。
水辺は渡殿であって、埼玉王国は清い水辺の国。大宮と浦和には植物を育てられる水がたくさんあり、神命(かみ)がそこを通るとされるときに同じ場所を人間が通るわけにはいかないとされているのである。
「祭りの間もこの町に留まらないといけないわけですね」
「そうですね……神命(かみ)様方のお渡りが終わる頃には移動制限は解除されているかしら」
移動制限を何処かで受けている敵も状況は同じだと思いながらも、征也(ゆきや)は心配していた。もし逃げられるようなことがあってはならないのだ。にれかは征也(ゆきや)が追っている人物のことを気にしていると見て取って、察したように呟いた。
「追っている相手が遠ざからないか心配ですよね」
「はい……でも」
征也(ゆきや)は難しいことを考えるのをやめた表情になる。征也(ゆきや)が住んでいた故郷とも言える場所には神命(かみ)はいない場所だった。神命(かみ)という存在を、出したことがない土地だったのである。それでも征也(ゆきや)は、神命(かみ)を知らない土地に生まれた者として尊重する気持ちを伝えていた。
「自分の仕事よりも、祭りの方が大切です」
にれかは少し考える表情になって、尖った顎に指先を添えた。それから何か思いついた様子で言う。
「雨霧さんに言ってみて、祭りが終わってから早めに町を出られるように計らって貰えないかなって思ったんです」
神職の雨霧杳夜(ようや)のことを思い出して、征也(ゆきや)は何となく頷いていた。
「雨霧さんとは親しいんですか?」
「うーん……親しいと言いますか、私が神職のお手伝いに通い始めたばかりの頃からお世話になっている方なんですよ」
「そうだったんですか」
征也(ゆきや)はにれかがあまりにも神職に顔が利く存在なのを不思議そうにしていた。
「私、元々魔毒の治療のために神職の方々と関わるようになったんです。その時の縁みたいなものでしょうかね」
にれかは少し昔のことを懐古しながら、悲しそうに笑った。
「私自身、神命(かみ)様に縁をもらう出来事を経験していて……その時からの知人なんです。今でも氷川神社に治療が理由で行くときもありますが、よくしてもらっているんですよ」
征也(ゆきや)はそこで話を変えた。にれかが神職の手伝いをしていた理由である職業のことについて興味があったのである。
「植物薬剤師って、どんな仕事なんですか?」
「植物薬剤師は……」
にれかは中空を見上げて、少し考えてから答えた。
「植物薬剤師は、草木から薬を作り、魔毒を解く治療薬を植物から、時には魔木からも導く者のことです」
薔子がハーブティーを袋詰めしている様子を見つめながら、にれかは教えてくれた。
「必要なことは全て、祖母から学びました」
「お祖母様からですか?」
「そう言う家系なんですよ」
「曾祖母の代から何かしら植物を生業にしていて」
母だけは違いますけれどと付け加えて、にれかは話を続けた。
「私、元々出身は上野国なんです。そこに暮らしている祖母から、必要なこととか、心構えとか、教えてもらったんです」
「上野か……日本で一番魔木と戦った土地として有名ですよね」
征也(ゆきや)は持っている限りの知識を動員して話に応じた。
にれかの出身地である上野国には、魔木に対処する知恵や方法、技術などを持ち、継承している人々が多く暮らしている。
征也(ゆきや)がお茶を干して代金を置くと、薔子が袋詰めしたハーブティーを紙袋に一つ分贈ってくれた。
「いいんですか? いただいちゃって」
「どうぞ、魔毒の傷によく効くブレンドです」
「ありがとう」
征也(ゆきや)が帰りながら店を顧みると、薔子が店先で手を振ってくれている様子が見えた。征也(ゆきや)はぎこちなくはにかみながら、そっと手を振り返した。
渡された紙袋からは、爽やかなお茶の匂いがした。中身を見てみると、先程征也(ゆきや)が淹れてもらったブレンドティーも入っているとの旨が一筆、メモに綺麗な字で書かれていた。
任務の途中で倒れて逗留している場所ではあるが、この任務が終わったら助けてくれた人々に何かいい報告ができればと思いながら、征也(ゆきや)は宿へと戻っていった。
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