第9話『町の暮らしと不穏の影』

 にれかと真千花が店に戻ってくると、残ってくれていた薔子が店を開ける用意を始めていた。


「あ、にれかさん、真千花ちゃん、おかえりなさーい」

「ただいま。ありがとう、薔子ちゃん」

「ただいまー」


 真千花は空いている席に座って溜息をついた。


「聞いてよ薔子ちゃん。お参りして征也(ゆきや)さんを宿に案内する途中で泥棒が逃げてるところに出くわしちゃって」

「泥棒? 物騒だね」

「植物市で販売される予定の茶の木の苗を泥棒したんですって。お茶の木はお金になりやすいのよ、嫌ね」


 にれかは店に着くと、手早く三人分の紅茶を淹れた。


「薔子ちゃんは知ってた? 藍沢さんのおうちのお野菜が駄目になっちゃった話」

「真千花ちゃんから聞きました。人の影みたいなのを見た後だって、怖いですよね」

「木霊(ドラド)だったら大変よ……奉納する予定のお野菜が傷んでしまうだなんて不吉だし、何か関わっているんじゃないかしらね。神社に報告は上がっているのかしら。大丈夫だろうけれど心配だわ」

「雨霧さんに聞けばよかった」

「私ももっと早くに知りたかったわ」

「にれかちゃん、いるかい?」

「あら、大青さん」


 三人でお茶をしているところに、五十路がらみの男性が現れる。氷川町の町長である木城大青(きしろたいせい)である。にれかが席を立って店の入口に寄ると、大青は笑った。


「真千花ちゃんもいたのか、よかったよかった」

「大青さん、どうしたんですか?」

「泥棒逮捕の件のお礼だよ。ありがとうね」


 にれかはすかさず、逮捕できたのは自分のおかげなどではないと訂正する。


「逮捕に協力できたのは私がいたからじゃないんですよ」

「そうなの?」

「私じゃないです」

「征也(ゆきや)さんが捕まえてくれたんですよ」

「? 征也(ゆきや)って?」

「旅の人です。道中で魔毒を受けられて、うちのハウスの近くで倒れていたところを介抱したことが縁で」

「にれかさんと私で、宿に送っていたところだったんですよ」

「そうだったんだ、旅の人がねえ」

「ちょっと怪我もしてて、水祭りが終わることまで逗留されることになってます」

「そうだよな、国外へは出られないからね。そうかそうか」


 大青は、あとで挨拶にでも行ってみるかななどとぼやいている。


「にれかちゃんは今年の植物市には出るのかい?」

「買い物には行きますよ。楽しみにしているんです」

「おれはにれかちゃんが出店とか考えてくれたら嬉しいんだけどなあ。町内会でも町の植物市のためにお金を出したり企画を出したりしているからさ」

「出店は……どうでしょう。買い物はたくさん楽しむ予定でいますよ」

「まあそれでも嬉しいけどね。また来るよ」



 その日の夜、店をしまう用意と明日の仕込みを全て終わらせたにれかは、店舗兼自宅の二階に上がっていた。にれかの自室がある二階に入ると、寝室の机にノートを開く。にれかは日記に運動と食事の記録をつけると、心の内観のためにノートにひたすら心の中身を書き綴った。持病の薬を飲んでから、快方に向かうために儀式のように行っている書くことをしている。今日は鮫島征也(ゆきや)というひとと出会ったことと、町で泥棒が出たこと、真千花から聞いた農家の藍沢さんの奉納野菜のことなどを記録として残し、それについて思うことなどをつらつらと書き留めておいた。流れるような綺麗な字で、それでいて特徴ある筆跡が、その日の出来事と思うところなどを、まるでその日に行かないでほしいように刻んでいく。

 それから身支度を調え、白い着物に着替えると、自宅の裏にある瀧に当たる。夜に包まれながら、にれかは流れ落ちる水の前で一礼して、右肩からすらりと瀧の流水に身体を入れた。水と一つになりながら、にれかは龍の真言を唱えて、何度も丹田落としをした。

 考え事から解放されていく心地がした。瀧に当たることは病と向き合う作業の一つだとしていて、同時に神職だった頃からしている神事の名残だった。潔斎の一環として、氷川水源から水が引かれている場所に家を賜り、にれかはそこに家をもらったのだからそこで瀧行をすることを自分に課していた。そこに暑い日も寒い日も関係ない。

 例えその身は既に仕事として神職を退き、仕事が社にはなかったとしても、にれかはその行動を続けていた。神命(かみ)が言葉と心を通わせてくれたその日に決めたことを守っている。約束というものは、慰めではない断りの文句だった。にれかは水に触れるために、その他の予定や誘いは断るようにして自分の世界と時間を確保しているのだった。

 そんなにれかの悲壮にも見える身を正す作業を見つめる何処かに御座す神命(かみ)が、かなしそうに長い睫毛を伏せられているのだった。自らに厳しさを課しているにれかのことを、諭すように目を細めた眼差しがある。


(そんなにかなしそうに、水に触れなくてもいいんだよ)


 にれかはふと顔を上げた。首の後ろに当たる水が身体の芯に触れて冷たかった。心の内側に話しかけてくるやさしさを感じる。周りは闇なのに、少しも寂しくはない感覚がとても不思議に心地よかった。


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