第8話『祈りの後に』
氷川神社への参拝が済むと、征也(ゆきや)は真千花の案内で取ってもらっていた宿のあるところまで来ていた。建物の前で立ち止まると、にれかが征也(ゆきや)に言った。
「喫茶店は街の憩いの場になるように願いを込めて始めた場所なんです。何かあっても、何事もなくても、よかったら寄ってくださいね」
「ありがとうございます、また寄らせていただきます」
「怪我、お大事に」
「また経過の報告に伺いますね」
そこで別れようとしたときだった。三人の進行方向とは逆の方向から走ってきた人影があり、その人物がにれかにぶつかった。にれかが小さくよろけたとき、にれかの長い睫毛の下で藍色がかった黒い瞳に冷光が走る。何かを見切った瞬間の光だった。交錯の瞬間、体と心の芯の双方にあった何もない部分をにれかが切っていたのである。
にれかにぶつかってきた人物は小さな木の苗が入った麻袋を持っていた。征也(ゆきや)がにれかの目の光に何かぞっとするようなものを感じたとき、少し離れたところからその人物を追ってきたのであろう誰かが叫ぶ声だけが此方に怒号となって飛んできていた。
「泥棒なんだ、捕まえてくれ!」
その声が耳に入ったと同時に、走りながら体制を整えようとしたその男を征也(ゆきや)が捕らえていた。ぶつかったときに体勢を崩していたのはにれかが見切っていたからであった。征也(ゆきや)にとっては造作もない動きだったが、戦闘の心得がある軽やかな動きに真千花が吃驚した様子で何も出来ずに立ち尽くしている。
「大丈夫ですか!」
声の主が走ってくる。にれかが逃走者にぶつかられていた様子が見えていたらしい。にれかはさらりと微笑んで、怪我などはしていないことを伝えると、追いかけてきた人物に尋ねた。
「えっと、あなたは?」
「そこの樹木店の者です、木の苗を盗まれて追いかけてきました」
捕まえた泥棒を引き渡し、盗品が返却されたところを見届けてから、にれかと真千花は征也(ゆきや)と別れた。真千花が手を振って歩いている様子を、征也(ゆきや)は苦笑いしながら見つめて、二人が角に見えなくなるまで宿には入らずに待っていた。
(親切な街だ)
征也(ゆきや)は受付で名前を言うと取っていた部屋の鍵を受け取った。部屋に行く前に備え付けの電話機を借りて、何処かに発信する。
「最近物騒ですよね」
「そうね、泥棒だなんて」
にれかと真千花は並んで歩きながら、喫茶店の方面へ戻っていた。戻りながらふと思い出したように、真千花が言った。
「そうだ、にれかさん、知ってます? 農家の藍沢さんの話」
「奉納野菜の藍沢さんのことかしら」
「そうですそうです。この前聞いたんですけど、畑に知らない人の影が見えて、そのあとにお野菜が枯れちゃったんだそうですよ」
「お野菜……奉納する分のこと?」
「奉納するために育てていた分もやられちゃったんだって。なんか怖くないですか?」
「うん……水祭りが近いし、畑に知らない人の影だなんて……」
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