第4話『幻術の夢』
征也(ゆきや)は斃れてからずっと、長い夢をみていた。
花畑の向こうから、誰かが手を振ってくる夢だ。夢の中で征也(ゆきや)は、これが夢で見ている光景だと不思議と理解していた。
夢の中で自分はまだ小さい子供だった。まだ同じ集落に暮らしている自分たちと本当は同じではないものに対して敏感であったのに、その者たちに対して何かを思う知識がなかった頃の姿形をしていた。
自分に向かって手を振っている人物が誰なのかは分からなかった。分かることがあるとするならば、その人物が男性で、その人物が取っている不思議な行動が手を振っていることだと言うことだけだった。恐怖があった。その男が誰なのかが、分からないことに由来する恐怖だった。打算的な感情があって微笑まれている感覚があった。大人が思っている『子供は大人の事情なんて分からない』――そう思っている大人の心を見透かしている子供の感性のそれが感じ取っていたのだった。子供は大人が思っているよりも、大人の不穏な感情と感覚に不安を抱く敏い生き物なのだ。起きられない意識下を、悪夢が支配していた。金縛りのような感覚を、夢の中でも覚えていた。手を振ってくる男から目をそらせない。じっとその男から手を振られるのを見つめていないといけない。そんな状態だった。
悪夢寄りの夢だったから、本当は目を醒ましてしまいたかった。
征也(ゆきや)は幼少期に、元々生まれた集落から離れた子供だった。戦闘種族に売られたのだ。手を振る男の夢の映像は、何か象徴的に意味を持っているような気がして、征也(ゆきや)は夢の中で子供の姿のまま呆っとしていた。売られた理由は分からない。今も知らない。夢の中で、征也(ゆきや)は自分にはもう家族がいないことを思いだしていた。手を振っているのは誰なのかを思い出そうとして、心の冷え切った場所から引き返せと声を聞いた。
家族はいないが故郷は遠い場所に存在する。今ではもう、あって無いような場所。地図から国の名前は消えている。魔物が宗教を起こして、今は魔物が去った枯れた土地で犠牲者が暮らしている場所だった。征也(ゆきや)は自分のことを忘れてしまいそうで、記憶に縋ることをしていた。
手を振っている男は笑ってはいたが――帰ってくるなよと、言っているようにも見えた。
そこで征也(ゆきや)は目を見開いて、長い長い悪夢から現実へ帰った。目を引き剥いて喘ぐと、寒気と共に恐怖が身体を包み込んで、そのあとすぐに虚脱してしまった。何かを忘れている気がしていたが、自分が何を失ったのかを永久に思い出せなくなるような気がして、嫌な汗をかいていた背中がじっとりと冷たかった。
目を醒ました征也(ゆきや)は、自分の身の周りを確認した。ベッドに寝かされていて、近くにあるソファーに見知らぬ小柄な男性がちょこんと座っていた。本を読みながら、時折壁掛け時計を見上げていた。それが何処から聞こえてくるのかは分からなかったが、喫茶店が賑わうような声と物音が聞こえていた。その穏やかさが自分とはあまりにも縁が遠いもののように感じられて、征也(ゆきや)は横になったまま脱力してしまった。平穏な場所にかかっている背景音楽のような笑いさざめくやりとりが聞こえてきて、頭の芯が痛みを訴える。
征也(ゆきや)が目を醒ましたことに気がつくと、同じ部屋にいた青年が驚いた顔をした。
「あ、起きた。大丈夫ですか?」
征也(ゆきや)はおもむろに上半身を起こした。まだ脳に揺れを感じる。めまいを起こしながらも身体を起こすと、自分の腕や足を検める。変な色の光を見たことは記憶していて、その後転倒してしまったのだ――思い出しながら、記憶の欠損を感じていた。確か自分はひとを追っていた。捜していた犯罪者だった。倒れたときにつけてしまったらしい擦り傷には丁寧に手当がされていた。征也(ゆきや)は驚きながら、傍にいてくれた青年に尋ねた。
「あなたが助けてくれたのですか?」
「違う違う、おれは運んだだけです」
青年はひらひらと手を横に振ると、立ち上がった。
「助けたのも処置をしてくれたのもおれじゃないんですよ。ちょっと待っててください、呼んできますね」
征也(ゆきや)はその間に部屋の中をざっと見渡した。小さな家の客間のようだった。ベッドとソファーの他に、小さな卓が置いてある。少しだけ病院の個室にも見えるような雰囲気だったが、征也(ゆきや)は首をかしげておいた。
「にれかさーん」
青年が奥の部屋から叫ぶと、ぱたぱたと此方へ駆け足に歩み寄ってくる音が続いた。カフェスペースから顔を見せたのは、店の方で客にお茶を出していたにれかである。征也(ゆきや)が目を醒ましたことを察すると、ベッドに腰掛けたままでいる征也(ゆきや)に微笑みかける。
「よかった、目が覚めたのですね」
征也(ゆきや)はふらふらと立ち上がった。一緒に付き添ってくれていた若者が征也(ゆきや)を案ずるように見つめながら、現れたにれかを征也(ゆきや)に紹介した。
「此方、荊さんです。あなたが倒れていたところに居合わせたそうで、怪我の処置をしてくれました」
「そうだったんですか……ありがとうございます」
征也(ゆきや)は会釈して、礼を述べた。にれかはふわりと花が咲いたように微笑んで、征也(ゆきや)に言った。
「荊にれかと申します。座られていて結構ですよ。今、お茶を持ってきますね」
「すみません」
征也(ゆきや)が頬を掻くと、にれかはまた一旦下がっていった。その間に、傍にいてくれた青年が名前を名乗る。
「おれは杜屋多侑(もりやたすく)っていいます」
「杜屋さんですね。あの、ずっと傍に付いていてくれたんですか?」
「はい、放っておくわけにはいかないですから」
征也(ゆきや)はぼんやりしてしまう頭の奥の部分を気にしながら、多侑にも何度も礼を伝えていた。
「多侑さん、旅人さんが起きたの?」
「あ、薔子ちゃん」
にれかに代わってひょっこり顔を出したのは薔子だった。エプロンのポケットに入っているハンカチで手を拭きながら、とことこ部屋に入ってくる。
薔子はそのまま征也(ゆきや)の顔色を心配そうに見つめていたが、ふと微笑んで、
「青山薔子です。よろしく、旅人さん」
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