第2話『旅の追手と氷川町の日々』
先を走る女の荒い呼吸が聞こえてくる。此方は戦闘のために鍛えた脚がある。相手は弱い女一人、持久力を比較するまでもなく、此方が追いつくのは時間の問題だ――犯罪者を追って道なき道を走っていた鮫島征也(さめじまゆきや)は目前に追い詰めていた敵手を捉えるところを想像して、ふと足下を見た。何か光のようなものが弾けたのだった。不審に思い走りながら下を見るが、脚に何かが起きた様子はなかった。だが顔を上げた瞬間に、目の前に泡のようなの丸い光、奇妙な薄紫色の光を含んだ球体の物質が迫ってきていて、征也(ゆきや)の眼前で大きな音を立てて本当に弾けたのだった。犯罪者である魔物と魔女を追っていた道中だった。何が起きたのか分からないままの征也(ゆきや)の目の奥に、紫色の匂いが光を射しこんでいた。俄に視界が波打って、目に映っているものの線という線が歪み出す。
(何だこれ、まさか幻術、か……?)
標的を追って走っていた征也(ゆきや)だったが、自然と走れなくなる。そのまま倒れるように膝をつくと、身体はぐにゃりと頽れる。自分も歪んだ線で出来た世界の一部になったかのように、関節が不気味な軟らかさになりながら地面に伏すと、その状態で烈しい目眩に襲われる。目の奥が激しい光の明滅で頭が割れるように痛い。強烈な吐き気に見舞われて、征也(ゆきや)は地面の上でもんどり打った。酷い嘔吐感がするが、実際に吐くものは何もない状態でやってくる吐き気に、上着の胃の上の布をむしるように握りしめる。立っていられないどころか、苦鳴をあげて身体を折り、這いつくばったまま、立ち上がろうとする努力も空しい。視界は徐々に波の強弱が強くなり、マーブリングの模様のように全ての線がぐにゃぐにゃと姿を変えて色彩を線の中にとどめることを放棄する。征也(ゆきや)はそのまま草陰に転がり、意識を失った。石の候補――悪魔や魔女を指す隠語である――それらを見つけて追っている最中であると、電報を打って旅先の宿を出てからしばらくしての出来事だった。
「……死んだ、かな」
征也(ゆきや)が倒れて動かなくなってから少し時間がたってから、近くにあった植え込みの影から背の低い女が顔を出した。その手の中には、先程征也(ゆきや)が顔面に受けた紫色の泡のような球体がぷかぷかと浮いている。うなされながらそこに倒れている征也(ゆきや)を用心深く見つめていたが、幻術を当てた女は草の塊の影から出てきて、失神している征也(ゆきや)を見下ろした。
「鼠奈(そな)、あんまり近づくなよ」
鼠奈(そな)と呼ばれた女の背後から現れた小柄な男が、女の肩に手を置いて後ろに引いた。女は後ろに数歩退いて、意識のない征也(ゆきや)の顔の近くに唾を吐いた。征也(ゆきや)はまだ何かを言っていたが、男はその内容は気にせず、征也(ゆきや)にまだ呼吸があることに注目して呟いた。
「生きてるな」
「だって殺してないもん」
女は口先を尖らせて、腕を組んだ。愛らしくはあるが、釣り気味の目は何処か卑しい光を瞳の奥に明滅させていた。何か考えている態の男に対して、何処となく高慢な待ち方で言葉が出るのを待っている様子だった。考えることがあまり得意ではなさそうな風貌である。
「追手、撒けるじゃん。殺しちまおう」
「亜久郎(あくど)、そこに誰かいる」
亜久郎(あくど)と呼ばれた男が顔を上げると、鼠奈(そな)が目の端に置いていたビニールハウスがその視界に止まった。交錯の場所は植え込みがあって、畑があり、ビニールハウスが点在している場所だった。町が近い気配もする。亜久郎(あくど)は征也(ゆきや)を殺そうと試みていたが、現場近くにあったビニールハウスから人の声と物音がしたのである。亜久郎(あくど)は持っていた刃物をしまうと、目を懲らしてビニールハウスの方を見た。ハウスの中で作業をしている人影が見えた。出てきたのは女性の影で、此方の視線に気づいたのか怪訝そうに会釈をしてきた。向こうにこちら側の顔は見えていないようであった。
「逃げよう、こいつは放っておけ」
二人組は植え込みの中に姿を隠すと、そのままいなくなった。
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