冷血と神連れ

剣城かえで

第1話『悪から名前を訊かれたら』

 悪魔から名前を訊かれたときは、答える必要はない。この言葉は昔々からある、諺のようなものだった。神命(かみ)が降りる器である神官が、悪魔に誰何されたときに答えないやり方を、悪魔に出くわした一般の人間も倣って行動するのだ。黄昏時に暗がりで名を尋ねるような風の囁きを聞いた者は唇を噛みしめて家に走る。名を訊かれて答えてしまうと、魂を取られて自分ではない人生を歩ませられるとも言われている――


「お前は、何者、か」


 魔木は何度も尋ねていた。醜い人間と醜い植物との合いの子みたいなおどろおどろしい姿の植物は、木霊(ドラド)に憑依されて荒れていた意識を鎮められつつあった。木霊(ドラド)――植物の悪魔の霊に取り憑かれた魔の植物は、水の代わりに人間の血を欲し、太陽の代わりに不安を呼び起こす魔女の月が放つ光を要求する。魔木と魔木の数々の木陰を移動して逃げていたその木霊(ドラド)の居場所である木を押さえたのは、一人の女性だった。

 それは魔木禍の終焉だった。木霊(ドラド)が中にいるその木に荊にれか(いばらにれか)が触れると、金属の粉のような木粉を撒きながら瘴熱のような風を葉の間に生み出し続けていた魔木が静かになる。にれかが木の幹に触れると、植物の呼吸と魔木の意識から生じる植物の苦しみ、そして中に姿を隠している木霊(ドラド)の呻きがにれかの身体の内側に聞こえてきた。植物の心臓の鼓動を読みながら、自分に対して誰何する意識――荊にれかという人物に対してお前は何者なのかと知りたがる動揺を感じ取る。魔木そのものは苦しんでいる。木霊(ドラド)を秘めてしまっていることで、罰を望んでいた。魔木の内側で血を欲しがることをやめて死脈を打ち始めた木霊(ドラド)に対して集中し、悪霊の芯を見極める。

 それは神官としての覚醒だった。一介の志願兵だった彼女に、神命(かみ)の心と言葉とが真っ直ぐ降りていたのである。

 子供の頃から『悪からの誰何に応じる必要はない、応じてはいけない』という教えがあったことと、その理由について、にれかは誰に教えてもらうわけでもなく何故そう言われるのかを悟っていた。魔木が憑依されて発生させた風ではない気の流れが生じて、にれかの横分けの前髪が汗ばんだ額の上で揺れていた。やがてその微風が収まる。

 涅槃。陽の光さえ届かない心の凍えた場所に、愛が届いたような瞬間だった。最も明るい場所と最も暗い場所とを平等に照らす灯りがにれかの心に灯り、辺りに拡散する。光によって爆発が起こり、風という風が消失する。戦いのために生じていたあらゆる疲弊と苦悩が驚異によって姿を消す。業念が消える。消えざるを得ない負に相当する様々な質量が消える。蝋燭の炎が自然と消えたときのような、虚ではない静寂。にれかが手を触れている魔木から、魔である部分が、魔たる毒性が消えていく。純粋な植物としての鼓動が、にれかの手のひらに伝わってくる。肌が冷たいのに、身体の内側では血が喜びで昂ぶっていた。

 血が自分の人生を言祝いでくれている。にもかかわらず、にれかの身体はこの街のために震えていた。この木が眠りについたら、どれだけの時間が穏やかなものとなってくれるのだろう。憑依された魔木が出した木粉を吸って肺を患った人々が、薬に出来る木になってくれる予感が、にれかの芯を烈しく慄えさせた。

 同時ににれかは誰何に応じる必要がないことを、より強く感じていた。だがその心は最早にれかだけの精神ではなかった。この心が神命(かみ)と通い合い魔と神命(かみ)の関係を理解していたのだ。神命(かみ)の意思の通り道になっていることにまだ気づいてはいないにれかだったが、誰何に応じないことに理由がないことが理由だと思わざるを得ないのだった。

 人間の肉体は神命(かみ)が現れる度にその肉体に恩恵を受け入れる。受け入れることで神命(かみ)に感謝し、慕い続ける人間の本能が神命(かみ)の知恵と言葉を取り込み続けていく。にれかはそこでようやく、自分が淡いのに眩さに強さがある光に包まれていることに気がついた。そこで自分の身体や姿を検める余裕はなかったが、自分を纏う光を強く感じて胸の奥に力を入れた。自信とは違う力強い自律を感じさせる佇まいで、にれかは手を触れている魔木を見つめた。木霊(ドラド)が苦しむ声を聞きながら、心の内で魔木と言葉を交わす。

 神命(かみ)にあなたは誰で何者なのかと、質問をしたらいけない。神命(かみ)は神命(かみ)であるというだけで人間にはその存在を理解できる。別の言い方をするならば、人間ならば神命(かみ)に対して名前を訊いたりしないのである。神命(かみ)を分かっていながら誰何するいけない者が石の国の住人で、すなわち魔女や悪魔に相当する。神命(かみ)は悪魔を石像にすることが出来て、魔女に対しては尻尾を巻いて故国に、石の国へ帰れと言うことが出来る。

 荊にれかに神命(かみ)が光臨している。女性の神命(かみ)の言霊が、にれかの心の中で怒りに震えている。魔木に触れていた手のひらが、木の中に巣くっていた木霊(ドラド)の生命力を奪っていた。木に触れている箇所からではなく、大きな木の根が地面から外れる。足下の地面に地割れが出来ると、魔木は大きく揺れてから、倒れることは免れてその場で凍り付いた。魔木の中に隠れていた木霊(ドラド)は、にれかの心肺が司る毒気を吸い出してしまう力の前に消失して、辺りに砂埃として散ってしまう。

 神命(かみ)の心が降りたままのにれかは静かになった魔木を前にして、自分の言葉など持ち合わせてはいなかった。身体も心も隅々が神命(かみ)のための器として空になっている状態だった。にれかは重々しく口を開いた。


「魔女は死なないといけない。悪魔は石にならないといけない。此処は私の大切な方が神命(かみ)になられた理由の土地。尻尾を巻いて故国へ帰らなくば、私はおまえたちに酷いことをして殺してしまうかもしれない」


 おどろおどろしい生き物めいた形状の樹木だった魔木だったが、にれかの言葉を聞いた後に、表皮の形状が自然な色に変色し、急速に力を失っていった。静かに冷たくなり、その後、木化という段階に入る。これは魔木が魔毒を失う過程のことを言う。魔木の材質は石の粉のようにぱさついているものだが、次第に通常の植物に似た木材状の植物組織に変わる。

 魔木の姿と呼吸が木化状態に入ると、にれかの中に消えていた影が戻ってくる。神命(かみ)の姿がにれかの内側の芯から消えると、にれかは力が抜けたようにふっと笑った。泣いているかのような美貌だった。安堵と喜び、周りの仲間たちが知らない尊い意識との対話、悪しき植物の心と交わした言葉――たくさんの想いがにれかの心の中で温かな奔流となってその虚ろな精神の一部を満たしていたのだった。

 にれかがいつもの様子に戻ると、その様子をずっと見守っていた神職・雨霧杳夜(あまぎりようや)が沈黙を破って一番ににれかの元に駆け寄った。杳夜(ようや)はすばらしく美しいものを見たと言わんばかりに破顔して、今までの苦労や葛藤の一切を投げ出した様子で捲し立てた。


「にれかさん、すごいことです! 神命(かみ)が、神命(かみ)が降りられた! 神命(かみ)があなたを選んでその心とお言葉をご光臨された! すばらしいことです!」


 木霊(ドラド)が現れ、魔木が大量発生し、町はたくさんの犠牲者と病人を出した。突如として現れた魔木の退治、伐採、鎮圧に当たっていた神職と町の有志に囲まれて、にれかは凜とした花が咲いたように微笑んでいた。


「魔木から毒素がなくなりました。これから検体をとって成分の分析をします。このままこの魔木だったものは、この先の季節の、町の資材に出来ると思います」



 これはひとと神命(かみ)の距離と世界が少し近い仮想日本の物語。人々を救い神命(かみ)となった人間たちが忘れられ往く朝の黄昏と、神命(かみ)に置き去られた人々との、教えなき信仰心でつながり合う心で出来た日々が、平穏を敷く世界のお話である。


『この街は、君を、愛している――それを、忘れないでね』


 耳元で硬質な金属が金属にこすれるような高い音を、にれかははっきりと聞いた。それは神命(かみ)の声だった。活躍したにれかのため、静かになった魔木を切り出そうと神職たちが動き出すのを見つめながら、にれかはそっと胸に手を当てた。

 この心が必要とされている。必要とされているだけで生きていけるとは言えない自分のままならなさが戻ってくる。あの光は何だったのだろう。疑問が疑問ではなかったあの瞬間の自分を思い出せなくて、考える表情になる。


(私は、生きていないといけないんだ)


 生きていないといけないと、窮境ではない何かが思わせてくれたことを、きっと忘れてはいけないのだ――そんな想いに長い睫毛の影を曇らせていると、杳夜(ようや)がにれかの頭にぽんと、大きな手のひらを乗せている。見上げると、杳夜(ようや)は精悍な笑顔でにれかを見下ろして、何も言わずに大きく頷いていた。何処か杳夜(ようや)の微笑みだけではない力強さを感じながら、にれかも釣られて微笑んでいたのだった。

 王国から魔木が消えた日。二年にもわたる魔木禍に終止符が打たれた日。植物ではない樹木、毒や炎や病の風を出し、ひとの血を欲する木である魔木が発生してたくさんの人々が植物病という障害を患い、多数の死者を出した。木霊(ドラド)や悪魔の発生による天変地異の一つとして起きた現象かもしれないと囁かれているが、二年が過ぎた今でも、当時の元凶が何だったのかは分かっていない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る