五章 永見智恵理と鈴前七楓 7(ながみちえり と すずまえななか)

 何度目かの雷鳴が轟いた。


 血の匂いが、あっという間に小屋の中に充満していく。

 心臓を貫いた果物ナイフは、佐原さはらさとるの体から無限に血液を吸い出していた。


「皆、見てる? 仇は取ったよ」 

 私は言い知れぬ疲労感に伸し掛かられて動けなくなっていた。投げ出した足が生暖かい血に汚れていく。

 佐原悟は己が生み出した血だまりの中で徐々に徐々に動かなくなっていった。

 これで終わりだ。呪いも呪い返しも、全部。

 己の最後を悟ったのだろう、佐原悟は最後の力を振り絞って私を睨み、


「ち、違う……」


 ……え?

「俺じゃ……ない」

 掠れた声を絞り出した。


 一瞬、思考が暗転した。今、何と言った? 違う? 何が?

「お前の仲間を殺したのは……俺じゃない」

 は? 何言ってんの? 

「……違う」

「いや、あんたじゃん。全部あんたがやったんじゃん」

「……違う」

 違わないよ。今更、何を言い出すんだ。

 佐原悟は物も言えなくなった私をじっと見つめ、ごほごほと湿った咳を吐き出した。

「お前は……もう、大丈夫だ……」

 大丈夫? 何言ってんのよ。

「……莉子を許してやってくれ……」

「何のことよ! 適当なこと言うな! あんたでしょ! あんたがみんな殺したんだ!」

 思わず声を張り上げたけれど、佐原悟はもう私を見てはいなかった。死霊を思わせる虚ろな目は、私と佐原悟のちょうど中間の暗闇を捉え、  

「母ちゃん……ああ、母ちゃん……」

 そこに何を見ているのだろう。涙の混じる声を漏らした。

「母ちゃん……ごめんな……大好きだったよ……でも、限界……だったんだよ。ごめんな……俺も一緒に死ねば良かった……ごめんな」


「ねえ、何言ってんのよ」

 なんであんたが泣いてんのよ。血も涙もない冷徹な殺人鬼のくせに。

 また遠くで雷鳴が轟いた。したしたと雨が小屋の屋根を叩き始める。その音に誘われるようにして佐原悟は言葉を吐き出し続ける。


晴子はるこ莉子りこ、みんなどこに行っちゃったんだよ……またピクニック行きたかったなぁ……公園でテント張ってさぁ……楽しかったよなぁ……なんだ、晴子……弁当作るの面倒か? サンドイッチ買おう……コンビニでな……莉子はポテトか? ……お父さん、ビールいいかな? 凧も買おうな……お父さんが揚げ方……教えてやるからな……楽しかったなぁ……もう一回みんなでピクニック……行きたかったなぁ……」

 

 そして、佐原悟は喋るのを止めた。

 動かなくなった佐原悟は、生前に見た時よりも随分と小さく、随分と痩せたように見えた。

 私は、遺体になったばっかりの佐原悟を見つめる。

 なんだったんだろう、さっきの言葉は。

『お前の仲間を殺したのは……俺じゃない』

 どういう意味だったんだろう。

 ただの負け惜しみか、或いは……。


 雨はどんどん激しくなる。風を伴い、隙間だらけの小屋の中にも振り込んでくる。

 私は雨粒を避けようとして身をよじり、

「何、これ……」

 床についた掌が違和感を捉えた。ゴザとは明らかに違った感触。拾い上げて二つに開くと、ぼんやりとした光が小屋の中を照らした。

「え、嘘でしょ。これって」

 天文ブック。まだこの小屋にあったのか。

 なんだろう、この違和感は。

 なぜ、これがまだここにある? 充電も活きたままで。

 外面を擦ると人差し指に何かが触れる。平たくて固くて、猫の手を模したUSBメモリー。この形には見覚えがあった。

「……莉子なの?」

 偶然とは思えなかった。莉子が私達に何かのメッセージを残してくれている?

 そうだ、芝が言っていた。自分に何かあったら天文ブックを回収しろと。まさか、これが呪い返しのヒントなのか。


 また雷鳴が轟いた。

 雨がかからないようにかばいながら、天文ブックを開いてパスワードを打ち込んだ。画面は一度ホワイトアウトし、すぐに横書きの文字列を表示する。

「これは、テキストファイル?」

 直前まで誰かが読んでいたのだろうか。改めてカーソルを一番上に戻して最初から目を通してみる。

「ちょっと……何、これ?」

 それは衝撃的な文章だった。


《2019年 2月7日》

《また、お父さんが人を殺した》

《私に黙ってこっそりと殺した。なぜなの、お父さん? なんでそんなことができるの?》

《もう嫌だ。お父さんがわからない。優しかったお父さんはどこへ行ってしまったの?》

《あんなにお願いしたのに。私なんてもうどうでもいいの?》

《それがお前のためだとお父さんは言う。私はこんなに苦しいのに。こんなに悲しいのに。》

《もう、最後の手段しかない。涙が止まらないよ》


「これって、莉子の日記?」

 莉子はやはり父親が呪殺を請け負っていたことを知っていたのか。莉子の心の傷が目に見えるような悲痛な文章が綴られている。

「読んでもいいんだよね、莉子?」 

 躊躇ったのはほんの一瞬、次の日記にカーソルを合わせて実行キーを押し込む。タイトルに書かれた日付は二週間後になっている。


《2019年 2月25日》

《やった。ついにお父さんがわかってくれた》

《包丁を持ち出して死んでやると脅したらわかってくれた。》

《もう私に内緒で人を殺さないと約束してくれた》

《チョロい親だ》

《明日が楽しみ。ついについについに、呪殺の現場をリアル視聴できる》

《呪殺をこの目で見ることができるんだ》

《苦しむのかな? どんな声を出すんだろう? どんな顔をするんだろう?》

《ヤバい、ニヤけが止まらない。濡れてきた》


「濡れてきた……?」

 最後の一文を声に出して繰り返した。

 何、これ?

 瞬きを忘れた目がきしきしと痛む。文章の意味が理解できず二度三度と読み返すうちに、粘膜のような汗が全身からジワリと湧き出した。


 ――チョロい親。

 ――呪殺の現場をリアル視聴できる。

 ――呪殺をこの目で見ることができる。

 ――濡れてきた。


 どれ一つとして言葉が莉子の声で再生できない。なんだ、これは? これが本当に莉子の日記なのか?

 唾を飲み込み、テキストファイルを閉じると、ウィンドウに日記の日付がびっしりと並んでいた。

 寒気がした。

 このたくさんのファイルの中に、いったい何が書かれているのか。それは私の知る莉子なのか。

『……莉子を許してやってくれ』

 去り際の佐原悟の言葉が頭によみがえる。次の日付のテキストファイルにカーソルを合わせた。もう日記を覗く罪悪感は消えている。


 ただ、キーボードを操作する指が、どうしようもなく震えて止まらなかった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る