五章 永見智恵理と鈴前七楓 3(ながみちえり と すずまえななか)
「あたし、なんか……そっちに行けないの」
大真面目にそう言われ、背筋がゾクリとした。
なんだ。何を言ってるんだ、この子は。
冗談は言っていない。目つきから真剣さは十分に伝わってくる。伝わってくるからこそ、怖かった。
「行けないって……そんなわけないじゃん。おいでよ、ほら」
「うん、行く。行くよ。そこにいてね、
「いるから。おいで」
手招きに答え、
「行くよ……行くからね、七楓」
しかし、真っ直ぐに踏み出されたその一歩は、無情にも直角に捻じ曲げられて地面に落ちた。
「そっちじゃないよ! 智恵理こっち!」
「うん……行くよ……行くよ」
「待って、そっちじゃないって! こっちだよ、智恵理! 戻って来て!」
「うん、行くよ……行ってるよ。そこにいて……動かないで、七楓」
「智恵理!」
もう、私の言葉は届いていなかった。
智恵理は一歩一歩踏み固めるように足を進め、そのままゆっくりゆっくりとベンチの周りを一周し、手で位置を確認しながら慎重に座部に腰を下ろした。そして、また悲鳴を上げる。
「うわっ、やっぱり戻されてる! どうなってるの、これ! なんでそっちに行けないの」
ああ、ヤバい。
恐怖が足元からせり上がって来た。
どうしよう、智恵理に何かが起きてる。なんなの、これ。
「ねえ、何で? なんでそっちに行けないの? 七楓、あたし誰に戻されてるの?」
「誰にって」
「七楓からはどう見えてるの! 誰があたしを引き戻してるの!」
「誰にも戻されてない……よ」
「え?」
「智恵理、自分の足で戻ってるよ。さっきから……ずっと」
「……は?」
智恵理の目が零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。
次の瞬間、鞭で打たれたように智恵理が立ち上がる。今度は駆け足だった。全速力で草を蹴り、転びそうになりながらベンチの周りを回ってまた座る。
「やだぁっ! なんで! 行けない! なんで!」
そして、また立ち上がる。駆けて曲がって回って座って、また駆けてまた曲がってまた座って、駆けて曲がって座って駆けて曲がって座って駆けて曲がって座って駆けて曲がって座って駆けて曲がって座って駆けて曲がって座って―――
「なんでぇっ!」
また、叫ぶ。
異常行動。
私はねずみ花火のように駆け回る智恵理に何も言うことができなかった。怖くて歯の根があわなかった。目の前で友達がおかしくなっていく。その事実が、怖くて怖くて仕方がなかった。
「七楓……助けて……助けてぇ!」
ついに智恵理は動けなくなった。汗と涙でどろどろになって、ベンチに座り込んで泣き叫んだ。
「七楓、助けてぇ」
「うん……今行くから。待ってて」
行かなくちゃ。智恵理を助けて出さなくちゃ。震える足を無理やり前に押し出して、何とかベンチの前に立つ。力尽きたようにぐったりと沈み込む智恵理の体を正面から抱き締めるようにして抱え上げ、ゆっくりと立ち上がらせた。
「智恵理、歩ける? 一緒に行くよ」
「うん」
言葉とは裏腹に、私が腕を離した瞬間に智恵理は腰でも抜けたようにぺたんとお尻をベンチに落とした。
「立てる? 智恵理」
「うん……立てる……引っ張って」
私の腕に縋って智恵理は立ち上がり、手を離してまた座った。そしてまたすぐに立ち上がって、座って立って、また座る。
異常行動。涙が溢れそうになった。
「智恵理……お願い。立って」
「立つ、立つよ……でも、どっちが立ってるの? あたしどっちが立ってるの?」
「智恵理……」
まるで壊れた人形のようだった。智恵理が私の腕を握って、目の前で座って立って座って立って座って立ってを繰り返す。
「ねえ、七楓。どっち? どっちが立ってるの? わかんないよ。あたし、どっちが立ってる状態なの?」
もうやめて。お願いだから、もう――。
頭がおかしくなりそうだった。眩暈を感じて足がよろける。
「きゃあっ!」
ふらついた拍子に足が絡まり、湿った草に尻餅をついた。お尻より腰に痛みが走って息が止まる。
……あ。
その瞬間に見えた。
ベンチの下だった。
暗い河原のさらに一番暗い場所。
そこにいる。
何かがずるりと這い出した。
「いやああああああ!」
智恵理の悲鳴が河原を走った。
ベンチの下から現れたそれの手が、智恵理の足首を掴んだからだ。長くて汚い髪の毛がだらりと下がって草をなでる。
細い腕、白い着物、えらの張った輪郭。大きな目が真っ直ぐに智恵理を見上げていた。
直感的に確信した。
恐怖が頭の中で爆発する。
「智恵理、逃げて!」
有らん限りの力で叫んだつもりだったけれど、実際は声一つ上げることができなかった。
体がガクガクと震え出す。指一本動かせず、瞼を閉じることもできず、膝をついてただただ震えることしかできなかった。全身がぐしょぐしょに濡れている。涙なのか、汗なのか、涎なのか、失禁していたのか、自分でも判別がつかなかった。
「……七楓……助けて」
智恵理も動けないのだろう。ベンチに座った姿勢のまま、見開いた目だけをこちらに向ける。
尾島貴子はそんな智恵理の脛を掴み、膝を掴み、体をよじ登り始めた。
「……助けて……七楓」
ガタガタと震える腕を掴み、肩に手をかけ、太腿に跨り、のしかかるようにして智恵理の顔を覗き込むと、
「……七楓」
助けを求める唇に汚れた指をかけ、
「……助けて」
そのまま、ずぼりと第一関節まで口の中に押し込んだ。
「……あああああ」
智恵理の体がぶるりと波打った。その震えに同調するように尾島貴子は身を震わせ、喉に差し込んだ指をさらに手首まで入れ込んだ。
「うううああうあう……ああああああ……」
尾島貴子はさらに手を捩じる。
入っていく。
手首から肘、肘から二の腕と肩まで、智恵理の口の中にどんどん入っていく。
「……ああああ……うううううう……」
目の前の光景が信じられなかった。
尾島貴子が智恵理の中に入っていく。肉に潜る寄生虫のようにグネグネと体をぐねらながら、智恵理の口から侵入していく。
ついに頭が入った。そこから胸、腰、腿が智恵理の口に消えていく。尾島貴子を飲み込む度に智恵理の体がビクビクと震えた。
「……う……うう……」
最後に爪先が口中に消えた途端、糸が切れたかのように智恵理の体がベンチに沈み込んだ。
「……智恵理」
名前を呼んだつもりだったけれど、言葉は歯の間でひゅるひゅると鳴るばかりだった。
智恵理の亡骸は、反射だけでまだビクビクと震え続ける。息がないことは確かめるまでもなくわかった。
その喉は、人でも飲み込んだかのように大きく膨れ上がっていた。
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