五章 永見智恵理と鈴前七楓 2(ながみちえり と すずまえななか)


 夜の町は雨雲の到来を予言するように、じっとりと湿った空気に覆われていた。


 抜け出したのがバレるので自転車は使えない。

 街灯から街灯へ、光の飛び石を踏むように生温い夜の道をジグザグに走った。いつもは暗闇なんて怖くない。明りの届かない細道も、獣が潜んでいそうな荒れ庭の横も平気で歩いていられたのに。

 今日だけは暗闇が怖くて仕方がなかった。


 でも、行かなくちゃ。私が智恵理ちえりを見つけなくちゃ。

「うわ、ごめんなさい」

 考えながら走っていたら、曲がり角の出会い頭で犬の散歩をしていたおばさんとぶつかりかけた。謝罪もそこそこにまた駆ける。飼い主よりも連れている犬の方が不満げに見えた。

 ボーダーコリー。しばが来月飼うと言っていた犬種だ。涙が溢れそうになった。佐原さはら家に向かった芝はどうなっているのだろう。無事でいてくれるだろうか。芝は逃げる気はないと言っていた。あれはどういう意味なんだろう。呪い返しの正体を掴むまで帰らないという決意か。それとも――。

 だめだ、泣くな。瞼に力を籠め、暗闇を睨み付けるようにして走り続けた。


 目的地まであと少し。智恵理は多分そこにいる。いや、きっといる。絶対にいる。お願いだからいて欲しい。

 天文部のもう一つのたまり場、小川の土手の『虫眼鏡のベンチ』――お金のない私達が行く場所なんてあそこしかない。

 思えば、あの場所を見つけたのも莉子りこだった。部活の終わりに、いい休憩場所を見つけたと自信満々に私達を連れ出した。うらびれたベンチに案内され一瞬面食らったけれど、楡の枝が木陰を落としていて川の風もよく通るから存外居心地が良く、暑い時期の格好のたまり場となったんだ。

 色褪せた古びたベンチに腰掛けて色んな話をした。部活の話、クラスメートの噂話、先生の悪口、恋の話、バカな話。

 しばが川に入ろうとして転んだこともあった。智恵理が大人ぶって煙草を吹かそうとしてむせていた。私が買った変なお菓子をみんなで食べた。

 虫が苦手のほたるのために莉子が大量の蚊取り線香を持ち込んだこともあった。それなのに肝心のライターを忘れて虫眼鏡で必死に着火しようとしていた。その日からあのベンチは『虫眼鏡のベンチ』と呼ばれるようになったんだ。

「馬鹿だな、莉子は……」

 楽しかった時期を思い出すとまた涙が込み上げてきた。まだ泣くな、泣くと走れなくなる。もうすぐだ。信号を越えて坂を上れば、


「……ああ、いた」


 人も寄り付かない真っ暗な土手のベンチの上に、膝を抱えて蹲っているシルエットが見えた。念のため電話をかけてみると、ベンチの上の人影はスマートフォンらしき何かを手に取り、出るでもなく切るでもなく、そのままじっと見つめていた。

「智恵理!」

 電話を切って名前を叫ぶ。パジャマ姿の智恵理はしばし、夢か幻か見極めるかのように私の顔を見つめると、

七楓ななか

 泣き顔を膝に隠した。

「智恵理、良かった」

 草をかき分けてベンチに駆け寄る。縋り付くようにして抱きしめた。肌がベタつく。汗が香った。

 生きている証だ。

 良かった、本当に良かった。安堵感で膝から崩れ落ちそうになった。


「何ともないよね? 無事だったんだよね? 体触るよ?」

 泣き続ける智恵理の頭と肩、腕、背中、腰、足を上から順番にさすっていく。

 大丈夫、怪我はない。着衣にも乱れた跡はないようだ。掌に返ってくる弾力が嬉しくてついつい手付きに力が入る。智恵理の細い四肢、愛おしい体。

「ねえ、痛い。強いって、七楓」

「ごめん。でも、心配したんだからね。なんでこんなとこにいんのよ」

「……」

「智恵理のお母さんも心配してたよ。さ、帰ろう」

「……」

 引っ張った腕に想像以上の抵抗を感じて足がつんのめった。

「智恵理?」

「……やだ」

 顔を伏せたまま智恵理はくぐもった声で言う。

「ねえ、そんなこと言わないで」

「……帰らない」

「智恵理」

「帰らない!」

「なんで? 危ないじゃん、こんなところにいたら」

「じゃあ、どこなら安全なん?」

 そこでようやく智恵理は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「どこも安全じゃない! 家だって……来たもん、あいつが」 

「あいつって……」

「見えたの。窓から何となく外を見たら家の前にいた。ゾッとした。あれ、絶対そうだった。莉子パパだった」

 鳥肌が首筋を駆け抜けた。佐原さはらさとる、やっぱり智恵理の家に向かっていたのか。

「そ、それ、いつの話?」

「ついさっき。じっとあたしの部屋を見張ってた。あたし怖くて、怖くて。警察に知らせようとしたら、あいつが誰かに電話で呼び出されたみたいにいなくったからその隙に飛び出してきた」

 電話で呼び出す? 佐原悟を? いったい誰が? 『うた』の関係者か。

「七楓、あたし怖いよ。怖くてたまらないよ。誰も信じてくれないの。あたし本当のこと言ってるのに。パパもママも全然信じてくれないの。言ったんだよ、みんなで遠くに逃げようって。マジで呪われるからみんなで遠くに引っ越そうって。でも、全然信じてくれなくて。馬鹿なこと言うなって怒られて。警察だってあてになんないし。もう、どうしていいかわかんないよ」

 ベンチをギシギシと軋ませながら不安と恐怖を吐き出す智恵理、痛いほど気持ちはわかった。

 言えないという苦しさ、言っても理解されない悲しさ、それは心を内側から蝕んでいく。


「だからって、こんなとこにいても余計に危ないだけだって。佐原悟以外の危険だって寄ってくるかもだよ」

「さっきも変な人にしつこく声かけられた……めっちゃ、怖かった」

「ほら! やっぱり、帰ろ。ちゃんと話したら親もわかってくれるよ。私も一緒に行ってあげるから。ね?」

「やだ、絶対に帰らない」

「ねえ、どうしてそんなこと言うの」

 揺すった智恵理の腕に、ギュッと力が籠った。

「あたしが帰ったら、パパとママまで巻き込まれるかもしれないじゃん」

 ……え。

「あたしと一緒にいたらパパとママも死んじゃうかもじゃん。そんなのやだもん」

「……智恵理」

「だから帰らない。決めたの。あたしは、一人で死ぬ」

 そう言って智恵理はまた泣き出した。


 私も限界だった。

 馬鹿みたいに涙が溢れた。

 智恵理を馬鹿みたいに抱きしめた。

「智恵理……智恵理……智恵理……」

 何を言ってあげたらいいのかわからず、何度も名前を呼び続けた。

「七楓、あたし怖いよ」

「大丈夫……大丈夫だから」

「怖くてたまらない。呪いで死ぬのって、痛いのかな?」

「そんなこと言わないで。私達、絶対死なないから。そうだ、メール送ったでしょ。芝が必勝法を見つけてくれたの。佐原悟は撮影されるのを怖がるの。だから、これで撃退しよ」

「……それって本当なの?」

 嗚咽を堪えながら智恵理は顔を上げた。

「どういうこと?」

「だって、相手は人を何人も呪い殺してる凶悪犯なんでしょ? 撮影が怖いとか信じられないんだけど」

「でも、しばはそれで撃退できたって言ってたし」

「本当にそれが原因なの? たまたま色んな流れが重なってそう見えたってことない? 芝って思い込み強いとこあるじゃん」

「それは……」

 ない。とは言い切れなかった。芝の思い込みの強さはみんなが知っているところだ。それは天文部の活動にも影響を与えるほどに。


「七楓さあ、『晴れ』のおまじないのこと覚えてる?」

「うん、夜間観察前にいつもやってるやつだよね?」

「そう、それ。それだってたまたま最初の一回が晴れただけなのに、このおまじない最強だって勝手に芝が盛り上がって、勝手に恒例にしちゃったじゃん。またあの感じじゃないの?」

「いや、待って。確かに芝はそういうとこあるけどさ。これ見てよ、送るから」

「何? え、動画?」

 私に言われるままにスマートフォンを操作する智恵理、ややあって、川のせせらぎに何度も聞いた女の悲鳴が混じる。

「これ、莉子んちのキモい小屋じゃん。録画してたの?」

「うん、してた。ほら、ここ見て。佐原悟が斧振り下ろすの」

「無理無理、グロ画像じゃん」

「違う違う。佐原悟が叩いてるのって、お母さんじゃなくてお母さんの携帯なの。ほら、見て、ここ」

 顔を背けようとする智恵理を抱き抱え、無理矢理スマートフォンの画面を見せる。

「えー、怖いってぇ。見たくないってぇ。あ、でも……ホントだ。スマホ叩いてる。うわ、こっからはもうお母さん完全無視でスマホばっかいってるじゃん。なにこれ、何してんの?」

 片目の薄目で覗いていた智恵理が、がっつりとスマートフォンに顔を寄せた。

「わかんない。百地のお父さんは呪い返しと関係あるんじゃないかって言ってたらしいよ」

「呪い返し……とは?」 

「よくわかんないけど、呪いを跳ね返す……みたいな。そんな感じじゃないかな?」

「そんなんできんの?」 

「まだ何もわからないの。でも今、芝が呪い返しのヒントを探すために莉子の家の小屋にいる。私も今から行くつもり」

「嘘でしょ? あのヤバい小屋にまた行く気なの?」

「私だって行きたくないよ。でも、芝も蛍のお父さんもあの小屋が呪い返しのキーになると思ってる。だから行かないと。智恵理は家で待ってて欲しい」

「……やだ」

「智恵理、お願い!」

「あたしも行く」

「え?」

 もう引っ叩くしかないかと思ったけれど、智恵理の口から出てきたのは予想外の言葉だった。


「何でびっくりしてんの。七楓も行くんだよね? じゃあ、あたしも行くよ。いいんでしょ?」

 涙を袖で拭いながら智恵理が決然とした声で言う。

「そりゃもちろん、いいけど……怖くないの?」 

「怖いに決まってんじゃん。もう一生行きたくない、あんなとこ。でも、何かわかるの。あたし達が助かる方法ってもうそれしかない感じじゃない?」

「……それは」

 確かに智恵理の言う通りなのかもしれない。佐原悟の動きはもう誰にも読めない。こうなった以上、天文部の残ったメンバー全員で呪い返しを遂行する以外に生き残る手はないのかもしれない。

「行こ、七楓。みんなで」

「わかった。行こう。みんなで」

 頷き合って二人で立ち上がった。

 やっと、智恵理が立ってくれた。隣に一緒に立ってくれる人がいる、それだけで手足に力が宿る思いだった。

 そうだ、みんなでやるんだ。天文部の残った三人で。そう、三人だ。絶対に三人だ。お願い芝、無事でいて。月に祈りながら歩き出す。


「え?」

 すると、背後から素っ頓狂な声が上がった。

 見れば智恵理がベンチに座って不思議そうにこっちを見上げている。

「え、あれ? あたし……え?」

「どうしたの、智恵理?」

 ベンチに腰を掛けたまま智恵理は不思議そうにキョロキョロと辺りを見回す。一瞬、小屋に行くのが怖くなったのかとも思ったけれど、智恵理はすぐに立ち上がり、こちらに向かって歩き出した。

 そして、ベンチの角で向きを変える。

「え、智恵理?」

 そのままベンチに沿って後ろ側に回り込み、ぐるりと周りを一周して元いた場所に改めて腰を下ろした。

「え! 何? なんで? なんでまたベンチにいるの」

 そして、また我に返ったようになり、驚きの声を上げる。

 何を……しているのだろう。

「えっと、え? 智恵理? どうしたの?」

「だめだ、七楓」

「え?」


「そっちに行けない」


 は?

「あたし、なんか……そっちに行けないの」


 大真面目にそう言われ、背筋がゾクリとした。

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