四章 芝 大悟(しば だいご)8
あいつは、だめだ。
あいつは、野に放っていてはいけない存在だ。
ポケットの中の果物ナイフを握りしめた。
その時、マナーモードに設定していたスマートフォンが反対側のポケットの中で震えた。
「もしもし、どうした?」
『
「マジでか、いつ?」
『わかんない。でも、電話があったのはついさっき。智恵理、一昨日からずっと様子がおかしかったらしくてずっと部屋に籠ってたんだって。それなのに気が付いたらいつの間にかいなくなってたって。どうしよう、もしかして――』
――
そんな逡巡は直後、表の道路から聞こえた車の止まる音にかき消された。酷く乱暴に滑り込んできたような音だった。
反射的に天文ブックを閉じて小屋の入口から様子を伺う。暗くて顔までは確認できなかったけれど、車から降りてきたのは一人の男。とても慌てた様子の、とても背が高い男だった。
「すまん、鈴前。一回切るわ。佐原悟が帰ってきた」
『え、芝、もう
「いるよ。わりぃ、呪い返しのヒント、もうちょっとだったけど間に合わなかったわ」
『そんなんいいよ、早く隠れて!』
「隠れてるよ。とにかく、こっちは俺に任せろ。今日ここで終わらせるから」
『芝……』
「もし、俺が無理だったら代わりに天文ブックを回収してくれ」
『天文ブック? なんで?』
「永見を頼むな」
通話を切って小屋の入口の陰にしゃがみこんだ。
スマートフォンをポケットにしまい、代わりに果物ナイフを引っ張り出す。
やっぱり、これに頼ることになったか。
まあいいさ、呪いだの呪い返しだのごちゃごちゃしたことよりも、こっちの方がわかりやすい。こっちの方が俺らしい。
生まれて初めて抱いた明確な殺意を具現化するのは、刃渡り十センチにも満たない頼りない武器だった。でも、これで決めるしかない。終わらせるんだ、あいつのゲームを。
佐原悟はまだ俺の存在に気付いていないはずだ。家に入って油断したところを一気に仕留める。急所だとかそんなものはよくわからない。とにかく体当たりで刺し込む。体のどこかに当たればそれでいい。後はもう滅多刺しだ。
「ごめんな、母さん……」
刃先が小刻みに震えていた。
怖くて仕方がなかった。
頼む、莉子、
そう願ったタイミングで、背後にぼんやりと光がともった。
「……え?」
天文ブックだった。天文ブックの画面が小屋の中を照らし出していた。
背中に悪寒が走った。
なぜだ。確かに閉じたはずだろう。なんで、開いている? 考える間もなく大慌てで閉じようと手を伸ばすと、それに反応するように突然画面がブラックアウトし、
「うわああ!」
画面いっぱいに女の後ろ姿が映し出された。
黒いワンピースを纏った髪の長い女の後ろ姿。悲鳴を抑えることができなかった。思い切り声を出してしまった。マズい、居場所がバレる。とにかく早く天文ブックを閉じないと。動き出そうとして、右足が何かに引っかかって床に転んだ。絶望的に大きな音が庭に響く。
なんだ、何に転んだ? 慌てて起き上がろうとしてまた転ぶ。
また右足だ。くそう、何があるんだ。確認するが足元に躓くようなものは何もなかった。
違う、躓いたんじゃない。右足が動かないんだ。突然、右足の感覚がなくなった。爪先から付け根までほんの少しも動かせない。
麻痺。パニックに襲われた。
そんな俺を嘲笑うかのようにまた天文ブックが明滅する。一瞬のブラックアウトの後に女の後ろ姿が映し出され……いや、待て。後ろ姿?
何か違う気がする。さっきまでは真後ろを向いていたはすだろう。今、女は斜め後ろを見つめている。
違う、そんなことはどうでもいい。
今は佐原悟だ。
佐原悟がすぐそばまで来ているんだ。左足だけで起き上がろうとして、今度は転ぶことさえできなかった。なぜだ、起き上がれない。左足も動かない。どうなってるんだ。下半身の感覚がない。まるで、二本の砂袋が巻き付いているかのようだ。麻痺している。
「なんだよ、これ! どうなってるんだよ!」
死に物狂いで腕だけで上半身を持ち上げると、また天文ブックの画面が揺らいで明滅した。女の姿が一瞬消えてまた現れる。再び現れた女はもう、後ろ姿とは呼べなかった。
女は真横を向いていた。
気付いた瞬間、強烈な恐怖に襲われた。
画面の女はこっちを振り向こうとしている。
だめだ。だめだだめだだめだだめだだめだだめだ。
あの女を振り返らせては、だめだ。這うようにして天文ブックににじり寄った。その間にも、横向きの女を映した画面がびりびりと揺れる。
だめだ、また点滅する。また女がこっちを向く。急げ、届け。届く、もうすぐだ。いける。
突然、伸ばした左手がぼとりと床に落ちた。
麻痺、そのままぴくりとも動かない。おい、どうした。なんで落ちるんだ。なんで動かないんだ。動けよ、止まるな。動け動け動け動け。
「動けよ!」
叫んでも麻痺した左手は動かない。絶望が粘液のように体全体に沁みていった。
そして、画面の中の女がまた少しだけこちらを振り向き、
「おい」
上から低い声が降ってきた。いきなり肩を掴まれ、力づくで仰向けに返される。
佐原悟だった。佐原悟が俺を見下ろしていた。大きく目を見開き、苦しそうに肩で息をついている。
ああ、やっぱりお前の仕業だったのか。唾を吐きかけてやりたい気分だったけれど、それはしない。顔を遠ざけられると困るから。
もっと来い。もっと近付け。背中に隠したナイフを握り直した。よし、右腕だけはまだ動く。まだ刺せる。もっと近付いて来い。首を近付けてこい。
いける。後一歩、後一歩だ――。
「お前……もうだめだな」
しかし、寸前のところで、佐原悟の顔が止まった。佐原悟は突然俺に興味をなくしたように体を引き、
……おい、待てよ。
そのまま背を向けて立ち上がった。
……待てよ。
大きな背中が足早に戸口から夜の闇に溶けて行く。
「待てよ!」
そして、また頭の上で画面の揺らつく音が聞こえ、
「――っ」
動かない右の足首を誰かに掴まれた。何だ? 誰かいるのか、この小屋に。細くて骨ばった力の強い手。
「――っ」
さらにもう一本。冷たい手が俺の左膝を掴んだ。脛にずしりと重みがかかる。
いる。誰かが足元から俺の体を這い上がってくる。
誰だ、いつからそこにいた。寒い、触れられた箇所から熱がどんどん奪われていくようだ。
天文ブックがまた明滅した。画面の女はどこを向いているのだろう。もう顔を上げて確認することもできなかった。怖くてたまらなかった。ガチガチと歯の根が合わない。
ああ、だめだ。怖がっちゃだめなんだ。そうだ、百地さんが言っていた。
尾島貴子は人間の恐怖を道標にしてやってくると。
そうか、天文ブックに映った謎の女、あれが道か。一連の怪奇現象の全てが、俺の恐怖を誘うための道路工事だったのか。
「やめろ……来るな……」
寒い、寒くてたまらない。首にだらりと何かがかかった。髪の毛だ。俺の体をよじ登ってくる何かの髪の毛が首を撫で、顎を摩り、唇をなぞって、上がってくる。
「ああ……」
それの顔が、目の前に現れた。
大きな黒目に見覚えがある。濃い眉も張ったえらもどこかで見たことがある。
ああ、写真だ。
この顔は、祭壇に飾られていた白黒写真に写っていた顔だ。
尾島貴子。
それの指が、俺の唇に触れた。
死ぬ。一瞬で確信した。
俺は間違いなく今から死ぬ。
でも、一人では死なないからな。右腕はまだ動く。終わらせるんだ。俺がここで終わらせるんだ。果物ナイフを握りしめ、叫び声をあげて突き上げた。
「あ……ああ……」
遅い。
渾身の力を込めた右腕はしかし、悲しい程ゆるゆるとしか動いてくれなかった。
刃渡り6・5センチ。俺の殺意の象徴は、文字通り蠅の止まるような速度でゆっくりとそれの髪の毛を一梳きし、
「あ……あ……」
何もない空間を弱々しく引っ掻いた。
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